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メンヘラ図書館員が婚活マッチングアプリを始めて考えたこと

始めるきっかけは、私の育ての親の発狂だった。
血の繋がりもない私たち姉弟を育て、彼女自身は結婚する事がなかった。
若い頃、本当に結婚したい人が居たらしいがその彼は別の人を選んで幸せになった。本当に、どこにでもよくある話だ。

私たちを育て終えた後、彼女をガンが襲った。
命は取り留めたものの、その後も再発と長年戦い続けていた。しばらくして姉を同じ病で亡くした後、唯一の肉親となった母親も病に倒れ、誰も助けてくれる人もないまま還暦を迎え、老後の備えもなく、ついには発狂した。

家族同然とはいえ、決して家族ではない。我々には何の法的権利もなければ、想う声すらその耳には届かない。現実に直面して正気でいられる自信がなくて、会いにいくことすらできそうにない私を、どうか許してほしい。

孤独だ。
どれだけ寄り添っても、最後は一人で死んでいかなければならない。
彼女は私にその身をもって教えた。
女は天外孤独と終わりの見えない苦しみに苛まれたまま還暦を迎えると、発狂してしまうのだということを。      

それでも「一人で強く生きていく」という覚悟もなければ、結婚にも恋愛にも向かない私だ。容姿が多少目立つため痴漢やストーカーなどの被害にもそれなりにあってきたし、本質的に男が怖い。業務で不特定多数の視線に晒されるのも、慣れるまでは本当に怖かった。

しかしそんな私の気持ちなんて誰も考慮しようがない。
業務ならやらねばならない。たまに会う実の親は結婚しろしか言わない。女友達は無責任でいい加減なことか、結局は自分の話しかしない。親に至っては「努力もせずに結婚自体を諦めるのは許さない」とまでいう。
恐怖の根底にあるものに目を向けられることもなく、全ては「自分の気持ちの問題」で片付けられるしかないのだ。

そもそも「彼氏欲しい」とか「結婚したい」と言う「誰と」がない願望は、
「無条件に自分を認めてくれて可愛がってくれるなら誰でもいい誰か」が欲しいと言っているようなものだと常日頃から違和感を感じている。
でもその「誰か」にまず出会わなければ始まらない、軽く始まって結婚まで至ることがあるのは事実だし、「結果的に「その人」でなければ、となるのであれば」気にするほどのことではないのだろう。女友達たちは「とりあえず何も考えず会えばいいし、気が向けば付き合えばいい。そんな面倒なこと考えるのは今時あんただけ」と言う。

時代ではなく、価値観が変わったのだ。ただ私がついていけないだけだ。

実際に周囲の友人たちがマッチングアプリで付き合う人が多くなってきた。何人かは近々結婚すると言う。その仕組み自体とそこに集う人々に多少興味があったこともあり、自分も重い腰をあげることにした。
まあ嫌ならやめればいいだけだ、一応「努力はした」ことになるだろうし。
どうせやるなら最も極端なアプリに登録しようと思い、男は高収入・女は加工なしの美人でなければ登録できないという割と厳しい審査制アプリに登録することにした。「そのアプリらしい自分」を演出するための自己紹介文と写真をきちんと用意して。

そして飛び込んだのは「女には美しさ、男には経済力を求めるということが前提の世界」だった。

名前もキャリアも曖昧のまま、あらかじめ自分で用意したラベルの範囲内で判断される、アプリの中の私。まるで通販の商品のように条件検索され、指一本でスワイプされる私。私にとってそうであるように、相手にとっても私は当たりだったり外れだったりする。そんな現実の人付き合いでは口にできないような常識が当たり前であることは想像以上に楽だった。

嫌ならブロックすれば良い。後腐れはなどない。
また次の誰かを探すだけだから。

本当に自分は沢山の綺麗な女の中の一人でしかないのだ。美人が前提の世界の中では自分など特に目立たない、普通かそれ以下だ。無論その中の一人一人を、誰もまともになど覚えていないだろう。

ただその美人の基準は人によって違い、世の中には私がど真ん中ストレートの好みだという人が一定数居ることは知っていたから、ずば抜けた容姿ではないとは言えそれなりのアプローチがあることは予想していた。そして予想通り、沢山の「いいね」をいただいた。

だかその全てに気乗りしない私を感じた時、フラッシュバックしたのは愛されることの苦痛だった。

「あなたのためを思って」と、皆言った。
その数だけ私の体に傷は増え、いくつかは大人になった今も消えない。
「あなたが魅力的だから」と、皆言った。
その数だけスカートの中の私に、潜在的な恐怖が残った。

私はおそらく、そういったものを当たり前のように「幸せ」と呼ぶことを憎んでいるのだろう。愛されることは必ずしも私を幸福にはしなかった。幸せになりたいと願いながら、いつまでもそれを受け入れられる自信がない。

昔、人生一瞬すれ違った男がこういった。

「幸せになりたいとずっと願っているけれど、幸せになったなんて認める気はないし、なってもきっとひねりつぶしてしまう。」

そうやって私のこともひねりつぶすのだろう。知っていたから、黙って手元の煙草に火を点けた。本当に大切な事はいつだって言葉にならないまま、やがて通り過ぎていく。

当たり前に愛し愛されて生きていく。そのことを私たちはずっと認められないまま生きている。

そんな昔のことを思い出していたら、次第にアプリ内での男達とのメッセージのやりとりにうんざりし始めた。他人とは私の鏡だ。貴方のこと、知ると同時に私は私の欲望を知っていき、そんな自分にうんざりするよ。

本当に好きな人とは幸せになれなかった、面影を追いかけても苦しいだけ。ならせめて少しでもお金がある人がいい、美人な人がいい。最低条件さえ満たしていればとりあえずはいい。
無難なことしか書かない自己紹介文では人柄は測れないし、年収や容姿などわかりやすい基準でしかそもそも甲乙なんてつけられない。
年齢や収入で検索と言う名の「足切り」。だってどうせ本当に好きな人とは幸せになれないのだから。お金がなくてもブスでも、気にならないのはその人を愛しているから。
赤の他人に残りの人生差し出すのに、好条件を求めて何が悪いの?ねえ、まさかそれを差別と言って責めるつもり?

