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私と鬱のズッ友物語②


前稿の続き。

私のズッ友についての話、後編です。パート2。
本稿は、パート1のその後、一旦寛解した後のお話です。
再発休職 & 自殺未遂 現在に至るまでのことを時系列順にお話しします。



1.再発

せっかく症状を薬でコントロール出来るようになり、その結果、そのほとんどを抑圧出来るまでに回復していたのに、あれだけ調子が良かったのに、安定していたのに。
何故、再発してしまったのか

勿論そこには、確かなきっかけ・理由・背景が存在するけれど、私個人の病状はさておき、その前に、まずはそれ以前の話をしようと思う。
自己擁護のためでもなんでもなく、事実として、統計に基づいた話をする。

鬱病という病が、どれだけ手のかかる厄介者か、という件について。

鬱病は、約60%の割合で再発する、という医学的データが存在する。
そして再発を起こした患者は何度も再発を繰り返し、再発の回数が上がるにつれ、更に再発の可能性が高まり続けていく。
残念ながら、これが現実。


例えば、鬱病患者が、私の向かいにもう1人居たとする。
統計に基いて、その人か私のどちらかが再発すると考えれば、自分が再発したことにも納得がいく。悔しいけれど。
何なら、実際の統計は半数以上の割合だ。
私とその向かいの人、両者が揃って再発したって、何もおかしな話じゃない。

再発の理由は、人それぞれだろう。
発症の理由・原因が人それぞれなように。

私の場合、1番の直接的な理由は、信頼しては憧れて尊敬してやまなかった上司からの、暴力と暴言だ。

それが1番のきっかけであり、原因だ。
それは自分でもわかっている。

だが、些細な理由は他にもいくつか存在する。
例えば記事にもしたように、目標を見失ったこともその1つだ。


あるいは、当時与えられていた膨大な仕事の量に対し、私の身体が限界を迎えていたにも関わらず、それを無視して仕事を続けたことも、原因の1つだろう。

そして、これはあくまで個人的な見解に過ぎないけれど、メイラックスの用量を減量し、結果として服用しなくても良い状態にまで無理矢理持っていったことも、正直良くなかったのでは、と思っている。
メイラックスは依存性が非常に高い薬であるため、いずれは飲まずに済むようになるのがゴールである、ということはわかっていたけれど、私には精神安定剤のメイラックスを手放すには、まだ早かったように思えた。

再発前の私は、「本当に鬱病患者だったのか」と、きっと多くの人が疑いの目を向けそうなほどに、健常だった。
とはいえ、その陰で、抗うつ剤の服用はずっと続けていたわけだけれど。

ついでに、ここで意外と知られていないことを、少し書いておこうと思う。

皆さんの周りに居る人たちの中で、抗うつ剤を就寝前に毎日服用し、しかしそれを誰にも言わずに、自分が鬱を患っていることを公表せず、誰からも悟られないように日々を生きている人が、絶対に居るはずだ。

生涯のうちに15人に1人が患うと言われている、決して何も珍しくない、ありふれた病。
それと闘いながら、普通に生活をし普通に仕事をしている人は、必ずあなたの周りにも居ることだろう。
あなたも周りも、それを知らないだけで。気がつかないだけで。

私もまた、そのうちの1人だった。
今はもうこうして公表してしまったから、隠す理由も必要もないけれど、明るい私の姿しか知らない人間がこれを読んだら、きっと多くの人が驚くことだろうと思う。



私の鬱病再発の1番のきっかけとなった、上司からの暴力と暴言

私の仕事はライブ現場に携わる専門職。
そういう業界だから」と言ってしまえばそれまでで、現場で罵声を食らうことなど、日常茶飯事だ。

しかし、自分が最も憧れている人から発せられる暴言は、今まで浴びせられてきたそれらとは、心が受けるダメージが明らかに違った。

そして極め付けは、暴力
とある日のとある現場で、それは起きた。
胸倉を掴まれ、押し倒されるのを3回。
頬を殴られるのを2回。

こういう時に、男と女の力の差を痛感してしまう。
わかってはいたけれど、文字通りの力勝負では、女の私は勝つ術も無く、あっけらかんと負けた。
男性の力量には、到底敵わなかった。
毎日欠かすことなく腕立てを20回やり続けた数年間が、全て無駄に思えた。

大好きな上司から暴力行為を受けたことが、あまりにショックで、最初はショックすらも感じなかった。
そして1日、また1日と時間が経つにつれ、そのショックは次第に自覚出来るものへと変わっていった。

