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浮気性と幻歯痛

なにはともあれ僕は出不精だ。
なるべく理由なく家から出たくない。よって、病院に行くときはそれなりの気合を入れる必要がある。気合を入れないと通院の予約の電話すらできない。
しかし、健康体であっても病院と関わる機会は多い。インフルエンザの予防接種、歯医者の定期検診、コンタクトレンズを買うための眼科の検査…と、定期的にXデーは訪れる。

いざ病院に行くとなれば、その日は「病院の日」と称して何箇所かの病院をいっぺんに回る。どうせ面倒事をこなすのであれば、まとめてしまった方が精神衛生上良い。

最近、その「病院の日」がやってきた。僕は、インフルエンザの予防接種のために耳鼻科、親知らずを抜くために歯科を回ることに決めた。

インフルエンザの予防接種はつつがなく行われた。
シーズンのピークを迎える前に注射を済ませてしまおうという用意周到な患者で埋め尽くされた耳鼻科は、子供連れが多い。そういえば、診察室から出てくるちびっ子たちは尽くワンワンと泣いている。やはり母親になると子供の危機管理をしっかりしようと思うのだろうか、などと考えているうちに、診察室へ通される。

診察してくれた先生はおじいちゃんだった。前段もそこそこにさっそく注射を打ってもらう。例年よりもなかなか痛い。
注射はある種のギャンブルだ。ガーゼを貼った患部を揉みながら、僕は先生のことを少し恨めしく思った。そして、ワンワン泣いて待合室に戻ってきたちびっ子たちに同情した。
聞くところによるとどうやら先生は院長らしい。注射の上手さは必ずしも年齢に比例しない。

腫れた左腕を抑えながら、僕は耳鼻科を出た。
時計の針は11時40分を指している。僕は14時ちょうどに歯医者の予約を入れていた。昼飯を食べて歯医者に向かえばぴったりの時間だ。
僕は自分のタイムスケジュールの完璧さに満足して、孤独のグルメの井之頭五郎よろしく街中探訪を始めた。

歯医者の診察室はどこもかしこも白い。
どんな菌も入れてなるものかという無言の圧に緊張させられる。
それにしても、歯医者のコンピューターの画面はなぜことごとく前時代的なスクリーンセーバーが流れているんだろう。

何も吸収してくれなさそうな紙製のよだれかけと紙コップが準備されると、前の患者の処置を終えた先生が現れた。

「それじゃ、抜いていこうか」
「きょうは右上でしたっけ?」
「そうだね」

先生は手際良くガーゼを僕の顔に掛ける。視覚が奪われた僕は、必然的に歯に神経を集中する。

「ちょっとチクッとするよ」

歯茎の中に針がヌッ、と入ってくる。午前中の予防接種よりだいぶ痛みは少ない。
先生は、「ちょっと麻酔効くまでそのままで」と言い残してどこかへ消えていった。

数分後、僕の部屋に戻ってきた先生は、軽快な手さばきでペンチを手に取った。

「ちょっと頭を左に傾けて、オッケー、じゃあちょっと揺れるよ」

歯の側面部にペンチを差し込み、テコの原理を応用して歯を回旋させていく。最初は抵抗していた親不知も、最後は諦めたのかスポッ、とペンチに連れられていった。

その間、わずか2分ほど。
わずか2分で、僕の親不知は僕から離れていった。

先生は、慣れた手つきで傷口を糸で結った。「じゃあ、軽く口ゆすいでね」
先生はそう言い残して、他の部屋へと去っていった。

看護師から今後についての説明を受けている間、僕は舌で傷口を滑らせた。
流血も最小限に抑えられているようで、歯が一本無くなったわりに違和感は少ない。
「治りが遅くなるので、なるべく舌で弄らないようにしてくださいね」という看護師からの注意を、僕は鉄の味とともに飲み込んだ。

