『トイレの無い環境への恐怖心』vs『普通の日々』

※今回の記事は、少しお下品な内容が含まれます。そういった内容が苦手な方及びお食事中の方は、閲覧頂かないことを積極的に推奨致します。



ー『あなたは過敏性腸症候群ですね』。

そう診断されたのは、もう十年以上も前だ。

発症当時のことは実はあまり覚えていない。ただ、小学校への登校が難しくなることが増えた。

理由はただひとつ。

登校時に襲い来る、腹痛と強烈な便意だ。

たった5分程度の登校が、当時の私には恐怖だった。

過敏性腸症候群と診断される以前の日々は、何故自分がそのような心と体の状態にあるのかもわからず、ただ不安だったことを覚えている。

家を出る時間のギリギリを過ぎてもトイレから出ることが出来ない。そんな私に、両親はあの手この手で何とか登校させようとしてくれた。それでも、状況は改善しなかった。

幼い頃から通っていた近所の内科ではずっと、心因性の胃腸炎だと言われていた。しかし、処方薬をどれだけ飲み続けても改善しない。

念のため、あらゆる可能性を疑って小学五年生で大学病院に5日間の検査入院をすることになった。血液検査を始め、(年齢を考慮して)全身麻酔での胃カメラや、エコー、便の検査なども予定されていた。…ある種、現実から離れる療養の時間でもあったのだと思う。

入院中、どうしても出来ないことがあった。

『便が出たら、トイレの個室のナースコールを押してね』と、主治医に言われていた。だが私は、いくら便が出ようとも、ナースコールを押すことが出来なかった。

理由はいまでもよくわからない。単純な恥じらいなのか、その頃の私に何かブレーキになるものがあったのか。

主治医や看護師さんたちにはバレていたのではないかと思う。

結局、便の検査はしないままではあったが、他の検査でもまったく内科的異常は見られない。そういったことから私には過敏性腸症候群の診断名が与えられた。

過敏性腸症候群とは、簡単に言えば、緊張などが伴う場面になると、腹痛や下痢、お腹の張り等を感じる心身症をいう。詳しい内容については以下のサイトがわかりやすかったため、お借りしてリンクを貼らせて頂く。

過敏性腸症候群はだいたい3~4種類に分類されると言われている。

下痢型/ガス型/便秘型/混合型だ。

私の場合は、下痢型だった。さらに、同時に小児うつにかかっているとも診断された。

それから、効いているのかよくわからない整腸剤や漢方、母がどこからか情報を仕入れてきたのか民間療法やマッサージ等の治療を受け続ける日々が始まった。

でもそのどれもが、私には効いてくれなかった。

当時、中高一貫の学校への受験を考えていた私は焦った。中学受験は「クラシックバレエで海外留学がしたい。それなら、語学をしっかり学べる環境が良い」と、幼心に自分のバレエの実力のかけらもわかっていない&大した努力もしていなかった私が選択した未来のひとつだった。…結局、習っていたクラシックバレエも一年少しお休みをした。片道30分程度(地下鉄移動で乗り換えは一回)の教室までもたどり着けなかったからだ。過敏性腸症候群によって、だ。

それでも少しでも、今でこそ身分不相応としか言えないが夢のため、治療しながら私はなんとかギリギリ、小学校の登校と受験勉強を続けた。その過敏性腸症候群が、おそらく、これからも一生私のそばに付きまとうとも知らずに。

そうこうして、中学受験の結果は合格。内申はかなり悪かったはずだが、小学校高学年時の担任にも恵まれたのだろう。おそらく、かなり盛ってくれたのだと思う。

両親と戦々恐々としながら合格発表を見に行った冬の日の朝、雪が降り積もる日々に珍しく、あたたかな太陽が顔を出していた。その光を受けてキラキラと輝く雪を見て、思わず呟いた。

「…世界が輝いて見える!」


自分の受験番号を認めた時の一言は、今でも我が家では語り草になっている。モノクロだった毎日。腹痛の恐怖と闘いながら受けた入学試験や面接。…急に輝きを帯びた。私はやったぞ、乗り越えたぞ。もう、負けない。そう思っていた。信じていた。

中学に入学してしばらくは、過敏性腸症候群は不思議となりを潜めていた。うつのような症状もいつしか落ち着き始め、新しい人間関係でのいざこざはありつつも、なんとか楽しく毎日を過ごせるようになっていた。