あの日自分がされたこと。
私は、信じたくなかった。
今もまだ、信じたくない。 

それほどまでに、傷ついた

そしてまた、糸が切れたのだと思う



その件の暴力の1件が一段落ついた数日後、最初の異変が起きた。

2022年10月31日。
この日は自分にとって毎年特別な日で、都内フレンチでディナーの予定を入れていた。
そんな前々から楽しみにしていたスペシャルデー。
普通なら、嬉々として目が覚めるに違いなかった。

あれ、おかしい、身体が起こせない

寝不足でもなんでもないのに、ベッドから身体を引き剝がすことが出来なかった。

おかしいな、疲れてんのかな

そう自分に言い聞かせながらも、嫌な予感はしていた。
その異変は、何年も前にあれほど苦しんだ症状と、残酷なまでに酷似していたから。

本当に世の中ってのは、嫌な予感ばかりが的中する

その日だけでなく、それから何日か身体が起こせない日が続いた。
仕事はなんとか這って行ったものの、その数日後に、名古屋で某バンドのライブを観に行く予定を何か月も前から入れていて、チケットも新幹線もホテルも抑え、そのためにその日と翌日は仕事も前々から休みをもらっていた。
にも関わらず、私はその遠征に行けなかった。
そんなお金の無駄になるようなことを、普通の私がするわけがない。

自分が再び壊れ始めている、という予感は、確信に変わった。



かつては無理矢理連れて来られたものの、容態が安定してからは、2か月に1回、ミルタザピンを貰いに担当医と世間話をするだけの平和な場所へと変わった病院。

次回の来院は12月の予定だったが、11月の上旬にすぐに予約を入れた。
そして担当医に、自分の異変を伝えた。

再発だね」 

そう言われた。
わかっていた。
わかりきっていたことだった。

その後、体調に合わせて随時薬の用量をコントロールしても、その甲斐は全く無く、時間が経つにつれ、体調は悪化していく一方だった。

薬の用量は徐々に増えていき、休職に至るまでの間に、服用量は最終的に、発症当初と変わらないまでになってしまった。



そして2023年1月、ついには身体と心が全く言うことを聞かなくなった。
自分という人間が、まるで使い物にならなくなっていく実感に対する、計り知れない恐怖。
仕事を何個か飛ばした。 

もう、これ以上は無理だと思った

認めてしまえば、楽になれると思った

私は、“再発” という現実に抗うことをやめた

2.休職 & 自殺未遂

休職理由は、「一身上の都合、体調不良」という至って普通の理由を述べた。
当時の私は、自分が弱い人間であると、会社の人間たちから見限られるのが怖くて、本当のことを言えなかった。
上司からの暴力が最たる原因であるにも関わらず、私は本当のことを言い出せずにいた。
そもそも、その上司はその会社の取締役だ。
被害を訴えれば、自分で自分の戻る場所を潰してしまうことはわかっていた。
「あなたからのパワハラが再発の直接的理由ですよ」という旨を、その上司に報告したのは、休職から3か月も後の話になる。

この会社は、症状が寛解し、鬱であると申告する必要もないまでに体調が安定していた頃に入社した会社だったため、会社には入社当時、特異事項に関して、鬱のことは特に何も伝えることなく入社した。
休職中は、そもそも会社に戻るかどうかも定かでなかっため、休職手当等をもらわず、社会保険からも抜けると決めたため、正直事細かに病状を会社に説明する必要はなく、医師の診断書も特に提出しなかった。



そして昨年2023年冬の終わり頃から始まった休職生活。
そして、かつて経験したことのない無職生活。

私の場合は幸いなことに、実家が裕福で太かったことと、「貯金が趣味です!」と発言するくらいには貯め込んでいたため、生活面金銭面で困るということは無く、とにかく心と脳を休めることに専念出来た。
これに関しては今振り返っても本当に恵まれていたと思う。

日々自分に重しを掛けていた仕事が無くなり、急に暇になった。
だからといって、心が澄み渡るわけもなく。

私はまた、ベッドから全く起き上がれない日々へと引き戻された

この時期、自律神経が崩れていたこともあったのか、とにかくどこに居ても、光が眩しくて仕方なかった
蛍光灯、太陽光、液晶の明かり。
全てが煩わしかった。
当然、部屋の電気はつけずに生活する日々を余儀なくされた。
どうしても明かりを点けなければならない時は、室内にいるにも関わらず、私はサングラスをかける人間になった