話は変わるのだが、夏が終わるころ、友達が彼女と別れた。
僕はその双方と友達なので素直に残念に思ったが、ふたりの関係が悪化したわけではないと聞いてとりあえず安心した。

それから二ヶ月ほど経ち、友達と飲んだあとに涼しくなった公園で数人で駄弁る機会があった。

「俺さあ」
一瞬の空白を嫌うように、友達が訥々と喋り出した。
「この際だから言っとくわ」
「うん?」
皆の視線が彼に向く。街灯に照らされてベンチでホットコーヒーを啜る彼の輪郭が浮かび上がる。
「俺、彼女と付き合ってるときにいろんなコとヤッてた」
「うん」

友達は性欲の権化なので、それ自体は僕にとって別段驚きではなかった。しかし、友達は続けて、同じコミュニティ内で学年の差も厭わずに縦横無尽に食い散らかしていた、と言った。
程度は違えど僕たちは驚いた。
怒りに震える人、平静を装う人、好奇心から質問を重ねる人。反応は人それぞれながら驚きようは間違いなかった。
その日は「まあ昔のことだからな」という雰囲気のまま、終電に呼ばれるように散開した。

さらに驚いたのは一週間後のことだった。
友達がその事実を元カノにありのまま伝えたらしいのだ。
別れても良好な関係を保っていたふたりは仲良くサシ飲みをしていたのだが、話の流れでなぜかそういうことになったらしい。もちろん、「最ッ低…」と元カノに吐き捨てられて良好な関係は崩れてしまった。
大きなヘマをしないことで有名な友達だったので、僕たちは心底驚いた。

浮気の善悪はともかく、それを当人に申告するというのは律儀なのかバカなのか、とにかく僕には理解し難い。
友達は元カノと険悪になっただけでなく、そのコミュニティ内の女子から総スカンを食らっているという。

僕は、看護師から小さなビニール袋に入った2cm大のエナメル質を渡されたとき、ふとこの友達と彼女の顔が浮かんだ。

何年も僕の口内で頑張ってくれた親不知は、部分麻酔とペンチでいとも簡単に僕から引き離されて、いま僕の手許にちょこんと座っている。
尖った歯の側面部にはペンチにつけられたであろう生々しい創傷がある。
親不知は、もう僕の一部ではなくなってしまったのだ。

親不知と同じように、友達は彼女と元に戻れない。
数年間培った関係性も、いとも簡単に壊れてしまう。
彼女にとっては、その思い出すらも悪しきものになってしまっただろう。
親不知の根元に付着した歯肉の欠片は、その関係性の儚さを僕に強く印象づけた。

親不知を抜いてから一ヶ月が経った。
もうすっかり血も止まり、縫合跡はきれいに塞がっている。施術に使われた糸は舌で弄っているうちにどこかへ消えてしまった。知らず知らずのうちに飲み込んでしまったのかもしれない。

ビニール袋の中でコットンに鎮座する親不知は、いつの間にかツヤツヤした色味が失われていた。
気になって歯医者さんに聞いてみると、身体から離れた歯は徐々に酸化して黒ずんでいくらしい。

親不知が消えた空白を舌でいらうと、小さな突起が歯茎に残っている感触を得た。
どうやら抜歯したときに取り切れなかった破片が歯茎に残っているようだった。

尖った先端部を刺激すると、少し痛い。
でも、その痛みは希望のようにも思えた。
いずれ取れてしまうであろう小さな突起によって、失った親不知のことを思い出す。
なにか大きな事件があり、関係性が潰えてしまったとしても、ひょんなことからその記憶の破片を取り出すことができる。
そういう意味で、この痛みは希望だと思えた。

来月、僕は下の親不知を抜く。聞くところによると、上より下の親不知の方が痛いというではないか。
僕は、その痛みも希望だと思えるだろうか。
「下の親不知は痛えぞ」と散々煽られている今のところは、希望よりも絶望の方が勝っているのだが…。

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