クラシックバレエも再び習い始めた。もともと才能ゼロの上、大切な成長期に休んでしまった体はもう到底、バレエに向いてなどいなかった。でも夢見る夢子ちゃんだった私はまだ言っていた。「バレリーナになりたい!」と。

しかし、また闇の日々が急にか、それとも徐々にだったかは覚えていないが、やってきてしまった。

中学二年になってからだろうか、登校時の腹痛に悩まされた。毎朝、ギリギリまでトイレに篭っていた。

そんなある日のことだ。

ついに私は、

登校中に粗相をしてしまった。

(このことを家族と、当時担任だったM先生、それから本当に限られた友人以外に言うのは初めてだ。でも、そういったこともあると少しでも…という思いと、いい加減に枷になっているような過去を自由にしたい思いで、全世界に発信することに、決めた。閲覧して頂いたのにも関わらず、不快に思う方がいらっしゃったら、、ごめんなさい)

しかもそれは、学校についてすぐだった。

強烈な腹痛と便意に脂汗を流しながら、鞄を教室に置きに行く余裕もなく、玄関から一番近くのトイレに入った。…でも、ギリギリで間に合わなかった。

そうなると意外と冷静なもので、朝礼時間のチャイムが鳴っているのもよそに、ありったけのトイレットペーパーで個室内を拭いた。自分の下着には、やはり大量のトイレットペーパーをあてがう。さすがに、そのままの姿で教室に入る勇気はなく、朝礼が終わるまでの間気配を消して、担任が教室から出てくるのを廊下の隅でひっそりと待った。いまだ続く腹痛に、ハラハラしながら。

そして、朝礼を終え教室を出てきた担任をつかまえ、粗相をしてしまったこと、トイレは一応拭いたが清掃の人に確認してほしいこと(当時の清掃のおばちゃまには本当に申し訳ない…)、それから腹痛がまだ続いているので早退させて欲しいと願い出て、その日は帰った。

予想外の時間に帰宅してきた私に、母は驚きつつも、緊張が溶けて恥ずかしさと情けなさで泣き続ける私に、世話を焼いてくれた。学校へも、これまでのいきさつを含めて連絡をとってくれていたと思う。

それからだ。

また、毎日はモノクロになった。

表面的には明るく楽しく振る舞っていたのではないかと思う。実際、楽しいこともあったような気がする。でもそれよりも、常に頭の中に『トイレの無い環境への恐怖心』が植え付けられていた。

クリスチャンの学校であったため、定期的に本校舎とは別の建物の講堂で礼拝が行われた。たかだか30~40分の礼拝だ。でも、その礼拝に参加することも大変なものだった。

本当に辛すぎたからか…、あまり詳しくは思い出せないのだが…たしか担任のM先生の配慮があり、講堂での私の席は、一時期は本来の指定の場所ではなく、トイレに行きやすい席にしてくれていたように思う。

さらに、M先生を困らせたことがあった。

防災訓練だ。全校生徒の参加が義務づけられている防災訓練だったが、トイレに自由に行けない環境が怖くて溜まらず「参加したくない」と泣き始める程だった。

これにはM先生もお手上げだったろう。その時ちゃんと参加できていたのかはどうしても思い出せない。覚えているのは、こんな私は友達や周りからどう思われているんだろうという感情だけだ。

そしてついに、私は人生最悪の恐怖心を抱えることになる。

それは、、、

定期試験だ。


それまでは、普通に受けることが出来ていた。自分で言うのもものすごくアレだが、両親が私に合う塾を見つけてきて通わせてくれたお陰で、成績だって悪くなかった。

でも、試験中のその時、あの腹痛と強烈な便意がやってきた。「もうダメだ、このままではまた…」。そう、恐怖心に駆られて、そっと手を挙げた。私のもとにきた試験官のさして親しくもない教師に「お腹が痛いのでトイレに行かせてほしい」と伝える。…カンニング防止のため、当然再入室は認められなかったが、我慢の限界だった。

得意な国語の試験中、半分も解かないうちに、私は一番ホッとする場所へと逃げたのだ。今回は間に合ったが、そんなもの関係なく…泣いた。その日は、後の試験も同じような恐怖心に駆られ、うまくいかなかった。

人生で初めて、たくさんの赤点をとった。

粗相をしたあの日よりも、それは屈辱的だった。あんなにも勉強をしたのに。もう大丈夫と、信じていたのに。

それからはもう、まともに試験を受けられることが少なくなった。民間療法含め、色々な治療を試したが、やはりどれも効かなかった。どれだけ両親に塾の月謝を払ってもらおうとも、成績は下がる一方だった。