この影響は、実を言うと、症状が落ち着きつつある今でも続いている。
今でも、昼間に外出する時は可能な限りサングラスを着用し、家でもカラーグラスを着用し続けている。
「最近なんでいつもサングラス着けてるの?」と友達に訊かれた時、咄嗟のことでまともな言い訳が出てこず、「いや、なんか、かっこいいから」という実にふざけた理由を述べたが、本当はそんな次第だ。
今もまだ、屋内屋外関係なく、眩しさを遮断してくれるツールを手放せずに生きている。

それ以外の、再発後の症状について。
以前までには見られなかった新たな症状、逆に消失した症状を挙げてみる。

  • 本が読めるようになった → 受験生の時、あれだけ苦労した読解困難問題は、抗うつ剤の服用によって解決していき、寛解に向かうにつれ、文を前にして困ることはほぼ無くなっていった。
    何より、起き上がれるようにはなったけれど、外に出られるほどの回復はしていない…、という状況の時は、本を読むくらいしか他にやることも無く、元来の趣味である読書に本当に救われた。 去年5月あたりは、マジで日がな読書しかしていなかったな、と。

  • アルコールが飲めなくなった → そもそもメンタル関連の薬は、アルコールとの相性が最悪なため、「アルコールは可能な限り控えるように」と前から薬剤師さんに言われてきた。
    しかし、そういう意味での“飲めなくなった”ではなく、薬との相性どうこうの話ではなく、アルコールが、途端に、怖いものに思えた。
    三度の飯より酒を死守するアル中が、このザマだった。ありえない。おかしい。多分そろそろ地球終わる。
    「怖いもの」という伝わりにくい表現について解説すると、酒を飲むと、人って陽気になったり説教したがりになったり泣き上戸になったり笑い上戸になったり、度合いは人によるけど、多少なりとも性格が変わるじゃないですか。
    なんか当時、それが途端に怖いことに思えて。
    理由は今でも謎です。
    だから1番症状が重かった3ヶ月くらい、全く酒に手をつけなかった。
    アル中が3ヶ月酒飲まなくて済むなら、それってもうアル中じゃなくね…?え…?…やったー!!!!!

  • 過呼吸の発作 → 途端に視界がチカチカし出して、そこから目眩が起こり、呼吸がおかしくなる。
    人って、自分の呼吸がおかしいとわかると、吸うことばかりに意識がいくのよね。
    吸ったら吐く。吸ったものは必ず吐き出す。
    それで初めて呼吸が成り立つ、ということも忘れて。
    だから、ひたすら吸いまくるタイプの過呼吸に苦しんでた。
    きっかけも無く突然起こるから、自分でも予期出来なくて、この発作が酷かった時は、とにかく外出したくなかった。
    でも実際は家に居ても外に居ても苦しんだから、場所なんて関係無かった。

  • 希死念慮 → 最初に発症した時には、鬱の代表的且つ典型的な症状の1つとも言える希死念慮は、私の場合そこまで強くはなかった。
    その一方で再発後は、もう1日中、頭の中は、死ぬことと、「死にたい」の気持ちのみ。

  • 過去のフラッシュバック → テレビやドラマや映画の中で映し出される暴力的なシーンが目に入ってしまった時、あの日自分がされたことのフラッシュバックが起こっては苦しんだ。
    私、前からアクション映画が好きで。邦画だとるろ剣(実写)とか洋画だとマトリックスとか、アニメでも鋼とかPSYCHO-PASSとか呪術とか、暴力的なシーンが多々含まれる作品で、好きな作品がいっぱいあるんだけど、本当にきつかった時はこれらが一切観れなかった。
    何故なら、誰かが誰かから手をあげられているシーンを観ると、あの日の自分を即座に思い出してしまったから。そして、フラッシュバックが起こってしまったら、もう後は地獄。その日の夜は、全身汗だくになる程悪夢に魘される。その繰り返し。

そう。
私は、見事なくらい完璧なPTSDに陥っていた。 

PTSDとは、Post Traumatic Stress Disorderの略称。
心的外傷後ストレス障害のこと。

そんなわけで、これだけ事が大事になってしまったので、上述したように、例の暴力の件は、例の上司に当然のように報告をした。
それ以前の段階で、もうこれ以上ないというくらい謝られていたけれど、報告の末、「なんでもっと早く言わなかったんだ」という叱責と、重ね重ねの丁寧な謝罪を受け、事は解決した。
表面上は。

私の中で解決したのかどうかは、正直自分自身でもわからない。
PTSDの症状は次第に落ち着いていき、現在はもう殆どが治ったため、ひとまずは解決ということでいいのかしら。

