挫折して入った高校での生活

前回の続きです。

滑り止めの33群は3つ高校があったけど、イメージ的に行きたくないところがあった。なぜなら自由とかバンカラとかいう噂で、わかりやすくいえば不良が多いということ→イジメられるという想像をしていたが悪い予感が当たった。しかも自分の中学から軽いイジメを受けていたやつと小中と一緒の嫌な奴も同じ学校になった。嫌なやつと一緒というのもこんなバカ二人と同じレベルであることも最悪。ほんと堕ちたものである。

おまけに1年の時のクラスは自分の学生生活の中でも最悪に近いものであった。まず担任との相性が悪い。今から考えればフレンドリーな先生ばかりではない、むしろそういう先生もいるとしたもんだが、とにかく頑固で生徒の側に一切立たない。正直顔も見たくない。

クラスの連中は前述の同じ中学の奴こそいなかったが、それより悪いようなザ体育会系の運動ができないやつをいじめるような奴ら何名か。自分は中学の時野球部にいたが、下手でも頑張っていたせいか部内ではイジメられなかった。でもバスケ部、サッカー部の奴らからはイジメられていた。今サッカーのワールドカップやっているが自分が気が乗らないのはサッカー部の奴らにイジメられていたからである。

高校では卓球部に入った。春休みの卒業旅行で小学校の仲が良かった友達で伊勢に転校して行った子がいて遊びに行ったのであるが、彼の卒業アルバムを見て卓球部の女の子で大変な美人がいたからである。さすがに自分のレベルで高校でまで野球はできないし、そういうくだらなくかつ本質的な異性を目的とすることは決して不健全ではない。

とにかくひどいクラスであったが、スポーツだけでなく勉強でもマウントを取られた。高校になると中間試験、期末試験の結果で順位が知らされるんだね。もちろん他人には知られないけど、教えあったり雰囲気とかでわかる。自分は中学ではずっと学年で5位以内だったんだぞ、とかいう微かな誇りが吹き飛ばされ、理科や社会の相性の悪さ(地学生物はまるっきりダメ、地理も苦手)ときたからクラスで20番前後という端にも棒にもかからないところ。で、それを知っているかのように勉強ができそうなグループの奴らが点数教え合おうぜという。

で、英語だけは相変わらず得意で90点台だったか、これを教えたところ「ふーん、英語はみんな成績いいんだ」とこいつでもそれぐらい取るんだ、という反応。他のところならいざ知らずこの学校でその言い方をされるとは。

でもその連中とは徐々に親しくなっていったからまだ良かった。問題はイジメる体育会系の奴ら。はっきり聞かなかったけどそいつらの方が成績がいいという。今まではイジメられても自分の方が勉強が上、というのが救いだったがそれもない。

本当、こんなことなら一つ上の34群に行っておけば良かったと何度思ったことか。この手の後悔は本来上のレベルに行ってから下の方にしておけば良かったというのが普通である。自分の場合前に書いたように内申が悪かったから、33群なら本番の試験220点でOKだったが(それでもこの学校の下の連中にはそんな簡単ではない)、34群だと250ぐらい必要ということでかなりリスクが高い。それと場所の問題があって33群だとどの高校になっても杉並区内で中央線の南側なので自転車で10分以内だったが、34群だと全部練馬区であるため遠い。そういった事情でこっちにしたのだ。

暗い学生生活の中、楽しかったのは卓球部である。期待に反して女子部員は少なくかつ可愛い子はほとんどいなかったが、卓球そのものが楽しい。0から始めたので最初は素振りばかりであるが、そのうち打たせてもらって球が返せるようになると嬉しい。何より同期の男子部員がいいやつばかり。在学中はもちろん卒業後も仲良くさせてもらっていた。還暦になる今でも付き合いがある奴は生涯の親友である。

クラスの勉強よりの奴らとはスッキリ仲良くはできなかったもののクラスの可愛いと思っている女の子を教えあったり、麻雀をやったりもした。徐々に仲良くなったところでようやく1年生が終わる。

自分の成績は酷いもので英語が5、数学が4以外は全部3。美術がなくなってほっとしていたがある意味中学時代よりひどい。特に生物、地学は両方とも赤点を取り、追試で何とか認めてもらったという救い難い状況。

卓球部の奴らとも何気なくその手の話をしたらエースと第二エースはほぼオール5らしい。卓球であんなにお世話になって人間的にも尊敬していたけど勉強でもそんなに差がついていたとは。これは頑張らなくてはいけないな、とさすがに奮起した。

