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砂の女

子供の頃、「将来何になりたい?」という質問が嫌いだった。

将来必ず「何か」にはならなくてはいけないと言われているような気がして、いつも複雑な気持ちになった。
私はいつも私だけでありたかったし、私以外の「何か」などにはなりたくなかった。そんな「何か」などというあやふやなものに対して今から責任を持つことなどできやしないと思っていた。

「何か」になることを要求しておきながら、その「何か」とはなにか。
その疑問に答えをくれる人は誰もいなかった。

小学校の卒業式の時。
一人一人卒業証書を授与された後「将来なりたいもの」をそれぞれ発表してから壇上から降りる、というちょっとしたイベントがあった。
今思えば完全に大人の都合でセッティングされた余興だ。
子どもたちの「将来なりたいもの」を並べ旅立ちを飾り立て、子供達の明るい未来を想像してただ雰囲気に浸りたいだけで、そこでの発言に責任など当然ながら求められていない。

「宇宙飛行士になりたい」
「パイロットになりたい」
「ケーキ屋さんになりたい」
「可愛いお嫁さんになりたい」

50数名分の「何か」が並ぶ様は馬鹿馬鹿しかった。みんななりたいと言いながら、本気でなるつもりなどなく、将来の夢は文字通り夢のまま。大勢の前で「将来私はこうなる」という宣言をするというのに誰も責任は持たない。

結局悩んだ末、私の将来なりたいものは「やさしいひと」とした。

私は「何か」になれる自信がなかったし、たとえ「何か」になるために今後努力したとしてもなれる保証なんてどこにはない。やさしいひと、なら心がけ次第でなれる。何よりも果たせない約束も無責任な発言も、自分に嘘もつきたくなかったからだ。

卒業証書の授与は出席番号順だったため、私は一番最後だった。
そのため参列していた保護者たちの印象に残ったのだろう。
大人たちは立派だと私を褒めてくれた。

だが母だけは私を許してはくれなかった。
みんな「なりたいもの」をきちんと言ったのに、どうしてお前だけあんな変なことを言ったのだと烈火のごとく怒った。当時の私は「やさしいひとになりたい」というのは素晴らしいことなのにと母に対して不満を持っていたが、今思えば母は知っていたのだ。私が「何か」になることから逃げていて、そのために「やさしいひと」という耳障りのよい言葉を選んだだけだということを。そしてただ将来から逃げるためにそんな言葉を安易に選んだ私が許せなかったのだ。

卒業の時に「将来なりたいもの」を印刷してラミネート加工したものを卒業証書と一緒にもらったはずだが、実家のどこにもないことを思うと捨てたのだろう。

「やさしいひとになりたい」という願いは、そうやって母に捨てられた。

それからしばらく経ち有名進学校の高校生になった頃、クラスメイト6人くらいで机を繋ぎお弁当を食べていたら「将来何になりたいか」という話題になった。

「弁護士」
「裁判官」
「薬剤師」
「医者」

その頃にはもう「どうせ法学部に行ったって、ふつーにシューカツしてどっかに企業に就職するほうがメジャー」と思えるくらいには「何か」に対して知識もついていて、そして不貞腐れてもいた。あんたは?と聞かれたので、誰とも目も合わせずに「OL」と答えた。

するとその場にいた全員が困惑した表情で固まっていた。
そしてしばらくして慌てたように「…まあキャリアウーマンっていうのも素敵よね」とだけ誰かが言って、話題は無難な何かへ移っていった。

なぜ私は自分の「なりたいもの」を他人にフォローされなければならないのだろうと、考えて初めて気が付いた。
なりたい「何か」とは今より素晴らしく、出来れば社会的に高い身分であることを無意識で期待していて、それ以外の答えなど想定していないということに。

実際文学部志望だったのでそんな社会的身分の高い職業など望むべくもなかったのだが、でもそれも思えば逃げだったのかもしれない。
将来「何か」になることを自分で決めるということから解放されて、私は「私」としてそれ以上でも以下でもない存在として自由になりたかった。

「やさしいひと」を言い訳にしないだけ少しは大人になった。ただそれだけだ。

未来を変えるのではなく今ある現在が続くことを願うのは許されないだろうか。怒りに歪んだ母の顔は何度でも脳裏に蘇って、私を追い詰めていた。

いつまでも現実に追いつかない私を待つことなく時間は流れ、私が恐れていた未来はやってきた。安易に流されてさえいればなるはずだったOLにも、キャリアウーマンとやらにも結局私はなっていない。あの時、裁判官や弁護士になりたいと言っていた連中は、みんなOLや主婦になっている。憧れは窓の外でしかなかったことにさして疑問を持つこともなく、みんな「何か」になったのだ。

この世界は、常に「何か」であることを要求してくる。
娘、嫁、母、叔母、姉、妹、部下、上司、先輩、後輩。
それらは数え上げればきりがない。

あれほどそれ以外にはなれないと思っていた「私」はどこに行ってしまったのだろう。役割を演じていたつもりが、分からなくなる。人は関係性の中で生きるものとするなら、役割以外の自分など存在しないのではないか。そんな気すらしてきて、誰かと関わるのが億劫になってくる。

昔は「何か」とはなにかを考えていたのに、今は「私」とは誰だったのかを考えている。

「何か」ではない、純然たる「私」を確信できたあの時間は、思っていた以上に贅沢なことだったのかもしれない。もう自分を探すほどには若くないが、それが良いとは自信を持って言えない私がいる。

久々に実家に帰った。懲りもせず母は私に嫁や母になることを求めてきた。
大人になって、私が「やさしい」と思っていたものはやさしくなどなかったことを知った今、母に「それでも私はやさしいひとになりたい」と言ったら、どんな顔をするだろう。

怒るだろうか、嗤うだろうか。

結局、私は「やさしいひと」にも、期待されていた程の「何か」にもなれなかった。でもそのくせ「何か」に囚われて生きていて、一方「私」を諦めることもできそうにない。

なあ、君は怒っているかい。
あれほど憎んでいたはずのそれなりの「何か」になってしまったくせに、今以外のどこにも行けないまま、ただ自分を生きたいと願う優柔不断な私を。

祖父の葬儀の日のことを思い出す。
戦後の混乱が続く大阪の、小さな町工場で、我が子である姉妹と血のつながらない兄妹を育てた祖父の人生を私は何も知らないが、町中の人が参列し涙を流す様を見て、祖父はこの土地で愛されて生きたことを知った。

だがそれでも母は最期まで祖父の人生を
「結局何にもなれなかった人生」と評した。

結局何にもなれなかった祖父の遺骨を抱いた。砂のように軽かった。
だっこをせがむ姪を抱いた。砂のように重かった。
そして私は、祖父はもう「何か」になることから解放されたのを悟った。

この世界からの逃亡と失敗を繰り返しては、結局私は甘んじて「何か」を受け入れている。ただ一つ、この「結局何にもなれなかった人生」で分かったことがあるとするなら。

その覚悟を持つことができるのであれば、それでも自分を貫くことはきっと私を満たしてくれるだろうということだ。

その結果、たとえ世界という名の母が、いつか私を罵ろうと。
俺だけはお前の味方だと言った父が、いつか私を裏切ろうと。

それ以上はきっと、要らない。

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