一瞬、回復の傾向を見せた時もある。

母が何かの啓示でも受けたかのように、試験当日の朝、私に『魔法の薬だよ』とドロップを持たせてくれたのだ。これをなめながら学校に行ったら、もうお腹は痛くならないよ。そう、母に言われてほんの少しだけ心強い気持ちになった。

…でも、魔法は長くは続かなかった。

ある日、定期試験の度に、途中退室をする私に友人が言ってきた。

「ほんとはテスト受けたくなくてサボってるんじゃないの?」

…。

…違う!!!そう、大声で否定したかった。でももう何も反論できなかった。…そうなのかもしれない。私はただ、逃げたいだけなのかもしれない。みんなは必死に頑張ってるのに、何で私は頑張れないんだろう。

悲劇のヒロイン化は加速した。

もうなんか、頑張ってもそんな意味ないや。そう思い始めた。

クラシックバレエの才能の無さに気付き辞めたのもその頃だった。高校一年の春頃だ。

…小さな頃からずっと続けていたものから遠ざかって、しばらくは心にぽっかりと、いやに風通しの良い穴が空いていた。

(ちょうど、セーラームーンへの思いが再燃したのもこの頃だったが、それはまた別の機会にでもまとめるかもしれないし、まとめないかもしれない。笑)

退屈にたえられず、部活でもやってみるかな、袴とか何かかっこいいし、メンタル鍛えられそうだし。そんなわりと適当な理由で、弓道部に入ることにした。

そこで、色々とあったが生まれて初めて"仲間"と呼べる存在に出会えたと実感するのは、まだまだ先のことになる。

高校に上がって弓道部に入ろうとも、依然として過敏性腸症候群は私を振り回した。

試験ではほぼ必ずと言って良い程、途中退室をしていた。赤点・追試の常連になっていたが、なんとも思わなくなっていた。将来のことも、考えるのはやめた。

それまで味方で居てくれたはずの両親もだんだんと私を情けなく思い始めたのだろう、責め始める。

「試験前日の夜遅くまで勉強してるからだ!それでバランスが崩れてるんだ!」…だって勉強しないでどう試験に挑もうと言うの。「気合いと根性が足りないんだ!逃げるな!」…だって本当にお腹が痛くなるんだもの。もう粗相はしたくないもの。

なんとなく冷めた気持ちで説教を聞きつつも、やっぱり試験の最中には、腹痛と強烈な便意に襲われる

試験官の教師たちも、だんだんと慣れてきたようだった。自分はどれだけ頑張っても、誰にも信用してもらえないんだ。そう思っていた。

そんな中、初めて私を信じてくれるヒトに出会えた。当時の担任、K先生だ。

高校一年のある定期試験の最中、恒例のごとく、そっと手を挙げた。試験官は、K先生だった。その時も私は余裕が無く、ただ酷い腹痛と、トイレへ行きたい一心で途中退室をした。

…定期試験期間終了後、K先生に呼び出された。

また何かお説教でも言われるのかな。その程度に思っていた。

でも、K先生から出たのはとても予想外な一言だった。

「はるろう(※実際は本名の苗字です)、おまえ本当にお腹痛くなるんだな」


一瞬、耳を疑う。

話を聞くに、どうやら私の途中退室は先生方の間でも話題というか、、問題になっていたようだ。生徒の一部で色々な噂も飛び交う中、K先生は担任として、まっさらな気持ちで私を見ようとしてくれた。

(それはK先生が、まだ私がそこそこ元気に過ごしていた中学一年の頃の担任のご主人だったということもあるのかもしれない。奥さまの方のK先生も心配してくれていたらしい)

K先生は、言った。

「はるろう(※実際は以下略)が試験中にこっちを見て手を挙げた時、本当に顔が真っ青だった。今までつらかっただろ。頑張ったな」


…泣いた。超泣いた。K先生の前で嗚咽しつつ、今までの思いを吐露した。K先生はひたすら、頷きながら私の話をただ黙って聞いてくれた。

この、ご主人の方のK先生に関しては、エコ贔屓をするだのなんだの、色々と一部の生徒からは言われていたが、少なくとも私にとっては、まさに救いだった。本当に、恩師だ。

それからのK先生の行動は早かった。

まずは母を交えての三者面談に始まり、定期試験の保健室受験の対応等…それまで諦めていた私も、先生の思いに応えたくて、様々な策を講じ始めた。

まずは、良いと言われる薬は改めて色々と試した。以前効いたドロップ作戦に、弓道部で教わった平常心を心がける作戦、試験勉強もギリギリに始めるのでなく、かなり前から試験対策をするようになった。試験前日にギリギリ夜中まで起きているということは減っていった。

