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私の光る君へ〜番外編「オスカルと紫式部と」パリを思えば~迷走

 11日は大河お休み。 
 私は、Web中継される、宝塚大劇場雪組公演「ベルサイユのばら・フェルゼン編」を、我が家で視聴。
 チケットが入手できなかったところ、家で千秋楽・さよならショー付が見られるという、良き時代に恵まれた。

 195×年生まれの私と同世代の、全国の多くの女子と一部の男子は、池田理代子氏描く、上記劇画にはまり、連載中、アンドレの死の翌日、オスカル昇天の翌日、泣きすぎて学校を休む者、腫れた顔で学校に遅刻する者、などが、全国的発生をみたようだ。
【ベルばらについて詳しく語るのは、私見だが、同世代として語り合う場合、粋ではない。大事なのは、そこにあった心なので。】
 
 代々将軍の家柄に生まれ、姉が5人いても兄弟がいないばかりに、男として育てられた、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが、主人公。この男装の麗人が、下男で従僕のアンドレ・グランディエとの愛に悩み苦しみながら、フランス革命に身を投じていく、という(よく考えるとあり得ない)話。
 で、事はそんなに単純ではないが、思い切り縮めて言えば、男装の麗人繫がりで、宝塚歌劇団が舞台化し、大成功を収めた。
【オスカル様が多い中でも、エモンの凰稀かなめ様は極美オスカルだ。】
 
 今年は、劇団結成110年の記念として上演されたらしい。フェルゼン役の雪組トップ彩風咲奈の、さよなら公演が重なってチケット難。
 私はオールドファンで、Webは気楽だ。ラフな姿で、水分も補給し、友人とSNSまでして、娘と懐かしみつつ鑑賞。

 ふと、大河の「光る君へ」が、『源氏物語』を実像化せず、実在の肖像の取りづらい《紫式部》の人生を、実在の肖像の取りやすい《藤原道長》との恋で描こう、という理由がわかった気がした。結果として、柄本・道長は政治家として振舞う時より、虚であるラブシーンにおいて精彩を放つ。その精彩が、「彼」を実在の「道長」から遠ざける。
【ソウルメイトは、違いますよね⁈私は、そう考えていないけれど。】

 光源氏は、原作の文中にあるように「女と見まがうほどに美しい」のであり、複数の女性との関係において、「それを許される身」として、読者はそこに疑念を差し挟んではいけない。疑念を差し挟むと、物語が面白くなくなる。少なくとも「柏木」のあたりまで、光源氏は読者の心の中で、色香という光を放つのだ。
 私は、宝塚のステージで、美しい「光源氏」をこちらも多数見た。ドラマ化、映画化、の作品も見ているので、男性演者によるものも見ているが、今だに、宝塚の「光源氏」が好きだ。【個人的見解】

 オスカルに話を飛ばす。
 連載が終わっても、皆がストーリーから抜け切れず、お気に入りの台詞を言い合った。
 私のお気に入りの台詞は、婚期を過ぎたオスカルに父親の将軍が見合いを勧め、オスカルがそれを頑として跳ねのける言葉である。
 「父上、感謝いたします。このような人生を与えて下さったことを。女でありながら、これほどにも広い世界を、人間として生きる道を、ぬめぬめとした、人間のおろかしさの中で、もがき生きることを、もう後悔はございません……」

 ローティーンの発想の飛躍はすさまじい。
 無論、大きな勘違いだったのだが、私はこれを大学に行き、男と伍して働くことだと、思ったのだ。
 私は、上述のオスカルの台詞を胸に深く収めて、父に大学に行きたいと言い、父はジャルジェ将軍のようにしょんぼりと、これを許した。

 母は、嫁の貰い手がなくなると騒ぎ続けたが(隔世の感があるが、全くまだそのような時代で…)、せめて国文科にと説得され、彼女の反対のお陰で、却って私は受験勉強に没頭できた。そして、母は自身の見栄が張れる大学に私が受かってしまうと、「ガッコウノセンセ」を条件に出し、不幸な彼女の生い立ちの故(あくまでも私見)に、私はこれを承諾し、修行の40年ばかりを修了した。

 紫式部は『源氏物語』の「蛍」の巻の中で、光源氏の養女・玉鬘への小言として、有名な「物語論」を展開している。

女こそ、ものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。

ここらのなかに、真はいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書きたまふよ。
~~女性というものは、面倒がりもせず、人にだまされようとして生まれついているものだ。
たくさんの物語の中にも真実は少ないだろうに、そうとは知りながら、このようなつまらない話に心を奪われ、だまされなさって、蒸し暑い五月雨の、髪の乱れるのも気にしないで、お写しになることよ~~
※平安時代では、書く(写す)=読む

さても、この偽りどものなかに、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた心つくかし。
~~それにしても、この虚構の物語の中に、本当にそうだろうなと情趣を見せ、もっともらしく書き綴ったのは、一方では、はかないことと知りながらも、無性に心を動かされて、かわいらしい姫君が物思いに沈んでいるのを見ると、少し興味が湧くものです。~~
 
また、いとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。
~~また、決してありそうにないことだと思いながらも、大げさに誇張して書いてあるところに目を見張る思いがして、落ち着いて再び聞く時には、憎らしく思うが、どこか面白いところがきっと明白にあるのでしょう。~

 オスカルは7月14日、バスティーユ攻撃で死ぬ。
 多くの10代の乙女たちに、忘れ得ぬ言葉を残して…。
 
 自由…平等…博愛…
 この崇高なる理想の永遠に人類の堅き礎たらんことを…
 フランスばんざい。

 私は6×歳にもなって、池田理代子氏の示唆の深さに驚く。
 そうだ❢「理想」なのだ❢
 ずっと見続け、努力して、なお得られぬものかもしれないが、それでも見続けるのを諦め、視線を逸らしたら、はるか彼方に遠ざかってしまうもの。

 「光る君へ」の、まさに前回。
「学問が女を幸せにするとは限らない」と、しれっと言う為時。
「父上が授けてくれた学問が、私を不幸にした事などございません。」
「私は賢子には、書物を読んで自分の生き方を選んでいって貰いたいです。」
そこへ帰ってきた弟・惟規にまで
「賢子は姉上のように難しいことを言わない方がいい…女はその方が幸せ…」なんて、言われている。

 未だに惟規のような考えの男は多いのだろう。
 それでも、気づいて覚えてほしいことがある。
 私達日本女性こそが、千年以上の長きに渡り、男性から(精神的な圧迫はあったのだが、)文字を、読書を、学びを、禁じられなかった、稀有な民族の裔であることを。
 それに、絶大な力を与えたのは、『源氏物語』だろう。
 そこに政治的思惑があっても、後世に伝えた、藤原道長も、偉大な人物だ。

 自由、平等、博愛=平和、いまだ、地上にならず。
 女子の教育権、生存権さえ、怪しい。

 千年後には、「日本人」は国家を形成し得ない。
 その時にも、『源氏物語』は、自由・平等・平和を愛した民族の存在証明であり続けるだろう。
 平和❢平和❢平和❢紫式部、ばんざい。

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