アプリの中にいたのは皆そういう
「本当に好きな人とは幸せになれなかった私たち」なのだ。
そして私を育て、発狂した彼女も
「本当に好きな人には選んでもらえなかった未来の私」だった。

近所のスーパーに買い忘れた牛乳を買いに行く。たったそれだけのことが、人生最高のデートになるなんて、私もあの人もその時は思ってもいない。それは息を吐くように、人を愛したことすらもう思い出せなくなることを知らない。

マッチングアプリと言う名の、人の魅力すら商品化された資本主義的世界観の中で、かけがえのない人と言う名の「排他性」を探している歪さ。嫌気がさしながらもしばらく続けていると、そのうち「いいね」を稼いで自己肯定感を感じる自分がいることに気がついた。

男に求められる女の価値が数字として現れ、順位がつく。男に求められないと女として価値がないなんて価値観は、真面目に働いてきた女には腹が立つだけだと思っていたはずなのに、いざ評価を受けると多少いい気になる自分が居る。それまで多少なりともバカにしていた自撮りと盛りの技術は、そうやって自己肯定感を高めるためのテクニックであったと考えるなら、今ならその必死さに納得がいく。

別に今更だろう。詐欺まがいの自分の写真で男に夢を売るのも、ロレックスの写真で女を釣るのも。似た者同士が嘘を織り込み済みで騙されあっているのだから、涙など似合わない。

でも咲いているだけでは手折られない花になれば、きっと次は「選ばれない苦痛」が私たちを襲うことを知っているから、こんなバカみたいなゲームからは早々に降りなければならないことはきっとみんな何処かで気が付いている。

子供時代から自己肯定感をへし折られ続ける私たち。
謙虚さと卑屈は違う。躾なんていらない、たった一度でいいから抱きしめて欲しかったのだ。そうすれば美貌や財力で自分を赤の他人に売り込む未来なんて必要なかった。

人生は誰にも等しく一度きり。
その一回に何をするのかが全てなのに、去り行く裾さえ掴めないでいる。

本当に好きな人にそんなことは出来ない。
恋人になんてなったらいつか別れてしまう。嫌なところは隠しきれない、最後には憎まれてしまう。結婚なんて私よりもっとまともで素敵な人が沢山居る、そんな人の方が貴方にとって幸せよ。だから友達でいましょう。適度な距離さえ維持できれば一生良い関係でいられる。

また愛するなら使い捨てられる程度の顔のない他人にしよう。
今どの男と居るのかさえも判然とせず、名前を呼んでと言われても思い出せない。きっと私にとってはすれ違った通行人Aでしかないの。時々思い出して「ああそうだこの人のこと好きなんだ」と確認しなければ維持できない程度の愛。

「おまえが勝手に俺の幸せを測るな」
「おまえ自身の幸せはどうなるんだ」

そうだ本当は私のことなんて誰にも知ってほしくなかったんだ。
もう上書き保存できない人を愛することを恐れていたんだ。
この自分にすら捉え難い欲望と、思い出しては胸をえぐるあの日の悲しみ。

でもそんな私を責める権利は誰にもない。
石を投げて良いのは、罪のない人間だけ。
どうせ石に打たれずとも最後は一人で死んでいかなければならない。

「なら、せめて、その日が来るまでは。」

そんな狂気がきっと、私の「愛してほしい」。
今となってはこんな愚かな私を選ばなかった、賢明なあの人を誰より愛している。

手のひらに収まるスマホのアプリの世界の中に展開される、これら全ては「私」を巡る旅。

間も無く還暦と定年退職を迎える、人生の女の先輩がいる。独身を貫き、先日同居していた母親を失い、本当に一人になった。
葬儀が落ち着きしばらくした後、私は彼女を見舞った。

その時彼女が吐き出した、呟くような「さみしい」を、私はきっと生涯忘れることができないだろう。

私には選択可能な未来があり、そしてそれはまだ変えることができる。人生とは、結果としての死に向かう、全て過程であって、映画のように結末などない。現在が過去の積み重ねで出来ている以上、その過去は今から変えることが出来ないが、この現在を積み重ねることで未来は変えられるのだとしたら。
幸福の白をひとつ置けたら全てが変わる、人生はオセロなどではないんだ。

そんな言葉を、私は未だ伝えるべき人に伝えられていない。

閉鎖病棟の向こう側、もし会いにいくことができる日が来たなら。私だけは、私だけは最期まで「愛している」と言って抱きしめるから、どうか。

狂気から目を覚ましてくれないか。


後日譚 → https://note.com/yae_y/n/n344b19d56552



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でもそんな気持ちを誰にも言えない、私です。