「色眼鏡」=「親の思考」?
偏見で物事を見る比喩表現で「色眼鏡」がある。
自分が持っている先入観や偏見、そして色眼鏡というものを自分をも持っている事はもちろん認識していた。
しかし今日はっきりと、誰の「色眼鏡」をかけて、世界を見ているのか気がついた。
私がつけている「色眼鏡」は、私の母親の「色眼鏡」でした。
親が使う言葉や思考は、子供が最初に知る思考である。それが「色眼鏡」であると考えます。
それは絶対的な世界であり、それが全て。
親の思考を子は取捨選択できない。
このたび、私はうつ症状になり、会社に行けなくなった。体調不良が悪化し、日常生活もままならない状態で、上司に何度も相談するが理解を得られず、会社を退職することになった。
その話を母親にすると、「家族いるのに収入はどうするの?大丈夫なの?」次に「何故辞めた?」と聞かれたので、メンタル不調と答えると、「あんたは心が弱いんやね。」と言われた。
その時、頭に電撃が走った。本人に全く悪気はないが、これまで自分が苦しんでいた思考の源泉がここにある、と認識した。
その後も、久しぶりに帰省したこともあり、母親は随分よく話をした。その話をただひたすら黙って聞き、そして節々にある思考の癖を認識していた。それはまさしく私自身が苦しんできた、先入観や偏見が数々あった。
私は母親のことは嫌いではない。大切に思っている。
同じく父親に対しても。長生きして欲しいとも思う。
育ててもらった感謝もある。
ただ、土台となる思考は、今自分が苦しみ、足枷となり、悩ましている親自身の考え方そのものだった。
今それを認識し、受け入れ、自分のなかで「完了」できた。
自分の苦しみを解放してやりたい。
これからは足枷から解放し、好きなように生きればよい。心からそう思う。
今日からまた新しく人生をスタートすれば良い。
過去の自分がどのように形成されてきたのか、その環境で構築された思考が、自分にどう影響してきたのか?
それがわかったならそれでいい。
そしてその考えと距離を置けばよい。
まだまだこれから。重い足枷を外し、閉じこもっていた殻を少しずつ破り、その先にある新しい自分を想像した。考えるとワクワクする。少し。
これまで怖がって、不安ばかり抱き、見えていた世界。自分の持っている「色眼鏡」を通した世界は、これからどう見えるのだろうか。やっと少し前に進める。
もっと自由にものを見れば良い、もっと自由に世界を見ればいい、もっと楽しいように見れば良い。
今生まれた子供のように、自分の子供と同じ目線で世界を見れば良いと思った一日。
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