2年になってクラス替えがあり、担任の先生も代わった。この先生は非常にいい先生で自分とも相性が良かった。不良っぽい男はむしろ増えたがそいつらは自分に無害だったのでむしろいい奴に見えた。環境が変わり、自分も優秀な卓球部員に刺激を受け勉強もそこそこ頑張ったので急激に成績が伸びた。身も蓋もないことを言えばこのクラスは1年の時よりかなりレベルが低いので自分の相対的順位も上がった。それと理科社会の相性の良さも大きかった。2年では理科が物理と化学、社会は世界史と倫社で、1年生の反省も活かし頑張った。

2年になると科目の先生も当然変わるがこの先生方は人によっては中間試験とかの結果でトップや2番の生徒の名前を発表する。で、別にそれを目当てに頑張ったわけではないがよりによって発表する科目で自分の名前が出る。英語2科目、物理、化学と4科目も自分の名前が呼ばれる。初めは嬉しかったしどうだ!の気持ちもあったが毎回だとだんだんクラスの雰囲気もシラっとしたもんだし自分もハイハイ、ってなものになる。

おかげで主要5科目国語を除いて5を取ることになる。これが本来の実力、とか言いたいところだが単に周りのレベルが低いから浮き上がったに過ぎない。特に物理化学はアレルギーの如く苦手な生徒が結構多いのでそういう人に合わせて問題が易しくなっていたので他のレベルの高い学校とかだとどういうことになっていたかわからない。

卓球部は男子卓球部と女子卓球部ということになっていて同じ場所で練習はするもののほとんど交流はない。ただ顧問の先生がたまに同じようなレベルの男女で試合をさせたりする。自分は1年の終わりに一つ上の憧れの先輩と試合をしたが、惜しくも敗れた。この先輩に対する想いは実は大変なものでこのことを書き出すとまた私小説が書けるとしたものだが、ここでは省略する。一つ言えるのはこの先輩に惚れ込んでいたため、他の女の子はほぼ眼中になかった。正式に諦めるのはこの時の約20年後である。

そんな中、2年生になると1年生の女子部員がかなり大量に入部してきた。経験もあり、中には都大会で優勝した子もいるという。一気に女子卓球部も賑やかになった。反面練習は週3で少なく、場所も狭いので全員が台につけず練習としては不満が残るものとなった。それで練習のない日は中野の体育館に行ってやったりもした。

自分のレベルは初心者の練習はできるもののまだ試合ではとても勝てるレベルにはなっていなかった。にもかかわらずその都大会優勝の女の子と試合をさせられた。もちろん完敗。特別に可愛い子ではなかったが一芸に秀でているの光るものがあり魅力的に映った。同期で惚れてしまう奴もいた。

さて2年の後期、文系理系を決定しなくてはいけない時期になった。成績では相変わらず英語が良かったが、自分は勉強していて数学の方が面白かった。だから大学では数学を勉強したかったが、中学のときから理科は苦手であった。物理と化学はさほど難しくない段階だからいい点を取っているに過ぎないことは重々承知している。

ただ、英語方面を究めるには実力が足りないとも思った。実は1年の時に英検2級を受けて完敗しているのである。何よりも自分は乗り物酔いする人間で小学生の頃よりは良くなったものの飛行機になんて乗りたくない。英語を活かした勉強、就職をした場合に海外に行くことは必然的に多くなるであろう。飛行機に10時間以上乗るなんてほぼ地獄であろう。

というわけで結局理系クラスにした。今思うと受験だけなら文系でも英語、数学、国語で受けられるところも多かったしこの選択はどうだったか。もし浪人していたらいわゆる文転もしたかもしれない。このときはとにかく大学で数学を勉強したい、それだけを考えていた。

3年になるときにはクラスも担任も変わらない。1年の時なら発狂しそうだったが、2年のクラスは無難だったのでこれは恵まれた。つくづく色々な面で環境は大事である。こうしてみると運不運はプラマイナス0かもしれない。

相変わらず卓球部は楽しかったが、ほとんどの部員は2年の終わりに引退した。自分は大会とかに出ても大体1回戦負け、初勝利を挙げたのは2年の1月で高校時代の通算成績は1割程度だったのではないか。でも部員と相性が良かったし卓球そのものも楽しかった。それで夏休みまで部活は行った。

