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【つの版】度量衡比較・貨幣122

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代の日本全国は、海路や街道によって広く繋がれていました。そして蝦夷地(北海道)もこの交易圏に入り、長崎・琉球・対馬とともに江戸時代における対外交易口の一つとなっています。蝦夷地については前に少し触れましたが、改めて見ていきましょう。

◆蝦◆

◆夷◆


山丹交易

 北海道には水田稲作を伴う弥生文化が受容されず、東北北部の影響を受けた続縄文文化(恵山文化・江別文化等)が展開し、7世紀後半から13世紀頃までは倭国/日本の影響を受けた擦文文化が展開しました。これは樺太から道北・道東に展開したオホーツク文化・トビニタイ文化を吸収し、アイヌ文化へと繋がります。日本人(和人)は彼らを奥羽の先住民と同類と見て「えみし/えぞ」と呼び、同じく蝦夷の字をあてました。

 樺太アイヌはチャイナ側では「骨嵬/苦夷」と記録されていますが、これは彼らの自称「クル/クリ(人)」に由来すると思われます(クリル諸島、コロポックル等の「クル」です)。蝦夷(カイ)の語もクル/クリの転訛でしょうか。アイヌとは本来「一人前の男性」「(カムイに対する)人間」をいい、コシャマイン、シャクシャインなど首長の名にも見えます。DNA上もアイヌは縄文人の北における末裔であり、オホーツク人等との混血はあるにせよ、多くの渡来人と混血した本土日本人よりは縄文の血が濃いでしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ainu_map.svg

 蝦夷地(蝦夷ヶ島)の住人は日本と盛んに交易を行い、その文化や文物をある程度は受け入れ、鉄器を使用したり農耕を行ったりし始めます。安倍氏・清原氏・藤原氏など奥羽の勢力は、彼らを介して砂金・毛皮・海産物などを輸入しました。また樺太の対岸にはアムール川の河口があり、内陸水運によってモンゴル高原にまで繋がっていましたから、契丹遼朝や女真族/金朝との交易もあったものと思われます。奥州藤原氏が鎌倉幕府(頼朝政権)に滅ぼされると、この交易ルートは鎌倉幕府によって掌握されました。

 金国はアムール川河口近くにヌルガンという城を建設し、周辺部族からの貢納などを司らせていました。金がモンゴル帝国に征服されると接収されて東征元帥府が置かれ、1264年からしばしばモンゴル帝国による樺太侵攻が起きています。これは樺太アイヌ(苦夷)の勢力拡大に対して周辺民族がモンゴルへ救援を求めたためといい、一時は樺太南部にまでモンゴル軍が到来して城を築いています。苦夷は14世紀初めにはモンゴルに服属し、毛皮の朝貢を行いますが、これによりモンゴルの物産もアイヌにもたらされました。14世紀末にはモンゴルに代わって明朝がヌルガンに進出してきます。

 チャイナ・アムール川・樺太・蝦夷ヶ島(アイヌモシリ)・日本を結ぶ交易ルートは、オホーツク文化の頃には存在したと思われ、大陸産と見られるこの時代の装身具(タマサイ)用ガラス玉が道東からわずかに出土しています。13世紀から15世紀にかけて北方交易が盛んになると、大陸や日本からガラス玉や鉄器が流入した他、部族の長たちに下賜されたチャイナ製の絹織物の衣服(錦)も商品として取引されるようになります。これを「蝦夷錦」といい、原産地であるチャイナ南部から遥かに交易路を経てもたらされた貴重品でした。アイヌはアムール川河口部の部族(ニブフ、ウリチ等)をシャンタと呼んでおり、18世紀にこの呼称が日本に伝わって「山丹」と音写されたため、このルートによる交易は後世に「山丹交易」と呼ばれました。

安東代官

 蝦夷地の南の津軽では、鎌倉幕府執権北条氏の被官・安藤氏蝦夷沙汰代官職に任じられ、蝦夷との交易を司りました。鎌倉幕府が滅ぶと南北朝時代から室町時代にかけて最盛期を迎えています。津軽西部には主要な交易港である十三湊とさみなとがあり、北は蝦夷ヶ島、南は出羽や北陸を経て京都まで航路が繋がっていました。分家は出羽国秋田郡を領有しています。

 延文元年(1356年)に書かれた『諏訪大明神絵詞』によると、日本の東北には「蝦夷ガ千島」があり、日ノ本ひのもと」「唐子からこ」「渡党わたりとうという三種の民が住んでいます。日ノ本と唐子はともに「外国に隣接し、姿かたちは夜叉のごとく、禽獣魚肉を常食として五穀の農耕を知らず、多数の通訳を経ても言葉が通じない」とありますから、和人ではなく蝦夷/アイヌで、東(日の出る方)に住むのを日ノ本、北西(唐土に通じる方)に住むのを唐子と呼んだもののようです。