そんな中で、

もっとも効果が高かったのが、生理用の紙パンツを履く作戦だ。

私にとっては、「粗相をしては"いけない"!」ではなく「いつでも粗相を"してもOK"!」な考え方が正解だったようだ。粗相したって仕方ない!あるがままに、だ。

…しばらく経ってから知ったのだが、これは『森田療法』という治療法にあたるらしい。当時は無意識に行っていたのだが、もしかしたら脳みそがそうあろうとして導きだしたのかもしれない。


とは言えそのまま粗相をするわけにもいかない。最初は、夜用ナプキン400で対応した。試験自体は、粗相に至ることもなく安心して挑めたが、帰り道にあろうことか、あと自宅前の横断歩道ひとつのところで、夜用ナプキンに粗相をしてしまった…。人生二回目ともなると、逆にもう笑えてきてしまう。

そして夜用ナプキンでは少し心許ない(笑)ことがわかり、見つけたのが生理用の紙パンツだったのだ。この効果は絶大だった。この紙パンツ作戦を始めてから、保健室受験で途中退室をすることが無くなった。赤点が減って、実力(自分で言うのも本当におこがましいが、本来成績は悪くない方なのだ…←)を発揮できるようになっていった。

少しだけあった不安要素は、保健室の先生(通称:タラコ。タラコ唇+きつい性格だった為、生徒たちからそう揶揄されていた…w)が、過敏性腸症候群についてあまり理解が無かったことだ。

でもそのことは逆に、私を教室で定期試験を受けるという目標に向けて奮い立たせた。結果的に、タラコにも感謝だ。

K先生とも何度か面談をし、ようやく教室受験を再開させられるに至った。腹痛や強烈な便意に襲われることも、無くなった!赤点どころか、成績は(体育以外w)うなぎ登りで、皆が大学のことについて考え始める頃、K先生から、大学入試は指定校推薦にチャレンジしてみないかと打診された。

打診されるだけでも、あの途中退室&赤点&追試の常連だった日々を思い出すと、考えられないことだった。

そして改めて、自分がどんな勉強をしてみたいか整理した。中学時代からお世話になっていて(粗相以外)、すべての事情を知っている塾の先生とも相談をした。

自分自身が悩んできた分野でもあるため、心理学には興味があった。だが、塾の先生曰く"心理学は統計学だから、文系のあなたにはあまり楽しく感じられないかもしれない…"とのことだった。

では、どんな勉強なら楽しく感じられるだろう?

自分自身の短い人生を振り返ってみて、思い付いた。なぜ、戦争が起きるのか勉強してみたい…!と。

…小学生の頃、9.11が起きた。幼心にショッキングな映像だった。それから、隣のクラスに置いてあった『はだしのゲン』に衝撃を受け、卒業制作では原爆についてまとめた。過敏性腸症候群が落ち着いていた中学前半には、両親とヒロシマやナガサキを訪れた。ヒロシマでは、偶然にも被曝された方のお話を個人的に聞けた。どうして人間が人間にそんなことが出来るんだろう。そんな思いがずっと頭の中にあった。

だから、そういった国際政治的な勉強が出来る大学を指定校推薦の枠に見つけ、そこを目指した。…そんな風に、勉強や未来に対しての意欲を持てることはとても嬉しくて、エネルギーは満タンだった。腹痛も強烈な便意も、粗相の日々も悔しさに変えて、一層勉強に励んだ。

…しかし、志望していた大学の枠には入れなかった。仲の良かった友人にわずかな差で、負けた。

悔しくなかったと言えば嘘になるし、普通の形式の大学入試にこの腹は耐えられるのだろうかと一瞬不安がよぎった。でも、勉強したいことは変わらない。それまで学校の試験用の勉強をしてきた私に、果たして大学受験用の勉強を今からし始めて間に合うのか…?時期はもう、ギリギリだった。でも、やるしかないんだ。そう思っていたところ、再びK先生に呼び出された。

