頭は悪くても情報にはありつきたい。
先日哲学問題の企画で
倫理的なのは誰だという問題であったのだけど、
倫理的であることと、合理的であることをごっちゃにしたらダメだと思って結論を出しました。
だけどその前に、私の中で倫理観と道徳観がごっちゃになっていました。
相手のことを考えて復讐を止めてあげることが人としての道だと思ってこれを倫理的だと思ったんだけど、倫理と道徳の違いを改めて調べたら、これは道徳のほうでした。反省。
倫理的っていうのは、法律などのルールを守るという場面で使うのが主なんだそう。
合理的なこと、倫理的なこと、道徳的なことは、それぞれ別々な判断基準になりますね。
どれも間違っていないけど、どれか一つだけで判断するのはちょっと浅はか。そういう風に感じます。
倫理と道徳を調べていて、アリストテレスの倫理に行き着きました。
アリストテレスの"倫理"のあり方は、あやふやでなくてちゃんとしてそうな予感がします。
『倫理は常に変化する世界の中で最善を目指す。』
んだって。
こんなことは当たり前のように思うけど、何にとって最善なのかっていうことをアリストテレスは解説してるかしら。今から調べようと思います。
仏教では、復讐したいとかの苦しみの根っこは執着というんだそう。
この根っこの執着に気がつくことを"悟り"というんですね。
昨日、"悟り"というプロセスがこれからどんどんテクノロジーによって普遍的になっていくということを肌で感じるということがありました。
本当にそういう時代になった時に、宗教というものの恩恵を健全に受けられない子供は、情報格差のようにその生活に影響してより精神の発達の差が大きくなりそうだなと思ったんです。
健全な宗教とか、復讐心のような苦しみへの適切な対処の仕方とか、精神の成長発達についての知識とかそういう情報に触れる機会がなかっただけの人たちを蔑ろにするのは差別的です。
安全な生活というのが大前提であるし、未熟なことは本人のせいではないことの方が多いから配慮が必要だなと思います。
そういう意味では情報に触れる機会の多い若い者の方が有利な場合もあるし、"歳をとっているから精神的に未熟ではない"ということはもはやありえない。今は若者よりも未熟な高齢者が沢山いると思います。それはただそういうこともあるということ。情報の格差だったり、時代背景の違いだったり。。
この機に、というかいつも知りたいんだけど、
復讐心を持って苦しんでいる友がいたらあなた
ならどうするかという問いについて改めて考えました。
復讐心を胸にしまって普通に過ごしていても、たまに派生するイライラや耐え難い寂しさに襲われて辛そうにしてる。復讐は悪いものだと知っているから、復讐心を持っているとも認めたくない。
そんな人がいるとします。
派生したイライラや寂しさをその都度聞いてあげればその場は落ち着くけど、本人の苦しみはずっと燻ったまま。
そんな本人の心が抑制されているのが分かるときに一番必要なのは安心と、本音の発散
変に安心させてしまったら、私がもたらす安心に依存してしまう。って怖い時があったんです。
私がもたらすも何も、心の平常時には安心感があるのが当たり前ということをなぜかすっかり忘れていました。
ただ、話を聞いてあげるというのは、"安心"ではなくて寂しさが満たされた高揚感、"悦にひたる"ような気分というものしか提供できない気がしてやっぱり私は不得意な気がします。
復讐はあまり問題ではなくて、復讐を我慢することによる八つ当たりがなかなかに横行している問題だなと思っています。
だから、復讐の根っこの執着をどうするかはすごく大切ですよね。大切な人だからよけい気になって気になって何もできない自分にできることはないか探してしまうけどあんまり無かったりします。
2000年続いているイスラエルとパレスチナの問題がまだまだ泥沼なのが悲しくて落ち込みますね。
日本だってなんだかんだ明治維新後だし、戦後だし、古き良き日本の陰にいた部落差別とかの問題もまだまだ解決できてないから、よその問題に悩んでる暇はないけど。
そもそも起きた出来事についてどうしたらよかったとかは愚問ですよね。
先祖が情弱だったからw
なんかしてあげたくて仕方ないこの気持ち。
なんだろう。先祖の未練かもしれないし、これこそ執着なのかもしれません。
これをそのうちA Iみたいなのが教えてくれるようになったらめちゃ便利!そう割り切れるものでもないですけど。
とりあえず
アリストテレスの倫理学がどんな感じなのか今更勉強しようー
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?