でも、どれだけ謝られても、許せる日は来ない気がする。
でも、尊敬して止まない人を、恨みたくもない。
でも、傷が痛んで痛んで仕方がない。
でも…

「でも」の逆説の接続詞しか存在しない、そんな意味のわからない世界で、今の私は生きている。



* 

ただでさえ、何をしていても、「死にたい」の4文字が常時が頭にあるような状況が続いていたのに、そこに、記事にもしたような目標やモチベーションを見失ったことのつらさも相まって、もう、これ以上は生きていられないと思った。

生きていたくないと思った。

そして私は、死を選んだ


タンスの取手に、楽器用ケーブルを結びつけて、自室で首を吊った。
(こういう時に元の職業柄を発揮させるの、誰も得をしないから我ながらやめてほしい、何ならネタにしかならない)


生まれて初めて、遺書なんてものを書いた。

今まで何度も何度も、「死にたい」と思ったことはあったけれど、いつも死ぬのが怖くて、毎回どこか俗世に未練があって、実行に移せなかった。
今までは結局、本気で「死にたい」とは、私は思っていなかったんだろう。

しかしこの時は、少し悩んだ末に遺書を残す段階まで辿り着いたため、遺書を書きながら、「あー今回は本当に死ぬんだな、私」と、とても冷静に自分を俯瞰していた。

遺書には、家族に対しての「ごめんなさい」なんてことは書く気になれず、そんな気力は無く、ただ一言、「会社に連絡して下さい。」とだけ書いた。

今振り返っていて思うし、現在進行形でタイピングしていて気づいてしまった。

私は結局、自分を追い詰めた存在を、心の底から恨んでいた
その恨みが今も同じくらいの濃度で続いているかどうかは、やっぱり自分でも曖昧だけれど。


つらつらと長い文言、しかもそれが遺族や親しい人間への感謝だったりする立派な遺書を綴って死んでいった人たちは、きっと事前に前もって書き上げていたのだろうと思う。
そう思ってしまうくらいには、遠回しな恨み言でしかない言葉を残すのですら、私にはやっとのことだった。
恨み言を残すのが、私にとって人生で最後の頑張りだった。

気道を絞めなければ、首を吊って死ぬのは決してさほど苦しくはない。
それを知った。
体重をケーブルに託してから、心の中でカウントをした。
10秒数えないうちに、次第に音が聞こえなくなるのが分かった。
人が意識を失うプロセスは、まず最初に聴覚がおかしくなること知った。

意識はそこで途絶えた

目が覚めた時、人には死んだ後の世界があるのだと知った。
死んでも目にはものが映るし、感情もあるのだと知った。
“無”だと思っていた死の世界は、生きていた頃とそう変わりないことを知った。

でもどういうわけか、頭がかち割れそうなほど痛かった。
そしてその痛みに気づいた数秒後に、とんでもない吐き気に襲われた。
胃の中のものを盛大に戻した。
吐瀉物で汚れた自分の上半身を見て、そこで初めて気がついた。


ああそうか
死ねなかったんだ





今までずっと、未遂完遂問わず自ら死を選ぶ人間と、どんなに死にたくても実行出来ない人間には、どんな違いがあるんだろうと、考えることが何度もあった。

私はずっと後者だったため、前者が羨ましくて羨ましくて、その理由と違いを知ろうと色々と調べたこともあった。

けれど、いざ自分が前者になってみて、前者になった今と後者だった今までを比較してわかったのは、両者の違いは、どれだけつらいかっていうつらいの度合いの違いでもなく、正気か狂気かっていう違いでもなく、助けてくれる人が居るか居ないかの違いでもなく、本気で死のうと思っているかいないかの違いでもない。

ただ、
死に救いを描けるか、それとも描けないか。

死ぬ時の痛みや苦しさや恐怖と、これから生きていくつらさ、その2つを天秤にかけて、後者の方がつらいと思うか否か。
人が自ら死ぬべく行動を起こすきっかけは、たったそれだけだと知った。

死に救いを描けてしまって、死を恐れなくなってしまったら、もう最後なんだろうと思う。
「人って案外簡単に死ねるんだ」と知ってしまったら、もうその人は迷うことなく死に向かって突き進んでいく。
一瞬だけ我慢すれば、もう永遠に楽になれるんだと本気で思えてしまったら、もうその人を救うことは出来ないと、私は思う。


私の自殺は、幸か不幸か、未遂に終わった



その後のことは、記憶が飛び飛びで、全てを事細かに綴りたくても、綴ることが出来ない。
休職前、再発しながら苦しい思いをしていた時期のことも同様だ。

人間の脳は、本当によく出来ている。
あまりにもつらかった頃の記憶は、脳が勝手に所々消しては、完璧に思い出せることがないように、勝手に身体がリミッターをかけてくれる。

