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『胡漢英雄記』より「胡雛長嘯」#2

【承前】

外戚として愚帝を担ぐ楊駿。漢の名門・弘農楊氏に属するが、人望はない。爵位や官位をばら撒き、租税を免除するなどして人気取りをはかっても、人心を集めることはできぬ。権門ゆえに集まるだけだ。曹操や董卓、司馬懿のような功績もない。小心で猜疑心がつよい。王莽を小型にしたような男だ。

直言が怒りに触れても、楊駿は殺しはせぬ。遠ざけるだけだ。それは美徳ではあるが、小心ゆえでもある。人はそのために彼を畏れず、侮る。

「いよいよ、晋家の命運も」「まだだ。時を待て。楊駿の弟らは侮れぬ」

楊珧楊済。先帝以来、兄と共に権勢を恣にし、「天下三楊」と呼ばれる。済は兵馬を長く管轄して施しを好み、人望がある。珧はしばしば皇帝に諫言し、早くから劉淵の才覚と異心を認めてきた。楊駿と共に彼らが滅びるならば、晋家の命運は危なかろう。兆しはいくつもある。許昌には汝南王、宮中には賈皇后。どちらかが、まずは政権を握るであろう。その後は…。

「王彰が官位を辞退したそうな」「楊駿から『司馬』に任じられるのも…」「はは、そうだな。余は有り難く受け取っておくぞ」

劉淵と密談する老人は、同族の劉宣。匈奴右部都督である。かつて毛詩・左伝を学び、帰郷すると漢書の蕭何伝・鄧禹伝を繰り返し音読して、彼らに憧れていたという。劉淵の右腕として部族を取りまとめ、いずれは天下を、との志がある。胡が漢を征服するのではない。漢を再び建てるのだ、と。

「バイよ。匈奴の五部大都督様を、知っているか」「はい。噂には聞いています。雲の上の御方ですが」

赤銅色の肌に筋肉が盛り上がり、汗が噴き出す。畑を耕すバイに、畑の主人が畦道に座り、話しかけた。太原郡鄔県の人、郭敬。あざなは季子。陽曲県の甯駆と共に、バイを気に入って支援してくれる漢人だ。バイは報恩のため彼らの畑を耕している。飲食や銭も出る。武郷からの道は遠いが、働き甲斐はある。色を売っているわけではないから別によかろう。口さがないやつには言わせておく。

郭は手酌で酒を飲みながら、立ったままのバイと対話する。バイよりは年上なだけでまだ若いが、鬱屈を晴らしたいようだ。

「おれは会った。彼は龍だ。一世の英傑だ。おまえは彼に仕えるがよいぞ」「場合によります。大都督様は晋の臣。郭公もおれも晋の民です」「いまの晋は、楊駿の私物だ。乱世は近い」「郭公は乱を好むのですか」

ぐい、と郭は盃を干し、また手酌で注ぐ。

「好まぬが、世が変わることを望む。良い方にな。乱なくして、いまの世は変わらぬ」「晋が滅んでもですか」「魏は漢にかわってから五十年の命もなかった。晋がそうならぬとは限らぬ」「漢は四百年も続いたそうですが」

ふん、と郭は鼻を鳴らし、指で地面をいじる。

「漢家は王莽によって途絶し、光武帝が中興した。名目はともかく別物だ。蜀漢も滅び、漢の命は尽きた。だがな」

郭はふらりと立ち上がり、笑ってバイに盃を差し出す。酒が半分ほど入った盃の底に、土が少し入れてある。嫌がらせではない。

「五部大都督様の姓は劉氏で、漢光郷侯だ。は前業を紹(つ)ぐことをいう。彼は漢を再興するであろう。さあ、飲め!」「頂きます」

恭しく拝し、ぐっ、とバイは盃を干す。土も共に飲む。どこかで聞いたが、これはこの土地をくれるということだ。酒の上でも吉祥だ。

「でも劉氏と言っても、匈奴ですよ。胡が漢を光(つ)ぐなんて……」

盃と共に返ってきたバイの答えに、郭はカラカラと笑う。

「おもしろいではないか。秦や周は西戎、商は北狄、夏は東夷だ。漢人など蛮夷の寄せ集めよ。この并州、晋地は、夏と胡が混ざり合って来た地だぞ。晋の文公の母は白狄、妻は赤狄ではないか。胡が漢を光いで不思議はない」

バイは頷く。甯駆、李川、この郭敬。漢人の中にもこういう者がいるのだ。郭は上機嫌で盃を掲げる。「さあ、歌えい!対酒当歌だ!王夷甫どのに聞かせたという、喉歌を!」「はは、しからば一節。ルウィイイイ……」

永煕改め、永平元年。賈皇后と楊駿の対立は続き、正月に動いた。楊駿は甥の段広を散騎常侍に任じて宮中の機密を管理させ、側近の張劭を中護軍に任じて禁兵を統率させた。さらに全ての詔勅を、楊駿の娘たる楊皇太后が内容確認してから発布すると定めた。太傅・大都督となり仮黄鉞を下賜された楊駿の専断を止めることは、法律上は誰にもできない。輿論は沸騰した。

「社稷を傾けんとしていることは明らかだ!」「晋家を救え!」

賈皇后にも人望はなく、嫉妬深くて猜疑心がつよいことは楊駿よりひどい。輿望は許昌の汝南王に注がれる。荊州には楚王が、揚州には淮南王がいる。彼らは武力で宮中を鎮めることができよう。誰がどちらに味方するか。

「楚王と淮南王が入朝を求めております。太傅様にお味方したいと…」

夜。家奴のしらせに、楊駿は憔悴した顔に喜色をあらわす。兵が来た。皇后派を粛清し、返す刀で軍権をとりあげれば……。と、家奴がもうひとり。

「門前に、隠者の孫登なる者が来ております。お伝えしたいことがあると」

訝しんだ楊駿が門前に出てみると、ボロ布をまとった怪しき男がいる。丸腰だが、暗殺者か。ならば、こう堂々とはしていまい。皇后暗殺を請け負いたいとでも言うか。だがかような者を使えば、輿論がうるさい。

「隠士殿、何事かな。ここで承ろう」

衛兵に前後左右を護らせ、楊駿が距離をとって尋ねる。孫登は無言。ばさりとボロ布をぬぎ、宙へ投げた。そして衛兵にすばやく近づくと、腰の刀を抜き取る。「!」彼は地を蹴って跳躍し、空中で布を上下、左右、斜めに幾度も切り裂いた。闇に刀が閃き、ひらひらと布切れが舞い落ちる。

気がつけば、孫登はいない。抜かれた刀も腰に戻っている。幻術か。楊駿は首を傾げ、邸内へ戻る。狂人か、芸人か。否。

地面に舞い落ちた布切れは、兆しであった。天下はこのように乱れよう。

永平元年三月。賈皇后は楚王・淮南王と結託し、宮中の兵を挙げて楊駿を誅殺。三族は皆殺しとなり、皇太后も庶人に落とされて監禁、殺害された。楊氏に与したとみなされた者も多くが殺された。さらに賈皇后は楚王を用いて汝南王らを除き、続いて楚王をも排除した。

意外にも賈皇后は賢臣に政事を委ね、数年の間は平穏であった。だが恨みは積まれ、火種は残された。乱世は近い。皆がそれを感じていた。

【序章終わり】

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