見出し画像

私と鬱のズッ友物語①

おめえなんかと親友でも、なんも嬉しくねえよ
ってのが本音です。

「とっとと縁切ったろ」と思いつつも、なんだかんだで長い付き合いになってしまった私のズッ友について、今日は嘘偽りなく、時系列に沿って話していきます。
何気、本邦初公開です。
身内と直属の上司以外、友達にも誰にも、実はまだ話したことがない。
とはいえ、私の昨今の現状から、薄々気づかれてはいるんだろうけど。



1.発症


話は高校2年生、17歳、おおよそ9年前に遡る。

当時の私は、難関私大を目指す特進私立文系クラスに在籍していた。
しかしこの年の夏に心変わりし、某国立大学を第一志望に変え、センターで必要とされる数学1A2B、生物基礎、生物1、化学基礎に関しては自力で勉強を進めていた。

他のクラスメイトよりも圧倒的に必要手数が多いにも関わらず、高校2年1年間、私は常にクラス1番の秀才だった。
高2だけじゃない。
私は特進クラスで常にトップの成績を修める生徒だった。
自分で言うのは憚られるが、事実なんだから堂々と書く。
私は誰がどう見ても、絵に描いたような優等生だった。

中高一貫校だったため、初めて特進クラスなるものが学年に存在し始めるのが、私の母校の場合は中学3年次。
そこからずっと、特進の中で常に1位2位を争ってきた。

それもそのはず、毎日開門とともに登校し、図書館や気に入っていた数学演習室で勉強して、登下校中の車内の時間は全て勉強に費やし、部活がない日は帰宅後に夕飯を15分で胃に押し込み、風呂は30分程度、それ以外の時間を全て勉強に費やしていた。

学年1位を取り続けることが、あの当時の私の全てだった。
それが暴君の本性を持つ父の機嫌を取る、唯一の方法だった。
誰よりも良い成績を修め続けること、それが私にとって、平和に生きていくための最終手段だった。
学年1位じゃなくなること=死、だった。

今こうして振り返っていて思う。
そんな式が頭の中に湧き出し凝り固まっていた時点で、私はもう、十分すぎるほどに、狂っていた。



そんな高校2年の秋頃、学年主任との面談の時のこと。
生徒一人一人のことを本当によく見て下さる、今となっては感謝の気持ちしか抱いていない当時政治経済を担当して下さっていた学年主任の先生から、こんな言葉を言われた。

ちょっと、頑張りすぎていないか?
もう少し肩の力を抜いてもいいと思うんだけど


あの言葉を、天からの最終警告として、真に受けて自分の勉強への取り組み方を変えていたら、狂った意識を変えることが出来ていたら、私は鬱病などというものに侵されることは無かっただろう。
少なくとも、高校生のうちは。



そしてついに、その日は訪れた。
高校2年の12月の半ば、期末試験最終日のこと。

今でもあの感覚は、鮮明に覚えている。

試験が終わり、冬休みに取り掛かる参考書やら問題集やらを地元の本屋で調達してから、帰宅した。
自室に入り、肩にかかっていたスクールバッグを床に下した時に、「プツンッ」と音を立てて、何か硬い糸のようなものが切れたのがわかった。

そのたこ糸のように太かったそれは、目標、モチベーション、気力、緊張感、切迫感、努力の積み重ね…etc、私にとって大切な、実に様々なものから編まれていたように思える。

私の心の中にあった太い糸が、高校2年の12月のあの日、私にしか聞こえない音を立てて、でも誰が見てもわかるようにはっきりと、途切れた

あの日が、私が鬱という病気の領域に、足を持っていかれた日。


17歳の冬、私は鬱病を発症した


2.当時の状況、私の場合の症状について

期末試験が終わり、その試験結果も当然のようにクラス1番。
英語、現代文、古文、漢文、日本史B、日本史演習、政治経済、全てにおいて最高得点を叩きだす、私はそんな生徒だった。

