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【つの版】日本刀備忘録27:追儺鬼遣

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鬼とは本来「死者の霊」を指す漢語で、目に見えない様々な精霊・怪物を指す語ともなり、仏教を介してインドの鬼神論も取り込まれました。日本では「もの」「おに」と読まれ、独自の発展を遂げていきます。そして現世に害をなす鬼たちは現世の武力や呪力によって追い払われることになります。これがすなわち鬼退治・鬼やらいです。

◆鬼◆

◆殺◆


追儺鬼遣

 災厄をもたらす悪霊を何らかの手段でこの世から追い払うことは、古来世界中で行われていました。特に日本の鬼に大きな影響を与えたのは、古代チャイナから伝来した「」という儀式です。

方相氏。掌蒙熊皮、黃金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪、先柩、及墓、入壙、以戈擊四隅、驅方良。

『周礼』夏官司馬

 儒教の経典『周礼』によると、周王朝の武官には「方相氏」というものがありました。これは「狂夫(巫師)」4人からなり、熊の毛皮をまとい、4つの目を持つ黄金の仮面をかぶり、黒い衣と赤い裳(スカート)を身に着け、戈(ほこ)を執り盾をかかげ、百人の奴隷を率いています。難(儺)の時にはこの格好で宮中の部屋を探索し、疫病を駆逐します。また葬式があれば、墓所の中に入って四隅を戈で撃ち、方良(魍魎、悪霊)を駆逐します。

 難の字には「とがめる」「なやます」「はらう」といった意味があり、鬼をそうして追い払う儀式です。方相氏の姿も異様で人間離れしていますが、その姿と武器によって疫病や悪霊を駆逐するとされていたのです。儒教経典の『論語』や、秦代に編纂された『呂氏春秋』にも、方相氏の描写はないものの「儺」についての記述があります。周礼や論語は漢代の偽経のようですが、実際に古くからこのような儀礼は行われていたことでしょう。

郷人、朝服而立於阼階。
 村人が儺を行う時は、礼服を着て階段に立つ。

『論語』郷党

季冬之月。…命有司大、旁磔、出土牛、以送寒氣。
 冬の終わりの月。…役所に命じて大儺を行い、
 傍らでは磔(犬を生贄にして四方の門に晒す儀式)を行い、
 土牛(牛の土偶)を出して寒気を送る。

『呂氏春秋』季冬紀

 呂氏春秋によれば、儺は冬の終わり、年の終わりである大晦日(太陰太陽暦では立春の前、春の節分)に行われたようです。『後漢書』では周礼の儀式を拡大し、黄門(宦官)の子弟のうち10歳以上12歳以下の者から120人を選んで侲子しんしとし、祝詞を唱えて方相氏とともに疫神を駆逐するとされました。また宮中の門には桃の鞭や葦の網を設け、天子から公卿・将軍・諸侯らに葦の戟・桃の杖を賜るといいます。

鬼門出遊

 桃や葦が加わっている理由は、後漢の王充の『論衡』に引く『山海経』に見えます。すなわち「滄海の中に度朔山があり、その上に大きな桃の木があって三千里を覆う。その東北方を鬼門といい、全ての鬼が出入りする。そこに神人が2人いて鬼を見張り、悪事を行えば葦の縄で縛り、虎に食わせた。黄帝はこれにならって桃の木で人形を作らせて門番とし、神人と虎を描いた絵を門戸にかけ、葦の縄をかけて凶魅を防いだ」というものです。前述のように、記紀神話でイザナギが桃を投げて黄泉国の軍勢を祓ったのはこれによります。3世紀の纏向遺跡でも多数の桃の種が出土しています。

 儺の儀式はチャイナで広く行われ、倭国/日本にも渡来人や遣唐使により伝来しました。『続日本紀』によれば慶雲3年(706年)の大晦日に初めて「大儺」を行ったといいます。天下諸国に疫病が流行し、百姓(民)が多く死んだためとされ、呂氏春秋の通りに土牛も用意されています。弘仁12年(821年)に編纂された儀式書『内裏式』でも「大儺」と記されていますが、延喜5年(905年)に編纂された『延喜式』では「追儺」となっています。