塾に行かない我が家でも3年になるとさすがに、ということで代々木ゼミナールで英語と数学2コマ行かせてもらった。数学の一つは東大特進コースというもので誰でも受けられるが、もちろん東大を目指したのではなく数学の難しい問題をやってみたいという動機に過ぎない。面白かったが役に立ったかは疑問。

夏期講習も受講したし、模試も受けたけど正直ぱっとしない。いくら学校でトップクラスでも大学受験となると現実は厳しい。よく覚えてないけど理科大や上智は問題外、青山学院あたりでC判定ぐらいだったか。

この頃の都立高校、特に自分の学校なんかは男子は9割が浪人するということで自分もはじめから浪人するつもりこそないものの少なくとも現役の時は早慶は無理(理科が2科目あるから)、理科大の数学科は英語と数学だけだから本命、で上智や立教など数学科がある大学は理科1科目で物理を極めなくてはいけないのかあ、とか思っていた。

夏休みが明け、担任の先生が推薦入学があるけどどうか、と言ってきた。自分は1年の時ひどい成績だったので無理でしょう、というと理系の場合4.0から資格があり、3年の成績もいいから届くという。で、上智は学科ごとに募集するから5学科あるけど試験がある、慶應は2名だけど学内通ればほぼ受かるらしい。その話を聞いてちょっと調べたら慶應の工学部(当時)は4年間日吉キャンパスのさらに奥の矢上台というところで過ごすらしい。対して上智大学は1度だけ行ったことあったが四谷で非常に交通の便がいい。慶應の方がブランドは高いが、それだけ人気が集中するであろうと思い評定が自分よりいい生徒はいくらでもいるだろう、上智なら試験があるし数学科が被ったら物理学科でもいいとか思ったので上智の数学科の推薦を申し込んだ。まずは学内を通るかの勝負である。

推薦試験というのは英語と数学らしい。これは好都合。二次試験で作文、数学、面接があるらしい。推薦というのに手が込んでいる。こんな面倒ならみんな敬遠してくれ、と祈ってたら通じて学内を通り試験まで50日ほど、ここから自分の生涯の中で随一というぐらいの勉強の生活が始まる。

試験に出る英単語、をカードにして覚え込む、数学の問題を片っ端からやる、もう昔のことなので覚えてないが効率とかいうことは一切考えない。ひたすらガリガリやるだけである。身体を壊してはいけないので睡眠時間とかにも考慮しつつ学校以外で7時間勉強するという計画にし、学校でも休み時間昼休み関係なく勉強した。正直勉強しないと落ち着かないという心境でもあった。模試の結果も良くなかったしここで落ちたら間違いなく浪人という危機感もありそれこそ狂ったように勉強した。

あんなに勉強したのは人生でもないというぐらい勉強したおかげで一次試験は英数ともにマークシートであったため割と手応えがあった。ところで推薦の試験というのにざっと100人以上は受験者がいたようだが競争率はどれぐらいなんだろうか?3倍?それ以上?それじゃ本物の受験と変わらんじゃん。

あと、試験会場で一人の女の子から声をかけられた。中学でクラスが一緒だった子らしい。さほど勉強ができた印象もなかったので気が付かなかったが、31群に行ってたみたい。31群は33群よりさらに落ちる。でもそういうところからも募集しているということはそんなにレベルが高くないのか、でも入って頑張ればレベルが上がってる可能性もある。まあ気にしないでおこう。

目論見通り一次試験は受かり、二次試験対策であるが、作文や面接は正直やりようがない。とにかく数学の過去問、他の大学の問題、その他ひたすらやるだけである。上記と重なるが、効率のいい勉強法なんてないと自分では思う。学問に王道なし、基礎を固め、問題を解きまくる、それしかないと思う。基礎の固め方、どういう問題を解くか、というのは人それぞれ、大学それぞれで違うであろう。

二次試験では数学が大きく3問出て1問はでき、1問はできず(それで考え方とか式とかをわかる範囲であれこれ書いていた)、もう1問はできたのかどうかわからない、という感じであった。面接でも聞かれたのでそのように答えた。それと志望動機の他に大学院に行く気はありますか?と聞かれたので思いっきり元気に「あります!数学を極めたいです!」と答えた。まあ面接の返事としては最善なんだろうがこの時は本気であった。