2学期の期末試験が終われば、学生は当然冬休みに入る。
冬休みの勉強予定は、休みに入る前から緻密に組んでいた。

だが結論から言うと、その全てが、無駄となった。
机に向かう向かわないどころの話ではないのだ。

まず1つ目の症状。
毎朝7時にアラームをかける。
目は覚めても、身体を起こすことが困難になった

当時の症状を覚えている限り箇条書きで挙げてみる。

  • 朝起き上がれない → だから当然学校に行けなくなる。
    欠席の連絡すら出来ない日もあり、高3からは無断欠席も徐々に増えていった。
    最終的に卒業は出来たものの、高校3年次は、芸術科目の音楽の授業を、もしあと1回でも欠席していたら、私は卒業出来ていなかった。

  • 本が読めない、文章が読めない → 文系には致命的な症状。現代文なんて、諸に困った。
    第2志望校は小論文が課される某私立大であったが、自分の論旨を書く以前の問題だった。出題者の意図を汲み取ることすら出来ない。
    本当に文章が読めなかった。そして頭にまるで入ってこなかった。
    教科書・参考書・単語帳を開いても、脳が本能的に拒絶していたのか、書いてある内容を、視線がまるで追おうとしてくれない。
    自分の身体が自分の意思と反する行動を取ろうとするもどかしさや不快感を、人生で初めて味わった。

  • 記憶力の驚異的衰退 → 大前提として、集中出来ていないから、という点が大きな要因なのだろうが、今まで2周すれば覚えられた単語や暗記項目が、5周しても全く覚えられなくなった。

  • 何をしても楽しくない → 勉強だけにやる気が湧かないだけではなく、大好きな音楽を聴いていても、趣味のベースを弾いていても、何をしていてもまるで楽しくない。
    というか、自分が生きている実感が湧いてこない。
    「希望」という言葉が、私の辞書の中から消失していた。

  • 毎日理由もなく涙が止まらなかった → 毎晩嗚咽を漏らして泣いては、枕を濡らす日々。
    でも、何がつらいのか、どうして自分はこんなに泣いているのか、その理由さえもわからなかった。

  • 全く机に向かえなくなった → 起き上がれないわけであるから、当然と言えば当然。
    いよいよ受験まで1年を切り、周りが本格的に受験生化していく波に逆走して、私は全く勉強をしない生徒になった。糸が切れる直前に買った教材は、結局手をつけないまま受験を終えた。
    中学2年で勉強の楽しさに目覚めてからは一度たりとも言われていなかった「勉強しろ」という言葉を家族から浴びる日々。それまでは言われる前から死ぬほど勉強していたからな。
    受験生にとって超絶貴重な高校2年の春休み・高校3年の夏休み冬休みは、毎日電気もつけずにベットに横たわっているだけだった。
    ただひたすらに、やる気の枯渇。勉強はもちろん、あらゆる面で。
    というか寧ろ、生きる気力の枯渇だな。

  • ため息が止まらなかった → 何をしていても気が重い。
    1アクションを起こすごとに、ひとため息。そんな感じ。


段々と、私は勉強から遠ざかっていった。

もう、受験なんて、どうでもよかった




でも、当時の私は病院に行かなかった。
いやそもそも、病院に行くという選択肢すら思い浮かばなかった。

何故なら、自分が精神疾患になるなんて、想像もつかなかったから

ただ、やる気とモチベーションが下がっただけだと思った。
受験生にありがちな、軽いスランプの一種だと思った。
まさかこれが鬱だとは、メンタルヘルスに関して何の知識もない女子高生の当時の私には、到底わからなかった。
そして、勉強をしているように装い、身内の前では異常が無いように演じていたため、周りも同様に気づくことが出来なかった。

私はただ単に、自分がだらけているだけだと思った。
受験や勉強ごときが理由で、精神疾患になるなんて、恥だとすら思っていた。
そんな理由でなるわけがないと思っていた。

