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大学時代 友の不在

本記事はこちらの記事の経緯に基づきnoteからのお題をテーマに執筆しています。今回のテーマは「忘れられない先生」です


去年今年と新型ウイルスの影響で大学生の通学がめっきり減っているのは周知の通りだ。
スマホなどでつながってはいるけれど、ほんとうの意味での友達がなかなかできず辛いそうだ。

うんうん、それは辛いね〜なんて思いながら報道をみていたが、
ふと自分は大学時代、構内に友達はいなかったことに気づいた。(よく考えたら高校3年生のときの宿泊イベントにもいかなかった位だからそういう、友達作りが下手くそなだけなのだろうけれど)

私は多摩美術大学(以下タマビ)の油絵科出身、大学院もタマビで美術研究科というところ出身である。
大学院時代は随分、人とはなしをした気がするが、大学時代には覚えがない。友達がいなかったのはなんでだろうか。

きっかけとしては、通学する気がなかったからだと思われる。
今振り返ると全てが浅はかだったのだが
当時は、仮面浪人して次の春からは東京芸大に行くものと考えていた。

普通の大学生活と成功して予備校へ行くのは困難に思えるかもしれないが、それが可能だったのである。
当時のタマビの油画にはグループ1「具象」、グループ2「抽象」、グループ3「現代美術」という3つのグループがあり、学生は自分の好きなクラスに属すことが可能だった。
一番最初のグループ選択の際、「予備校に絵の具を置いておきたいから、一番絵の具を使わなくて済みそう」という理由でグループ3(以下グル3)を選んだ。
ちなみに、以降すべてのグループ選択の際にグル3を選び在籍し続けた。これはそこそこ珍しいケースといえる。

ほかのグループのことはさっぱりわからないが、 当時のグル3は非常にゆるく、中間講評や発表日どは出席をとるものの、一日の大半をしめる「実技」の時間は特に出席をとらない。
現代美術ということで絵画にとどまらず様々な表現手法が許されており、撮影やパソコンでの編集などを行う者も多かったから必ずしもアトリエにいなくてよかったからだ。
一応、授業時間内に教授がアトリエを回り、アドバイスなどをくれたりする。
なので、特に大学にいかなくても必修単位はなんとかなるのであまり通わずにいた。友人がでいないわけである。

予備校講師からは「芸大に受かってくれたら予備校の実績になるから嬉しいけど、この一年がもったいない気がする。タマビのグル3は君にすごく合っていると思うから受験生なんてやめてはやく創作活動に集中してほしい」と言われていた。一応、特待生枠だったので授業料はほとんど払っていないに等しかった。
予備校にとって、私が在籍するメリットは芸大への合格実績を残すことなのでそこに至らない可能性を講師は感じ取りアドバイスしてくれていたのだろうと思う。
本気で浪人をする人とは真剣さや熱量が違ったのだろう。あまり伸びない一年であった。不合格であった。

2年目の仮面浪人をするガッツもなく、2年生の春からタマビに通うことになる。ほぼ人間関係が完成されている中に私という異物を積極的に投げ込む勇気を持ち合わせていなかった。

進級ということでまたグループを選ぶことになったが、未だに各グループの特性を理解しきれていない私は「グル3は君にすごく合っていると思う」という予備校講師の言葉を信じ、グル3を選択した。

みんなが仲良く過ごす中、こそこそと過ごしていた。
油絵科の学生には複数人で過ごす制作場所が与えられるのだが、他の人がいそうな日はなるべく行かないようにしていた。
最低限だけ座学は受けるようになった他は、あまり1年生の頃と変わらない学生生活であった。

とはいえ、提出日に近づくと、「人がいない方がいい」なんて言っておられず、アトリエで制作せざるを得ない状況になる。
製作中のアトリエに人が入ってきた。学生ではなく教授の堀浩哉氏であった。

「君がいるとは珍しいね」と、驚いた顔をする堀先生。
そりゃそうだ、幽霊学生がいたのだから。
同室の学生は熱心なタイプだったから彼女に指導しに来たんだろうに、申し訳ないなと思う。