そしてなんと、指定校の枠で私がスルーしてしまっていた大学に、国際政治を学べる学科があることを知らされた。

しかもその枠はまだ空いていて、成績的にも問題ない、とのことだった。

さらにその提案は、K先生ではなく当時の学年主任の先生からのものだったというから驚きだ。学年主任の先生に対しては、ちょっと怖いなぁという印象すら抱いていた。そんな先生が、私を見てくれていたんだ…。かなり、感動した。

しかもその大学の立地は、東京都内の、願ってもない場所にあった。…本当になぜそれまでスルーしてしまっていたのか謎なくらいだ。

提案を受けない理由がない。二つ返事で、よろしくお願いしますと答え、試験に挑んだ。結果は、喜ばしいことに合格

支えてくれた先生方や両親、そしていつも気がつけばそばに居て、話を聞いてくれたり笑わせてくれたりした、弓道部の仲間たちのおかげだ。心からそう思った。

中学受験の時ほどのキラキラではないが、もう世界はモノクロでは無くなった。

それからのことは、順風満帆にはいったとは言い難い。詳しくは、以下の過去のnoteにある通りだ。

結局叶ったのは、東京で、なぜ戦争が起きるのかについて思いっきり勉強ができたことくらいだろうか。

その答えは単純ではないが、一言でいえばそれぞれの正義があるがゆえ、なのだと今は思っている。

大学では勉強にかなり苦労した。当時は泣きながらどころか、やってられっかとチューハイを煽りながらレポートを書いていたこともあったがw、今では良い思い出だ。

一社目に就職した会社では、過敏性腸症候群に悩まされることはほとんど無くなっていたものの、おこがましいながらも価値観の不一致を感じて、転職した。

悲しいかな、二社目では価値観は理想でしかない場所であるにも関わらず、過敏性腸症候群がまた私にご挨拶してきた。

この心身症、なかなか一筋縄ではいかないもののようだ。そして結局、うつ病と診断されるに至った。だけれども、全般性不安障害とも診断された今でなら、なんだかもう、過敏性腸症候群も全部全部、オッケーオッケー👌という感じだ。けして投げやりな意味ではない。これが私なのであれば、そのようにうまく付き合って生きていこう。ただそれだけだ。


うつ病を療養中の身ではあるが、何か生産性のあることをしたいと思ったのと、主治医にもやってみたら?と背を押されたこともあり、先日(9/29)、何年かぶりにTOEICを受けてきた。

多少の不安はあった。

だから、大昔と言えるくらい昔にお世話になった紙パンツを、久しぶりに履いてみた。…あれは、なかなかの履き心地の良さだ。(笑)

最初は、久しぶりの試験独特の雰囲気に飲まれつつも、なんとか最後まで集中して解くことができた。うつ病を抱えつつ、過敏性腸症候群の影に怯えつつも、最後まで座っていた自分はえらいぞ!(笑)との思いで、まだ結果が出ていない先週の金曜日に、ご褒美を買った。ジルスチュアートのクリスマスコフレだ!

ものすごい争奪戦ではあったものの、無事にゲット!届いたら内容について、noteかTwitterでまとめられればなぁと思っている( ̄ー ̄)

そしてTOEICの肝心の結果が、昨日Webにて公開された。ドキドキと結果のページを開く。…ほんのりと設定していた目標スコアに、届いていた!!これはもう、喜びの舞いだ💃✨✨

ジルのコフレもこれで思いっきり使える😌


11月末には、日本化粧品検定も待っている。TOEICも、もっと上を目指すと決めた。


生きてさえいれば、大丈夫。なんとかなる。

粗相をしても、どんなに情けなく恥ずかしい思いをしても、諦めても、立てなくなっても、また立ち上がれたなら、きっと大丈夫。


…これからの私にも、…それから私のように、何かしらの事情で日常を思い通りに過ごせていなくて苦しみ、悩んでいるインターネットの向こう側の誰かにも、そういった思いが届いたらな。私は、そう思いつつ今回noteを綴った。

少なくとも、これからの自分には信じることを忘れないでいてほしい。たとえ、綺麗事に感じても。



ーいつか誰かに声を大にしてぶっちゃけてしまいたかったこと、ようやく言えました。それも、全世界に向けて。

失うものがどんどん無くなって、軽くなっていく。勇気は要ったけれど、、ここまで読んでくれたあなたに感謝です。

なるべくお上品な言葉を使ったつもりですが、読んで下さったのに不快に思われた方が居たら申し訳ないです。


…それでは、また👋


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