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【つの版】倭国から日本へ23・蝦夷粛慎

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

新羅は唐と、百済は高句麗と手を組んで相争っていますが、倭国は各国との国交を保ち、出兵もせずに自ら天子を気取っています。また唐の官位を受けず「不臣」の立場を貫いているものの、盛んに遣唐使を送って学生や僧侶を留学させているため、明確な敵国というわけでもありません。このまま続けばよかったのですが、少なくとも高句麗と百済が唐の命令に従わないのは、唐にとっては気に食わない状況です。

◆蝦◆

◆夷◆

有間皇子

斉明3年(657年)9月、有間皇子が精神的不調を訴え、紀伊国の牟婁の湯(白浜温泉)に湯治へ行きました。彼は戻ってきて「素晴らしい風景を見ただけで治りました」と述べます。天皇は喜んで「朕も行きたい」と言い出しました。この有馬皇子は孝徳天皇の子で、母は亡き左大臣阿倍内麻呂の娘・小足媛です。斉明天皇にとっては甥ですが、皇太子には中大兄皇子がおり、皇位継承の望みはありません。日本書紀は「陽狂(狂人を装ったもの)だ」としますが、実際精神的に不安定だったのかも知れません。

この年、倭国は新羅に使者を派遣し、「新羅の使者に随行させて唐へ送りたい」と提案しますが、新羅が断ったので沙汰止みとなりました。ただ翌年の7月には沙門智通と智達が再び新羅へ派遣され、唐へ赴いています。彼らは長安で玄奘三蔵法師に師事し、仏教の奥義を学びました。『西遊記』で有名なあの玄奘です。白雉4年(653年)に渡唐した道昭も玄奘に師事しました。

斉明4年(658年)正月、左大臣の巨勢徳太が薨去しました。右大臣の大伴長徳は651年に薨去しており、後任者も任命されておらず、左右大臣はしばらく空席となります。皇太子が摂政として実権を握るためでしょう。

阿倍比羅夫

4月、越国守の阿倍比羅夫が水軍を率いて出撃し、飽田・渟代の蝦夷を服属させました。現在の秋田県中北部、秋田市能代市にあたります。軍船が齶田浦(秋田の沿岸)に連なると、酋長の恩荷(男鹿半島の長か)は進み出て降伏し、渟代と津刈の郡領に任じられました。

阿倍比羅夫らはさらに有間浜に渡嶋(わたりしま)の蝦夷らを集め、大いに饗応したといいます。渡嶋とは北海道の南部を指し、先に津刈(津軽)の地名も出ていることから、有間浜とは青森県の日本海側、津軽地方の鰺ヶ沢と考えられています。比羅夫が北海道へ渡ったのではなく、北海道から蝦夷たちが渡ってきて津軽で交易していたのでしょう。津軽には中世に十三湊(とさみなと)が築かれ、和人と蝦夷の交易で繁栄しました。

7月、比羅夫は蝦夷200人を朝廷に参上させ、彼らは大いに饗応されて冠位や武具を賜ります。同年には粛慎(みしはせ)を討伐して、戦利品としてヒグマ2頭とヒグマの皮70枚を献上しました。粛慎人が商品として蓄えていたものでしょうが、日本列島ではおおよそ北海道にのみヒグマが分布していますから(1万年前には本土にもいたようですが)、阿倍比羅夫は北海道に到達したものと考えられています。

阿倍比羅夫は左大臣阿倍内麻呂の一族と思われ、有間皇子の外戚にあたります。しかし彼が属する引田臣は敦賀の疋田(ひけた)を領地とする地方豪族で、阿倍氏の分族に過ぎません。なお阿倍氏の祖・大彦命は崇神天皇の時代に四道将軍の一人として北陸道を平定したことがあります。

建王と有間皇子の変

5月、都では皇孫の建王(たけるのみこ)が8歳で薨去しています。彼は皇太子・中大兄皇子と蘇我遠智娘(倉山田麻呂の娘)の子ですが、母は父の一族が滅ぼされたショックで病死しており、そのためか建王は成長しても話すことが出来ませんでした。斉明天皇は哀れんで大変可愛がっていたようで、彼の薨去を激しく悲しみ、「朕を彼と合葬せよ」と詔勅を出しています。

皇太子には他に多くの妃・側室や子がいましたが、産まれたのは娘が多く、皇子は側室の道君娘との間に志貴皇子が、宅子娘との間に大友皇子がいた程度です。女帝(女王)が続いたとはいえ、天皇(大王)には成人した有力な男性王族が就くべきという風潮はまだ強く、外戚の弱さからもこのままでは次が心配になります。まあ太子はまだ若いから大丈夫でしょう。

