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【つの版】度量衡比較・貨幣121

 ドーモ、あけましておめでとうございます。三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 前回は江戸時代前期の貨幣と物価についてざっくり見てみましたが、もう少しこの頃の日本について見ていきましょう。まずは江戸時代の基軸通貨であるについてです。

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江戸検地

 16世紀末に行われた「太閤検地」によれば、日本全国の石高は1859万石あまりでした。実際には検地が行なわれなかったり、動員可能兵力や米の産出量以外での換算も多く含みますが、おおよその目安とはなります。米1石は成人男性1人が1年間に消費する米の量とされるため、その地域で養える人間の数ともほぼ等しく、年貢率を鑑みて1万石あたり200名の兵力(非戦闘員含む)を出すことが可能とされます。1000石で20名、100石で2人(2%)で、日本全国から出せる最大兵力は計算上では37万1800人となります。また豊臣家の蔵入地(直轄地)は全国の石高の12%ほど、222万3641石でした。

 慶長9年(1604年)、徳川家康は諸国の大名に郷帳(村落ごとの石高等を記載した帳簿)と国絵図の提出を命じ、慶長15年(1610年)までに上納が完了しました。これは数カ国分の郷帳の写本と西国の国絵図の模写が現存するだけで全容は不明ですが、「日本国知行高之覚」という文書によると、江戸時代初期の全国の石高は2217万1689石6斗7升4合といいます。太閤検地から数十年で358万石余も増えており、石高の把握度は上昇しています。徳川家の蔵入地は、豊臣家のものと大差なかったようです。

 寛永9年(1632年)、徳川家光は諸国の有力大名に国絵図の徴収を命じ、翌年巡見使を派遣して徴収を実行しました。この調査では大部分の大名が慶長国絵図の写しを提出したため、石高が増えたのは陸奥・越後・三河・対馬のみに限られます。次いで正保元年(1644年)に改めて郷帳と国絵図の提出が命じられ、慶安4年(1651年)頃までに上納が完了しました。

 これによると全国の石高は2361万7594石余ですが、遠江・駿河・相模では永高(永楽銭による貫高)や金換算が混じり、仙台伊達家は貫高を用いるなど石高で統一されていません。またこれは「表高」で、新田開発によって新たに獲得された「新田高」については記載されませんでした。とはいえ表高だけでも江戸初期から数十年で144万5905石も増加しています。

 幕府はその後も寛文・延宝・元禄年間に検地を行い、石高を把握しています。蔵入地の石高は万治3年(1660年)に初めて300万石を超え、一時減少したものの、延宝3年(1675年)に再び300万石台に戻ります。元禄になると改易・収公により400万石に達し、以後幕末まで400万石台を切ることはありませんでした。徳川家は全国の石高の1割以上を常に直轄地としてキープしており、親藩・譜代・外様の大名を巧みに配置して抑え、200年以上に渡る天下泰平を保ったのです。

東西廻米

 さて、諸国では米を主な年貢として徴収していましたが、生産地で消費するだけでは収入になりません。倉庫に備蓄(蔵米)すれば緊急時の食糧も賄えますが、年月が経てば腐ってしまいます。そこで米をあまり生産せず、大量に消費する都市部へ輸送し、換金することが古くから行われました。これを廻米かいまいといいます。陸路での輸送も盛んでしたが、大量輸送を行うには海船を用いるのが一番です。日本は鎖国政策により海外へ商船を出すことを禁止しましたが、国内では盛んに海路で物資を輸送していました。

 将軍のお膝元である江戸へは、まず東北地方(奥羽)から米が輸送されました。これを東廻海運ひがしまわりかいうんといいます。慶長年間の末頃、大坂の陣に備えて陸奥盛岡の蔵米が江戸へ運ばれたのが最初とされ、仙台や盛岡・八戸(南部)など太平洋側の諸藩のみならず、弘前(津軽)や秋田・米沢(出羽)など日本海側からも廻米が送られるようになりました。

 古くは常陸国の那珂湊なかみなと、ないし下総国の銚子まで陸沿いに南下し、利根川の内陸水運を利用して江戸まで運ばれました。房総半島を廻るよりは近くて安全ですが、内陸水運では海船よりは多くは運べません。そこで寛文11年(1671年)、伊勢出身の豪商・河村瑞賢が幕府の命令を受けて航路開拓に挑み、奥州から房総半島を迂回して伊豆半島南東の下田に達し、そこから直接海船を江戸に向かわせることに成功しました。しかし内陸水運の方が安全ではあったため、この航路はそれほど発展はしませんでした。

 そこで瑞賢は、日本海側から下関・瀬戸内海・大坂・紀伊・伊勢を経て江戸に運送する「西廻航路」に着目します。万治2年(1659年)には廻米請負業者の正木半左衛門が出羽の酒田から西廻りで江戸まで廻米を行っており、瑞賢は「距離は倍になるがこちらの方が安全確実である」と判断しました。また彼は事前に海路の危険を調査して寄港地を定め、各地に番所をもうけて安全と便宜をはからせます。民間に委託されていた廻米事業は、これより幕府の直営となり、大量の食糧と物資が安全に国内を巡るようになります。大坂には大名の蔵屋敷が立ち並び、「天下の台所」となっていきました。

北国廻船

 西廻航路のうち、大坂・紀伊と江戸を結ぶ太平洋側の航路は、元和5年(1619年)頃に始まった菱垣ひがき廻船によって結ばれていました。大坂と下関は古代から瀬戸内航路で結ばれていますし、日本海沿岸各地も古代から海路(北国廻船)で結ばれています。しかし古来日本海側の物資は敦賀や若狭・琵琶湖・大津を経て京都へ運ばれており、下関や大坂・江戸を目的地とする西廻航路の開拓は、これらの港の重要性を下落させました。

 大消費地である畿内と江戸を結ぶ西廻航路は、幕府の廻米のみならず様々な物資・商品が行き交う大動脈となりました。このうち大坂と下関・山陰・北陸・出羽以北を結ぶ海船を「北前船きたまえぶね」と呼びます。畿内は「上方かみがた」ですから、大坂から出る航路は下り、大坂へ向かう航路は上りとなります。古来の内陸水運では在地の流通業者によって中間マージンが抜かれてしまうため、海難事故のリスクを差し引いても大型の海船で直接大消費地と繋がれば、トータルの損失は少なくなったのです。

 北前船は下り荷を積んで春に大坂を出発し、瀬戸内海を経て下関に達し、対馬暖流と南風に乗って北上し、蝦夷地(北海道)に達します。秋には蝦夷地を出て北風に乗って南下し、冬に大坂へ戻って来ます。寄港地では様々な商売を行い、商品を売って海産物などを購入し、大坂へ持ち帰って売却するのです。特に干し海鼠などの乾物や昆布は高値で取引され、薩摩・琉球を経て清国へ輸出されました(上方や琉球で料理に昆布を多く用いるのはこのためです)。また木綿や菜種栽培の肥料となる干鰯や鰊粕も、北前船によって大量に上方へもたらされ、近世の殖産興業を支えています。

 そして蝦夷地は、琉球・対馬・長崎と並ぶ江戸時代の対外交易口の一つでもありました。次回はそれについて見ていきましょう。

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【続く】

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