 これらに対して渡党は「髭が濃く毛深いが、和人に似て言葉が通じ、多くが奥州津軽外ヶ浜に往来して交易に従事する」とあり、津軽海峡を挟んで活動する道南(渡島半島)の蝦夷と思われます。和人との混血やその子孫もいたことでしょう。14世紀後半から15世紀にかけて、彼らは蝦夷ヶ島南部にたてを築き、交易拠点としました。現在の函館や松前などの起源です。

蝦夷反乱

 応永30年(1423年)、安藤康季は足利義量の将軍就任を祝い、馬20頭、鷲羽50羽分、鷲眼(銭)2万疋、海虎(ラッコ)の皮30枚、昆布500把を献上しています。しかし陸奥東部を領する南部氏と対立して十三湊を襲撃され、一時蝦夷ヶ島へ逃れました。幕府は両者を和解させ、南部氏には康季の妹が嫁ぎますが、康季の子・義季は享徳2年(1453年)に南部氏と戦って敗れ自害に追い込まれます。傍流の師季(安東政季)がその跡を継ぎ、蝦夷ヶ島に渡って津軽奪還を図りますが、この混乱に乗じてアイヌが反乱しました。

 江戸時代に編纂された『新羅之記録』によると康正2年(1456年)、志濃里しのり(現函館市)で乙孩オッカイという若いアイヌが和人の鍛冶屋に小刀マキリを注文したところ、品質と価格を巡って口論になり、怒った鍛冶屋が相手を刺殺します。アイヌたちは和人の横暴に腹を立て、付近の首領コシャマインを中心に武装蜂起を企てます。同年には安藤師季が援軍を求めて出羽国へ移動しており、蝦夷地には政治的空白が生じました。

 翌康正3年/長禄元年(1457年)、コシャマインらは志濃里に集結して挙兵し、領主の館を攻め落とします。その勢いは甚だ強く、十二館のうち十が陥落するほどでしたが、西の花沢館主の蠣崎かきざき季繁すえしげの娘婿・武田信広は敗残兵をまとめてこれに立ち向かい、長禄2年(1458年)にコシャマインを討ち取って乱を平定しました。彼の息子・光広は母方から蠣崎氏を継ぎ、本拠地を南の松前の大館に遷しています。

 この武田信広は若狭・丹後の守護大名である武田信賢の子とされますが、同時代史料に記録がなく、実在は定かでありません。若狭武田氏は甲斐武田氏の分家・安芸武田氏の分家で、蠣崎氏も甲斐武田氏の傍流と称していました。主家たる安藤/安東氏の敵である南部氏は甲斐源氏の名門ですから、箔付けに仮冒したのでしょう。日本海交易を通じて若狭から蝦夷ヶ島まで誰か来てはいたでしょうが。

 この頃、安藤(安東)師季は出羽国小鹿嶋(男鹿半島)に移り、河北(能代市)の葛西氏を滅ぼして檜山城を築き、足利義政から偏諱を受けて政季と改名しています。これより安東氏(のち秋田氏)の本拠地は出羽に遷り、日本海北部の貿易を支配する守護大名・戦国大名へと発展していきました。蠣崎氏はその家来として蝦夷ヶ島で勢力を広げ、交易の利害を巡ってたびたびアイヌと戦闘を繰り広げています。

蠣崎松前

 天文20年(1551年)頃、蠣崎季広は主君・安東舜季の立ち会いのもと、渡島半島の東西に割拠するアイヌの首長らと講和し、交易に関する条約を取り決めました。この時シリウチの首長チコモタインは東夷尹ひがしえぞのかみ、セタナイの首長ハシタインは西夷尹にしえぞのかみとされ、他国の商人との交易で蠣崎氏が徴収した関銭の一部を彼らが受け取ること、松前と天河を和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチと天河の沖を通る船は帆を下げて一礼することなどが定められます。これにより和人とアイヌの間に一定の和解が成立し、交易はますます盛んになりました。

 蠣崎季広の子・慶広よしひろは天正10年(1582年)に家督を継ぎ、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐・奥州仕置を行うと、主君・秋田実季に随行して上洛し、秀吉に謁見して所領を安堵され、従五位下・民部大輔に任じられます。これにより蠣崎氏は直接秀吉に臣従し、安東氏/秋田氏からの独立を果たしました。また文禄2年(1593年)には肥前名護屋城に参陣して秀吉に謁見し、蝦夷での徴税を認める朱印状を賜っています。秀吉が没すると家康と誼を通じて地図を献上し、蠣崎から松前に氏を改めました。家康は彼に蝦夷交易の独占権を認め、従五位下・伊豆守に任じています。

 蝦夷島主・松前家は蝦夷ヶ島/蝦夷地に置かれた唯一の「藩」となり、和人とアイヌの交易独占を公認されます。家格は1万石の外様大名扱い(幕末には3万石)でしたが、田畑ではなく交易場を知行の代わりとし、海産物や毛皮などの交易による利益は7万石にも相当したといいます。しかし交易の利害を巡ってアイヌとはしばしば対立しました。寛文10年(1669年)に勃発したシャクシャイン率いるアイヌの武装蜂起はその代表例です。

◆蝦◆

◆夷◆

【続く】

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