怠惰
自分の現状に対し、それしか理由が思い浮かばなかった。
そして、殊更にそんな自分が許せなかった。
だからどうにかして机に向かおうとした。
今思うと、それが一番病気を悪化させた行動だったと思う。

糸が切れたあの早い段階で、病院にかかっていれば、治療を開始していれば。
私の人生は、今頃何か違っていただろうか。 

今冷静に過去を振り返り、私が病院に行かなかったことには、もう1つ理由があったような気がする。

この年、高校2年の夏、部活仲間であり同じバンドメンバーの1人が、統合失調症を発症し、高校を自主退学をした。
その姿を間近で見ていたから、自分が精神疾患になったなんて事実を、薄々気づいていながらも、認めたくなかったのかもしれない。
私は彼女のことが心底嫌いだった。
人として、友達として。馬が合わない、というやつ。
「あいつと一緒だなんて、死んでも認めてやるもんか」
心のどこかで、そんな風に思っていた気がする。


精神疾患なんて、甘えだ」という最低な偏見が、当時の私を支配していた。


気力で乗り切れ
平成生まれのくせして、私はそんな昭和のド根性論で生きていた。


3.通院開始


大学受験は、結局2校しか受けていない。
片方は第1志望の某国立大。
センターは突破したものの、赤本なんて全く進められていなかったため、当然、落ちた。
もう片方は実際に入学して卒業した某私立大。
こちらはセンター利用でなんとか受かった。
その他私大の一般入試は8校ほど受ける予定だったが、体調不良で結局全て受けることが出来なかった。

私はセンター利用のシステムに救われた数少ない受験生だ。
高2の冬から勉強していなくても、センターで総合85%を叩き出したんだから、まともに勉強出来ていたら、私は間違いなく第1志望に受かっていただろうなぁ、なんてぼやいてみる。





大学に入学して、受験・勉強というものから解き放たれて、自由な時間や冷静になれる時間を得て、新生活が始まり、環境も変わり、そこでようやく私は自分の体調と向き合った。

薄々予感していた、「鬱病 症状」というワードでネットを漁った。
あらゆる情報を目にして、それらが自身が経験した症状と綺麗なまでに合致しては、私は心のどこかで喜んでいた。

やっぱり、病気だったんだ。
よかった。私は怠けてなんていなかった。
これは、れっきとした病気なんだ。
」と。

しかし、それがわかり、確信に変わったとて、私は相も変わらず病院の門扉を叩けずにいた。
理由としては、2つ。
1つは、評判の良い精神科乃至は心療内科は、新規患者の予約が1か月待ちなんてことが当たり前で、病院探しに難航したこと。
もう1つは、実に学生らしい理由だな、と今は思うけれど、いざ病院にかかって治療を開始した場合、一体いくら金がかかるか知れたもんじゃない、という幼稚な理由。
けれど当時学生で、限られたバイト代しか手元になかった身分としては、診察を拒むには十分な理由だったと思う。
家族の協力を得られれば良かったが、「鬱かもしれないから病院に行かせてください」なんて、父には口が裂けても言い出せなかった。
そんなことを伝えた日には、それこそこう言われて突き放されていたことだろう。
鬱なんて甘えだ、気力で乗り切れ」と。





次第に、大学にも通えなくなっていった
そのことに関しては別途記事にしてたりします。


結局、病院に初めてかかったのは発症から3年も後のことになる
大学2年の秋
大学に通えなくなった私の姿を見た家族に、強制的に心療内科に連れて行かれた。
結局、周りに連れて行かれたのだ。
私は最後まで、自分の意志で診察を受けようとはしなかった。

愚図る子供の腕を親が引っ張っていく姿を、街中で目にする。
まるでそんな子供のような哀れな状態で、私は強制的に車に乗せられ、今通っている都心の心療内科へとぶち込まれた。
「嫌だ、行きたくない」と口にしながらも、家族が私の異変に気づいてくれた時、心底救われたと思った。
本当は、心の底から嬉しかった。安心した。