二次試験が終わり四分六でダメとふみ、さて理科大の英語と数学に集中するか、と思っていたが、国立大学を調べていくうちに横浜国立大学の経済学部が二次試験は英語と数学のみ、ということでこれだ!と思いじゃあ共通一次どうしようとか悩んだ。英語と数学で満点を取り400点、750点にするには国語と理科で300点を目標とし、社会で何とか拾うとするしかないか、と思っていた。社会は学校の試験ぐらいしかやったことなかったしそもそも科目として得意なのがなかった。日本史は小学校からやってるからまあいいとしてもう1科目、、、政治経済?でも共通一次まで2ヶ月、国語は出たとこ勝負で理科社会を中心に勉強するしかないな。それにしても推薦の試験が終わって気が抜けて風邪ひいちゃった。早く治して取り組まないと。

気が抜けた上あまり好きではない科目を勉強するということで推薦の試験前ほどの熱意はなく勉強をしていたが、とある日家に帰ったら母が先生から電話があって上智の推薦受かったって。もう一度学校に行ってごらん!と言われた。あの日を生涯忘れない、と言いたいところだが11月の中旬を過ぎたとある日としか覚えてなくて日付なんか全く。

ともあれ自転車では10分もかからないしそういう話なら喜んでということで学校へ戻ると一部の生徒は知っていたようでおめでとうと言ってくれた。職員室に行くと、よく頑張ったと言ってもらえた。嬉しいというよりほっとした。これで社会の勉強をせずにすむ、受験勉強から解放される、と。

ただ自分としては評定4.1は3年の1学期の成績に随分ゲタを履かせてもらっていると分かっていたのでこれから緩んで評定が4.0を切ったらどうしようという別の心配に及んでいたから浮かれてばかりもいなかった。それと気が抜けて試験が終わってからの風邪がよりひどくなり人生で一番遊べる時間が咳き込んでばかりであまり楽しく無くなってしまった。

卓球部は成績がいいのが多く、他にも数名推薦で決まっていた。自分を含めて4名だったか。今も付き合いがある生涯の親友も何気に推薦を決めていてその後卓球部に参加した。

めでたし、めでたしであるが、我が家ではそうはいかなかった。母は喜んでくれたが、父は単身赴任で大阪に住んでおりこの推薦の話はしていなかった。もともと受かる可能性の低いものであったし万が一受かったらその時はそのとき、と思っていたが報告すると父は激怒した。曰く「上智?なんだそれは」父のような昭和ひとけた世代は上智大学というのを随分下に見ていたようである。その後「上智と聞いたときは本当にがっかりした」というのを死ぬまで聞かされた。自分は福岡大学の短期部しか出てないのにね。それにしてもあまりにしつこい。

無視していい話ではあるが、その後の人生いいことがなかったのでこれから書くエピソードがこれまた人生のifになる。

推薦の際に慶應と上智が来たが普通どちらかに行かせてやると言われたら10人中8人は慶應と答えるだろう。自分も慶應はかっこいいという響きを感じなかったと言えば嘘になる。ただ自分の評定は4.1である。自分よりいい人は何名も知っている。これで慶應を申し込んで切られて受けられたはずの上智を受けられなかったら一生後悔するであろう。そう思って上智にした。もちろん上智は女の子が多くていい思いをするという下心もあった。

しかるに慶應は枠が2つあったが、応募者が4.0に達してなくて1名しか合格者が出なかった。枠を一つ無駄にしたわけである。自分としてはそれを知ったのは上智に受かった後だったが、その前だと発狂したであろう。慶應愛があればリスクが高くても申し込んだかもしれないが自分はそこまでではなかった。ただ早稲田だったらわからない。でも早稲田だったらそれこそ申し込まなかった人でも申し込んでた可能性もある。4.1で学内勝負はあまりにもリスクが高すぎた。

その時はそう思ったし上智もいい大学、と思ってたけどその後の人生がパッとせず、かつ就職した会社を指名解雇されてみると慶應だったら学閥とかあったから指名解雇はなかったはず、とかお見合いも100回以上失敗したけど釣書の出身校での上智と慶應のインパクトの差は強烈。会ってくれない人も会ってくれたかもしれない。そして文字通り死ぬまで言われ続けた父の言葉。

ともあれ、大学で人生が決まるわけじゃないが上智大学での学生生活が充実したものであればこんな思いを今更してなかったはずなので高校の時の選択を後悔するというより、大学生活及び社会人生活の方を後悔している。それと親の言葉は本当に大事なので子供達も受験が2024、2025とあるので大学に対する不満とかは絶対に言わないようにしようと思う。

大学生活についても書こうと思ったが、長くなったのでこの辺で。
ーーー続くーーー


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