そんな中で思い出せることだけ要所要所掻い摘んで書くと、自殺未遂後、病棟に入り数週間を過ごし、その後は家で治療に専念した。
その頃の当分の目標は、二度と死のうなどとしないこと、起き上がれるようになること、上述したようなフラッシュバックや発作の症状を抑制出来るようになること、だった。

昨年4月から6月いっぱい、そんな方針の治療に専念し、同時に少しずつ外に出る練習もしつつ、平静を取り戻すことだけを目標とした。
7月からは、また普通に生活を送れるまでに安定した日々を過ごせるようになった。


3. 現在

昨年夏以後は、かなり安定しつつも、やはり日によっては多少の浮き沈みがある。
中には全く起き上がれない日があったり、酷い時はそれが何日~何週間か続くようなこともある。
しかし焦ってもどうにもならないため、そんな歯がゆい状況を受け入れつつ、何とかまた普通に生きることが出来ている。

本当にあの自分とこの自分は同一人物なのか、と思うくらい、落差がすごいなんてこともよくあることだ。
例えば、海外に行けるまでに回復したと思ったら、元から秋から冬にかけての時期が苦手であることもあり、また昨年のその時期に自分の身の回りで非常に甚大な負の出来事が起きたことが精神的圧迫に繋がったこともあり、11月下旬〜12月半ばまでは、ずっと寝たきりだったりした。
そして何なら、年が明けてこれを書いている数日前までも、何日も体調が優れない日が続き、安定していると胸を張って言いたいものの、私の体調は、今も尚、天と地を行き来するような、ガッタガタの不安定なグラフを描いている。

再発後、30g服用していたミルタザピンは、現在15gまで減った。
と言うよりも、正確には、そこまで量を戻すことが出来た。
加えてメイラックスは1錠を毎晩服用している。
デエビゴは念のため手元に置いてはいるが、本当に眠れない日以外はまず服用することはない。
すぐにメイラックスの用量を減らしたり、服用をやめることは、例えこの薬のリスクを知っていたとしても、当分落ち着くまではしないだろうと思う。
同じ轍は踏むまい。

前稿で書いたように、ミルタザピンの服用を続けていても、これ以上良くならず、以前のように抗うつ剤から足を洗うことも出来ない日々が続くことが最初からわかっているのなら、当然多大なリスクは伴うが、薬を変えること、「薬を思い切って変えてみたい」と担当医に進言することもまた、一つのステップな気がしている。
それが、ひたすら前進出来る結果を生むのか、後退を伴いながらも最終的に前進出来る選択肢なのか、はたまたただ後退するだけの博打なのか。
それは、試してみないことには、誰にもわからない。


何はともあれ、これからどうなるにせよ、どうするにせよ、落差はあるものの、私の病状は、前よりも確実に良くはなっているのだろう。
そう信じよう。

自分という人間を信じてあげること
鬱病という荒手を抱える身にとっては、自分を信じること、それもまた、立派な治療の一つだ



これからも、まだ当分の間は休職だ。
精神的な面を整えることは勿論、いざ現場に戻るとなったら、体力を戻すということも私にとっては大きな課題だ。

休職しながら、今しか出来ないことをしつつ、遠回りしたこの道を決して嘆くことなく、寧ろ誇らしげに武器の如く振り回し、これからを過ごしていきたい。
今の私は、そう思っている。

初めて糸が切れたあの日から、丸9年という月日が経っていた。 

初めてこの病気に蝕まれた日から、それだけの時間が経っていた。

進んで、退歩して、死にかけて、そしてまた進もうとしている。

私のズッ友は、本当にタチが悪い。
今まで出会った中でも史上最悪の存在だ。

でも、出会ったことで、失ったものは数知れないが、出会ったからこそ、経験出来たこと、見れた景色がある。
憎たらしいが、それもまた事実だ。

そうであるなら、自然と縁が切れるその日まで、焦ることなく、私は自分の中の悪友と、目を逸らすことなく、堂々と向き合うと誓う。

人との縁には、必ず意味がある。
世の中で起こることの全てには、必ず意味がある。

不幸にも出会ってしまったこいつとの縁と、その出会いという必然の出来事を、決して悔むことなく、多大な意味と価値を持つ経験に変え、いつか「出会えてよかった」と面と向かって言える、そんな良縁にしていこう。
そう思った。


私と鬱のズッ友物語、完。

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