近づいてくる堀先生。
何を話したらいいかわからず、とりあえず手を止める自分。

「1年生のとき、君はほとんど大学にこなかったけど、最近はまあまあいるんだってね」
うわあ、恥ずかしいなあ。

「僕は学生時代、大学を爆発させて退学になっている。いまは教える側としてここにいるわけだけど【戻ってきた】という意味では君と同じなんだ。」
爆発?聞き慣れないフレーズに驚き、先生の方を見る。

「ははは、本当に君、大学に来てなかったし、さては友人もいないな。みんな知っていることだよ」と笑う。
友人がいないということを言われ、すごく恥ずかしくなっていると、
「いや、気にすることなんてない。友人同士で慰め合ったり馴れ合うのは芸術家として生きるには障害でもある。制作は基本的に孤独なものだ。友人からのアドバイスなんてものは参考にならない。自分をいかに追い込むか、なのだから。なまじ最近の若者は表面的な付き合いがうまいからよろしくない。君はせっかくだからこのまま行きなさい。周りの学生たちが学食の何が美味しいだとか文化祭では何をするだとか話していても、気にせず作り続けなさい。1年経って、馴れ合わずにいられる状況にとどまれるというのは幸せなんだ。」

本意かどうかわからないが、私の隠しきれない劣等感を払拭しようとしてくれたのであろう。
それを聞いてからは、あまり一人でいることが億劫ではなくなった。

堀先生からは、作品を売れやすかったり評価されやすくする工夫だとか、そういう指導を受けたことはなかった。
欺瞞、虚栄、惰性、ホットなテーマに飛びつくことの危険性、観察を続けるということといった創作する上での心構えの問答を繰り返しただけだった。
それだけであっという間に学部卒業となった。友達はいなかった。

大学院に進学(ある意味で「入院」ともいう)し、引き続き堀先生に指導を乞うた。
また、130人ほどいる学部とは違い、大学院は少人数である。
「就職もできないし、とりあえず進学した」という人もいなくはなかったが、基本的に創作活動に熱心で作家として食っていこうという意識の人が多かった。
そういう同級生からは刺激を大いに受けたし、他人の表現方法に興味が出た。

なんでそういうふうに、つくるの?
そのテーマを生まれた理由を、私にも聞かせて。

色々話しかけてみたい。でも、うまく話しかけられない。
孤独を貫き通せたらどんなにかっこいいかと思ったのに、人と話したいという感情が生まれていることにも戸惑いを隠せない。
なにかと「歯がゆい」のである。今までそんな悩みはなかったのに。

「それはとてもよいことだ。友人というものは本来、そういう互いを尊敬しあえる関係性であるべきなのだから。人に目を向けることができるくらい、君は成長したんだと思うよ。緊張するだろうけど、意外と人は君のことを気にしてはいない。君がかつてあまり語らないタイプだったなんて誰も知らない。エゴを捨て、何食わぬ顔で自分から話しかけてみるといい」

エゴでしかないと言われると、そうかそうだなと妙に腑に落ち、なんとはなしに話しかけることができた。
そんなかんじで、大学院ではわりと人と話していた。今振り返っても、馴れ合いなどのない、健やかで充実した日々だった。

自信のなかった10代後半から20代にかけての時期。
今でも私が作家活動を続けられているというのは、自分という存在やあり方について時に厳しく指導してくれた堀浩哉氏という先生に出会えたからであると思う。

先生は現在、多摩美術大学の名誉教授だが、通常の常勤は退職されている。
その分、どしどし制作&ばしばし展示、と精力的に活動を行っている。

もはや師と学生ではない。問答をすることもない。もし、先生に会うことが合っても「昔、こんなことをおっしゃってくださいましたね」などと言うつもりはない。
一表現者同士として、今現在の活動に刺激を受けつつ、日々創作を続けるのみである。
手紙とかおしらせとか、そういうのはいらない。
それでいて、いつか私の作品や存在に、堀先生が気づき、それがなにか氏の刺激になってくれたらこんなに光栄なことはない。

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