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【つの版】度量衡比較・貨幣78

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 主君・織田信長を本能寺の変で討ち取った明智光秀は、わずか11日後には羽柴秀吉に敗れて落命しました。秀吉は光秀討伐の大功によって織田家第一の重臣となり、主家と天下を牛耳っていくことになるのです。しかしだいぶ貨幣の話からズレましたし、そろそろかいつまんで軌道修正しましょう。

◆太◆

◆閤◆


石高制度

 鎌倉時代から室町時代にかけて海外から大量の銭が輸入されると、税収はによって換算されるようになりました。支配者は田地の面積や収穫量を計測(検地)させ、その田で収穫できる平均の米の量を銭に換算し、記録したのです。およそ米1石が銭1貫(1000文≒10万円)に当たるとされ、これを貫高制といいます。大名に仕える武家の知行(領地)も銭(貫)に換算され、それに基づいて軍役負担が割り当てられました。

 地域や時代によって価値は異なりますが、相模国を拠点として関東を支配した後北条氏は、田には1段あたり500文(半貫)、畑には1段あたり150-200文を標準として、永楽銭か米で納入させました。後北条氏は銭100文が米1斗2-4升としましたから、田1段からはその5倍、6-7斗ほどの米が収穫できたことになります。1石は10斗ですから2段弱で、だいたい1貫になります。

 ところが、16世紀後半には貫高制が崩壊します。倭寇によってもたらされた大量の銭に鐚銭が多く、銅銭に対する信用が下落したのです。また西国では石見銀山などから多くの銀が産出するようになりましたが、東国では甲州金はともかく銭や銀は手に入りにくく、生活必需品であるが銭に代わる標準貨幣になりました。これが江戸時代末期まで続いた石高制です。

 米1石(10斗=100升=1000合=1万勺=1740リットル)は、成人男性1人が一年間に食べる量とされます。従ってその土地の石高がわかれば養っていける人間の数もわかり、それに応じた税収や軍務が計算可能です。また当時の雑兵は一日に米4.5-6合、味噌2勺、塩1勺を必要としたといい、米・味噌・塩を1合1文で換算すれば1日5-6文(500-600円)です。これが1000人となれば1日5-6貫(50万-60万円)が兵糧代だけで飛び、1万人ならその10倍です。大軍を率いて各地を転戦した秀吉は、兵站や調略の重要性を身にしみて認識していたことでしょう。

 雑兵は戦場で戦ってメシや給与を貰うだけでなく、村々で人や物を奪って臨時収入としました。敵の弱体化もできますから一石二鳥ではありますが、あんまりやると恨みを買い、征服後の統治が難しくなります。そこで領主や惣村は攻め込んでくる敵と交渉し、民への暴行や物品の掠奪を免除して貰うよう金銭を支払いました。交渉が成立すると村の入り口には「制札」という立て札が掲示されます。天正18年(1590年)に秀吉が関東の後北条氏を攻めた時、彼は制札に値段をつけ、小さい村なら永楽銭で1貫、中くらいの村なら2貫、大きい村なら3貫200文としました。関東では永楽銭1文が精銭3文とされますから300円とすると、それぞれ30万円・60万円・96万円です。

太閤検地

 検地と石高制の導入は織田信長も一部で実施していましたが、本格的に行われ始めるのは秀吉による「太閤検地」からです。太閤とは前摂関をいい、天正19年(1591年)に関白の位を退いてからの称号ですが、彼は山崎の合戦の直後に周辺の寺社地から台帳を集め、権利関係の確認を行っていました。織田信忠の嫡子・三法師を傀儡君主として反秀吉派を打倒し、天下統一を進めつつ、秀吉は各地で検地を行って税収を確保するのに努めました。

 戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、惣村の代表者たる有力農民にまず納め、そこから領主へ納めるといった複雑な権利関係が存在しました。また検地も惣村側の自己申告が多く、実態とはかけ離れていましたが、秀吉は多くの田畑を実際に計測させています(できない場合も多々ありましたが)。そして各地で異なっていた計測単位も極力統一し、文字通りに天下統一を成し遂げていったのです。

 1589年(天正17年)に行われた美濃国での検地では、計測単位の基本を1歩(ぶ)と定めます。1歩は1間四方の面積で、1間は6尺3寸(191cm)ですから、およそ3.6481m2で、現代の1坪(3.3m2)あまりになります。30歩(109.443m2、1アール余)が1畝、10畝(1094.43m)が1反(段)、10反(1ha余)が1町です。これによって測られた田畑は上中下と下々の四段階に等級付けされ、年貢米は信長が公定枡としていた京枡(10合枡・古京枡、当時は1.74リットル)によって測られました。

 ただ地方の有力大名や一揆・国人の領地では検地が徹底されず、動員可能兵力から逆算したり、適当な数字を報告してごまかしたりしています。また米をほとんど生産せず、貿易の利益でやりくりしていた対馬の宗氏や蝦夷の蠣崎/松前氏などは、その利益に相当する石高が割り振られました。

天正大判

 また、秀吉は天正15年(1587年)に天正通宝、翌16年に天正大判、文禄元年(1592年)に文禄通宝という貨幣を発行しています。天正通宝・文禄通宝は金銭・銀銭・銅銭、文禄通宝は銀銭と銅銭だったといいますが、褒章用や軍事費用で一般には流通せず、詳細は不明です。

 天正大判は現存しており、重量は金一枚=京目で10両=44匁を基準としますが、摩耗などを考慮して2分を足し、44匁2分(164.9g)で鋳造されました。形状は楕円形で平たく打ち伸ばされ、表面には金細工師の後藤氏の花押が墨書され、秀吉の用いた桐紋が極印されています。この墨書や極印は価値を保証するもので「判」といい、判のある金貨・金塊を判金といい、大型の判金であることから大判、1両など小型のものを小判といいます。

 重量からして一般に流通したとは思えず、褒章用や軍事費の支払いに用いたものです。この頃の金1枚(10両)は米40-50石に相当したといい、米1石≒銀1匁≒銭1貫≒現代日本の10万円とすれば、金1枚で400万円-500万円もの大金になります。一般庶民の家庭がゆうに1年は暮らせるでしょう。甲州金をばらまいて調略や武備を行い、諸国を揺るがした武田氏の記憶は新しいのですから、秀吉も黄金の威力をよくわきまえていたのです。

 これに先立つ天正13年(1585年)、関白に就任した秀吉は運搬・組み立て可能な黄金の茶室を作らせ、翌年正月には御所に運び込んで天皇に披露しています。壁・天井・柱・障子の腰を全て金張りとし、畳表は猩々緋、縁は萌黄地金襴小紋、障子には赤の紋紗が張られ、茶道具もまた黄金であったといい、天下人秀吉の成金ぶりをうかがわせます。下品なようですが金閣寺もありますし、薄暗い場所では厳かな雰囲気がしたことでしょう。同年秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜い、太政大臣の位に昇っています。また天正11年(1583年)には石山本願寺の跡地に壮大な大坂城を築いて居城としており、黄金の茶室も後に大坂城へ持ち込まれています。

◆黄◆

◆金◆

【続く】

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