もう、周りからも認めてもらいたかった。
私は、鬱病患者だと。
それでいいと思った。
怠けでも、弱さでもない。
私は、病気なんだ、と。


自身が鬱になったことで、そのつらさが身に染みてわかり、そして鬱を患った自分を正当化させるためにも、私は初めて、精神疾患が甘えではないという考えを許容した。

診断の結果、下されたのは、「鬱病、鬱状態」。

高校2年の時の症状・状態を話すと、担当医から、発症はその時期だろうという診断を受けた。
またしても救われた気がした。
そしてそれを境に、受験に落ちてから長らく続いていた学歴コンプレックスから抜け出し、落ちた自分を責めることを、私はやめた。

正しくは、"やめることが出来た"。


4.治療開始~一旦寛解


当時から飲んでいる薬は、ずっと変わっていない。
抗うつ薬精神安定剤睡眠導入剤の3種類。
大学に入って以後から現在に至るまで、上述した症状に加え、不眠・早朝覚醒の症状が出ているため、抗うつ薬・精神安定剤は毎晩マストで、睡眠導入剤に関しては眠れない時に限り服用するように指示を受けた。

薬の種類も変わらずだ。
抗うつ剤はミルタザピン、精神安定剤はメイラックス、睡眠導入剤はデエビゴ

ミルタザピンはリフレックスという名前だったのが、気がついたら名前が変わっていた。
治療開始当初はミルタザピン15gを2錠、メイラックス1錠、必要に応じてデエビゴ1錠、という用量だった。

抗うつ剤には沢山の種類があるけれど、私が服用しているミルタザピンは、NaSSAという区分に分類されるやつ。

抗うつ剤の種類。
何が自分に合うかなんてわかんないよね。

パート2の②でも綴っていくが、再発したり、未だに容態が安定しないことからも、そろそろ薬を変えてみてもいいのかもしれないと、個人的には思っている。
今年の目標、『今よりも相性の良い抗うつ薬に乗り換える』



しかし何はともあれ、当初はこれでひとまず落ち着いた。
あれだけ自分を苦しめていた症状が、薬と周囲の協力により、みるみる控えめになっていった。
そして大学を半年休みながら、治療に専念した。
それが功を奏し、大学3年に上がる頃から、次第に普通の生活が出来るようになった。

その後、無事に大学を卒業し、社会人になって数年間は、いずれにしても容態は比較的安定。
日々の中で多少の浮き沈みはあるものの、生活や仕事に支障を来たすことは無い程度だった。

その様子を見た担当医から、「ミルタザピンは服用を続けてもらうものの、メイラックスとデエビゴに関しては量を徐々に減らしながら、最終的には飲まなくて良い」と言われ、時間をかけつつもそれに従い、メイラックスとデエビゴ無しでも何も困ることなく生活が出来るまでに回復していき、安定していた。

そうして私の鬱病は、「油断は禁物だけれど、ひとまずは寛解」という見解を受けた。

こんなに簡単に良くなるなら、糸が切れたあの時に、病院に行けていたら良かった、治療を始められていたら良かった、と、今も後悔が消えない。

これを読んでいて、病院にかかっていないけれど自覚症状のある、そんな人がもしがいらっしゃったら、ご自分のために、どうか一刻も早く精神科か心療内科にかかって下さい。
お願いします。

評判の良い病院の予約が取れないなら、評判なんか気にせずに、とにかく即日で予約が取れるところで構いません、病院に行ってください。
他院に移ることなんて、紹介状1枚あれば、後からいくらでも出来ます。

もし同じ苦しみを味わっている人が居たら、何か力になれれば幸いです。


第1弾はここまでです。長くなるんで。
パート2に続きます。

なんでかって?
再発して絶賛休職中だからだよこの野郎。

第2稿、「再発自殺未遂休職」です。
お楽しみに~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?