【つの版】度量衡比較・貨幣163
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1775年、北米植民地では英国の支配に反抗する民兵の武力蜂起が勃発し、翌年7月に独立を宣言して国号を「アメリカ合衆国」としました。アメリカはフランスなど欧州諸国に支援を求め、独立戦争を継続します。
◆Baba◆
◆Yetu◆
英軍南進
フランスの若き軍人ラファイエットがアメリカに到着した1777年6月13日の翌日、英国の将軍バーゴインがカナダから軍を率いて南進を開始します。当時のケベック知事ガイ・カールトンはアメリカ軍(大陸軍)によるカナダ侵攻を撃退する功績を立てていましたが、その部下であったバーゴインは手柄を求めて南進作戦を立案し、ハドソン川を下ってオールバニーを制圧し、ニューヨークまで打通することを目論んだのです。すでに北米英国軍総司令官ウィリアム・ハウ将軍らがニューヨークを占領していますから、これと連携して動けばニューイングランドとフィラデルフィアを切り離せます。
バーゴインは8000の兵を率いて南進を開始し、陽動として2000の兵をモホーク川方面に差し向けます。ハウはフィラデルフィアへの進軍を計画していたためハドソン川を北上しませんでしたが、バーゴインは7月にシャンプレーン湖南端のタイコンデロガ砦を陥落させ、抵抗を受けながらも南進を続けます。しかしアメリカ軍は焦土作戦やゲリラ戦を行って兵站を断ち切り、オールバニーに軍隊を集結させ、その北のサラトガで英国軍を迎撃します。
1777年9月から10月にかけて、アメリカ軍はバーゴイン率いる英国軍を食い止め、孤立させ、高地に追い詰めて包囲します。バーゴインは兵力で2倍勝るアメリカ軍に囲まれて兵站を絶たれ、10月には降伏に追い込まれました。アメリカ軍はバーゴインらをボストンに送り、英国の捕虜となっていたアメリカ軍の将軍や兵士と交換して英本国へ送還します。英国軍はカナダへ撤退し、南進作戦は失敗に終わったのです。
費府陥落
1777年4月から6月にかけ、ハウはニューヨークからニュージャージー州へ英国軍を差し向けて小競り合いを行います。そして7月後半に陸軍の大半を艦隊に乗せてニューヨークを出港し、8月に南のチェサピーク湾に入りました。さらに北上して同湾北端のエルクトンに上陸し、南西からフィラデルフィアを脅かします(大陸会議の議場は1776年末にボルチモアに移され、翌年3月にはフィラデルフィアに戻されていました)。
アメリカ軍を率いるワシントンは手薄になったニューヨークへ別働隊を差し向けますが撃退され、自らはフィラデルフィア防衛に駆けつけます。この戦いにはラファイエットも参加しました。しかし激戦の末にアメリカ軍は敗れ、大陸会議の議場は西のランカスター、ついでヨークに遷されます。9月末、ハウ率いる英国軍はフィラデルフィアを無血占領しますが、アメリカ合衆国の抵抗はやまず、10月にはサラトガでバーゴインが降伏します。
ワシントンはバレーフォージに陣営を構え、フィラデルフィアを奪還すべく必死に英国軍を攻め立てていました。これは失敗したものの、バーゴインとハウの連携を絶つことには成功します。またハウはバーゴインに「彼が協力しなかったせいで失敗したのだ」と罪を着せられ、責任を取らされて辞職する羽目になります。代わって北米英国軍総司令官に任命されたのは、名門貴族ヘンリー・クリントンでした。
仏米同盟
バーゴインの敗報は、大西洋を隔てたフランスにも影響を及ぼします。ニューヨークとフィラデルフィアを占領されてもアメリカ合衆国の抵抗は続いており、ベンジャミン・フランクリンらアメリカの代表団はフランスはじめ欧州各国を巡って支援を求めていました。オーストリアは内陸国かつフランスへの不信もあって支援を行わず、スペインも植民地独立運動が中南米などへ飛び火しては困ると支援を躊躇っていましたが、フランスは北米に旧植民地があり、フランス系住民もいたことから乗り気になり始めます。
1778年2月、フランス国王ルイ16世はアメリカ合衆国の代表団と同盟条約を締結し、友好通商条約とともに調印します。これにより英国がフランスに戦争を仕掛けた場合、両国は互いに軍事同盟を結成して支援すること、英国から領土を獲得した場合の分割案、単独で英国と講和しないこと、英国から侵略された他国(主にスペイン)を同盟に加えることなどが取り決められました。3月にフランスからこの条約について通告を受けた英国は、直ちにフランスへ宣戦布告し、七年戦争以来15年ぶりに英仏戦争が再開しました。
またこの頃、ワシントンの陣営にシュトイベンというプロイセン人が馳せ参じます。彼はプロイセン陸軍で参謀本部員をつとめ、七年戦争が終わると除隊して各地を転々としながら求職活動をしていましたが、パリでベンジャミン・フランクリンに紹介されてアメリカ軍に就職したいと願い、1777年9月に渡米します。そして大陸会議から認められ、1778年2月にワシントンの陣営へ到着すると、プロイセン式のやり方で軍を鍛え直したのです。
1778年5月、ハウから北米英国軍総司令官の職務を引き継いだクリントンは、フィラデルフィアからの撤退と、フランス海軍に対処するためカリブ海への5000名の派兵を命じられていました。彼はハウとともにニューヨークへ向かいますが、カリブ海から北上してきたフランス艦隊はニューヨークに接近して脅しをかけ、撤退途中にはモンマスでアメリカ軍の襲撃を受けます。クリントンはなんとか撤退に成功してニューヨークに入り、フランス艦隊は北東のロードアイランドの港ニューポートへ向かいました。
南部戦線
クリントンはニューヨークから艦隊をニューポートへ差し向けて防がせ、自らはニューヨークに留まって全体の作戦指揮を取ります。これまでの大きな戦闘はニューヨークやフィラデルフィアとその周辺にとどまっていましたが、フランスが直接参戦した以上、戦線はさらに拡大せざるを得ません。北部や西部では英国側の入植者(王党派/ロイヤリスト、愛国者とも)や先住民がアメリカ側と小競り合いを続けていましたが、北米植民地の南部には王党派が比較的多く、近くに拠点を持つフランスやスペインの脅威も差し迫っていました。特に東西フロリダ(現フロリダ州とルイジアナ州)は13植民地のうちに含まれず、七年戦争によりスペインやフランスから英国領に組み込まれた地域です。これを奪い返されるわけにはいきません。
クリントンは南部を防衛・奪還するため、同年末に兵を差し向けます。まずジョージア州とサウスカロライナ州の間の街サバンナを占領し、サバンナ川を遡って翌年1月にはオーガスタを落としました。アメリカの南部防衛司令官ベンジャミン・リンカーンはチャールストンを拠点として抵抗します。
同年6月、スペインはフランスと同じブルボン家のよしみで対英同盟を締結し、英国に宣戦布告します。スペインはアメリカ合衆国の独立については中南米などの植民地を刺激するため認めませんでしたが、あくまでフランスを支援するという形をとり、自国と隣接する英領ジブラルタルに兵を差し向けて包囲を開始しました。英国はフランスとスペインの両大国を敵に回し、地中海支配の要であるジブラルタルを脅かされる羽目に陥ったのです。
◆Baba◆
◆Yetu◆
【続く】
◆