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幸福論考 4/n ~意思を捧げる~
幸福について考えるときに信仰というジャンルが出てくる。日本人は無宗教の人が多いが、外国では何らかの宗教を信仰されている方も多い。何故それらの人々が神と呼ばれるような何らかの存在を信仰するのかというと、それが幸福に繋がる道だと信じているからである。
この信仰の本質は「自分の意思を捧げること」であるという。
聖書でもただ神へ「心を向けよ」と言っているし、仏教でも「南無」と言う。南無とは「帰依する」という意味で、「全面的に仏に従う」という意味だ。それはどちらもつまり自分の意思を捧げることであり、神や仏の意思に全面的に従うという意味である。
現代的な感覚では意思を捧げる、つまり意思を放棄することが何故幸福に繋がるのかは中々理解に難しい。「他力本願」という言葉はどちらかというとネガティヴな雰囲気を纏っているように思われる。
しかし現実としてこれらの宗教は多くの人々の支持を得て、(恐らく)多くの人を幸福(もしくはそれに近い状態)に導いてきたのであって、幸福を考えるにあっては、その本質である「意思を捧げること」を無視するわけにはいかないのである。
では何故意思を捧げることが幸福に繋がるのか。それを考えるうえで、信仰においてキーワードとなるもう一つの概念がある。
それは「苦しみ」である。
人間は生きていると必ず何らかの苦しみを味わうことになる。仏教では例えばそれが「四苦八苦」と言われていたりする。キリスト教では「罪」という言葉で表現されているものが近いと思われる。
これら苦しみは人間が生きていく限りおよそ避けられることは出来ずに様々な場面において我々を文字通り"苦しめる”。この苦しみがある限り我々は幸福にはなれない。だから是非にもこの苦しみを克服する方法が知りたい。
これらの「苦しみ」を克服したり、乗り越えたり、うまく付き合ったりすること、つまり「苦しみとの相対する方法」が「意思を捧げること」なのだ。
では何故、「意思を捧げること」が「苦しみと相対する方法」なのかというと、例えば四苦八苦の生・老・病・死や、愛別離苦(愛する者と分かれてしまう苦しみ)・怨憎会苦(嫌いなヤツと出会ってしまう苦しみ)・求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)・五蘊盛苦(自分の心や体すら思い通りにならない苦しみ)を見てみると、これらの全ては「自分ではどうしようもないこと」という共通点があることがわかる。
つまり、人間は「自分ではどうしようもないこと」つまり、自分のコントロール外にあることに対して「何故もっとこうならないんだ」とか「何故自分だけこんな目に会うんだ」とかあれやこれや苦しんでいるということだ。
そんなこと言ったってどうしようもないのだから、コントロール外のことは人間より巨大な存在・偉大な存在にお任せしよう。それに執着するのをやめよう、というのが苦しみと相対する方法ということだ。
また求不得苦のような、もしかしたら一見自分のコントロール内にあるように見えるもの(努力次第で欲しいものは得ることが出来る!)についても、やはりそう思わないで「意思を捧げる」ことが重要だという。
こちらはキリスト教からだが、そういう自分の力が及び得るという考えは、傲慢や虚栄心・享楽癖・貪欲などの悪徳の元となり、人間が幸福に至ることへの障害となってしまうというわけだ。
これらのことは一種「諦念」にも似たようなものに思えるが、それよりももっと徹底的に「意思を捧げ」ないとダメなのだろう。
だから神や仏が必要になってくる。「自分ではどうしようもないことは諦めよう」と自分自身で心に決めるのではなく、自分より遥かに大きな存在である神や仏に"捧げ”、"委ね”ることで自意識を徹底的に滅却するのである。
これはまた苦しみを客観視できる効果もあると思われる。
苦しみを自分の中で抱えているうちは、自分と苦しみは分け難く同一のものである。つまり苦しみは自分自身なのである。しかし、神や仏に捧げることで苦しみが神仏のものとなり、自分とは分かれ、自分のものではなくなるのである。こうすることで苦しみと距離が取れるようになる。意思を捧げるとはこういった意味合いもあるのだろうか。
こう見てみると人間が「自分ではどうしようもないこと」に苦しむのは、人間が"考える葦”として他動物とは異なった発達を遂げたが故であり、言い換えると、人間は人間であるが故に苦しむのであり、何とも因果なことだといえる。
しかしまた、この人間が人間であるが故に必然である苦しみに対して、人間でしか持ちえない「信仰」というものを使って対峙しようとするのも、人間の興味深いところである。
<参考文献>
『幸福論(第一部)』カール・ヒルティ著 草間平作訳 ワイド版岩波文庫
『幸福論(第二部)』カール・ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 ワイド版岩波文庫
『幸福論(第三部)』カール・ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 ワイド版岩波文庫
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