 それらによれば、これは年の終わりに行われ、平安京の内裏および外郭の東西南北の四門において催されます。儺人(追儺を行う役人)は四門に配され、黄金四目の「方相仮面」をつけ、装束を纏いほこと盾を持って、侲子とともに悪鬼を祓います。また親王が「葦箭・桃杖」を携えて宮城の四門に出、鬼をさらに外へと駆逐するのです。『三代実録』によると貞観8年(866年)、方相氏の役を行う者として坂東から身の丈6尺3寸(190cm余)の大男を召したといいますから、方相氏は相当の巨漢だったようです。

 儺の儀式は宮中のみならず、仏教寺院を介して民間にも普及しました。正月行事の修正会、2月の修二会では「鬼追式」が行われ、毘沙門天や龍王、松明を持ったが駆け回って悪疫を追い払います。鬼を祓う方相氏も鬼とみなされたのです。節分に豆を撒くのは後世の話ですが、鬼ごっこ、隠れ鬼といった遊戯もこれと関係があるのではないか、とも言われます。

 こうして人の住む場所から追い払われた鬼たちは、現世とあの世の境である門や辻、廃墟や荒野、川辺や墓場へ隠れ潜みます。チャイナでもインドでも古今東西でこうした場所は悪霊の住処とみなされました。平安京の羅城門や朱雀門の楼上には鬼が棲むと噂されましたし(琵琶や笛を盗んで演奏する風流な鬼だったそうですが)、平安時代に死体が野ざらしにされた鳥辺野とりべのなどにも鬼が出没したでしょう。

 目に見えない悪霊ばかりでなく、貧民や流民、盗賊や異民族もしばしば「鬼」とみなされました。『日本書紀』景行紀に、蝦夷の地には「山に邪神あり、郊に姦鬼かだましきおにあり」とあり、欽明紀には佐渡島の北に漂着した粛慎人を「人に非ず、鬼魅おになり」と記しています。人里から追い払われた鬼たちは、山や海の彼方の異郷で跳梁跋扈していたのです。

鬼裔童子

 一方で、役小角や安倍晴明のように「鬼/式神を使役した」伝説を持つ霊能力者も存在します。また仏教では不動明王の眷属に八大童子がおり、彼らのような童形の鬼神が高僧に仕えて守護し、身の回りの世話をすると信じられました。いわゆる「護法童子」です。酒天童子ももとは比叡山の地主神ですし、童子と名乗っているからには護法童子のイメージがありそうです。

 そうした超自然的な存在でなくとも、寺や僧には実際に稚児や童子と呼ばれる童形の人々が仕え、下働きに従事していました。特に延暦寺には「八瀬童子」と呼ばれる職能民の一団が仕えています。彼らは長じても髪を結わず童形のままでおり、様々な雑役や天台座主の輿を担ぐ役目を行い、租税を免除されるなど各種の特権を有していました。彼らは「鬼の子孫」と誇らしく自称し、後には「獄卒の子孫」「酒呑童子の子孫」とも名乗っています。

 こうした「鬼の子孫」を名乗る人々は全国各地に存在します。おそらく律令制度が平安時代に崩壊した後、職能民や奴婢が国家の庇護を失い、権門や社寺に隷属して雑役を担うようになったのでしょう。彼らは耕作民ではなく私的な隷属民であるゆえ公的な納税を免除され、異形ながら特権を有する身分であったため、自らのルーツを常人ではない「鬼」に求めたのです。

 彼らは異形ゆえに「鬼」の眷属とみなされ、常人にはない呪力を有する者として畏れられました。天台座主や高僧・貴人の輿を担ぐ役目も、単なる力仕事ではなく、貴人を盗賊や悪霊の襲撃から護衛する重責でした。方相氏が鬼を追い払うごとく、彼らは手に武器を持って周囲の災厄を祓い、警蹕の声をあげて周囲を威嚇する存在だったのです。

◆鬼◆

◆殺◆

【続く】

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