10月、天皇は心の傷を癒やすため、有間皇子にならって紀伊国の牟婁の湯へ湯治に行きました。建王を思ってメソメソしている間、11月には宮の留守を預かる蘇我赤兄(倉麻呂の子で蝦夷の孫、倉山田麻呂の弟)が有間皇子と語らって反乱を謀みます(謀反)。皇子は喜んで「兵を用いるべき時が来た」と発言しました。しかし床几がひとりでに壊れたので、皇子は不吉だと思い秘密を守ることを誓って中止します。

皇子が帰って寝ていると、赤兄は物部朴井鮪(しび)を遣わして造営工事の人夫を率いさせ、有間皇子の家を密かに囲ませます。そして早馬を遣わして紀伊国にいる天皇に「有間皇子が謀反した」と伝えました。皇太子は有間皇子と一味を捕縛し、牟婁の湯へ送ります。皇子は「天と赤兄だけが知っている!私は知らない!」と叫びますが無視され、絞首されます。時に19歳でした。一味の塩屋鯯魚と新田部米麻呂は斬られ、守君大石と坂合部薬は東国へ流刑にされますが、蘇我赤兄は罪に問われませんでした。

おそらく建王の薨去により、有間皇子の周辺が皇位を狙って不穏な動きを見せ、皇太子側が鎮圧するため先んじて動き、赤兄を遣わして有間皇子を唆したのでしょう。可哀想ですが彼に皇位を渡すわけには行きません。

蝦夷と粛慎

斉明5年(659年)正月、天皇は紀伊から帰還します。3月1日には吉野で宴会を催し、3日には近江の平浦(滋賀県大津市志賀町比良)に移動しました。水路を使ったのでしょう。同月には飛鳥へ戻り、甘樫丘の東の川原に須弥山を造って蝦夷を饗応しました。

この月、阿倍比羅夫に命じて蝦夷を討たせました。彼は飽田・渟代・津刈・胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷を集めて饗応し、船と絹を捧げて海神を祀ります。また肉入籠(ししりこ)に至ると、問菟(という)の蝦夷である胆鹿嶋(いかしま)と菟穂名(うほな)らが「後方羊蹄(しりへし)を郡家として頂きたい」と願ったので、そのようにして帰還しました。これらの地名がどこを指すのか諸説ありますが、明治時代には北海道南部に比定され、渡島国胆振国が設置されました。羊蹄山の名もこれに因みます。

彼らはいわゆるアイヌ、ではまだありませんが、少なくともその先祖です。蝦夷征討とは言うものの、蝦夷はみな戦う前に服属しており、阿倍比羅夫は粛慎と戦っています。日本書紀はこれに「みしはせ(あしはせ)」と倭訓をあてていますが、彼らはいったい何者でしょうか。

この頃、北海道中南部には擦文文化が広がっていましたが、樺太南部から北海道北部にかけてはニヴフらの先祖と思われるオホーツク文化の担い手が現れ、勢力を拡大していました。東北地方から北海道中南部にかけての「蝦夷」は、このオホーツク文化人「みしはせ(あしはせ)」と戦っており、阿倍比羅夫は彼らを支援したのです。蝦夷とオホーツク文化、和人の文化が入り混じって、13世紀頃にアイヌ文化が形成されて行きました。

みしはせ・あしはせの語源は不明ですが、倭国・日本では漢文知識から彼らを「粛慎」と表記しました。ニヴフはアムール川下流域から樺太北部にかけて分布しており、地理的に粛慎の一派と言えなくもありませんが、チャイナの文献で粛慎というと通常は靺鞨・女真などツングース系の諸語を話す人々を言います。また『通典』『唐会要』『新唐書』などによると、この頃靺鞨の彼方の海中に「流鬼国」が存在し、640年に唐に朝貢したことがありますが、これは樺太のオホーツク文化であろうと考えられています。

この記事がわかりやすいのでご覧下さい。無文字文化圏で人口も少ないため文献には残りにくいですが、北方でも様々な文化の興亡があったのです。

ヤマトタケルが平定したのは陸奥の蝦夷です。

蝦夷、唐へ行く

斉明5年(659年)7月3日、坂合部石布津守吉祥らを唐に遣わし、陸奥の蝦夷男女2人を伴って行かせました。唐の天子に「蛮夷」を見せ、倭国はこのような蛮夷を服属させている大国だと張り合うためでしょう。

この時の遣唐使の日記は、参考資料として日本書紀に収録されています。彼らは7月3日に難波を出発し、8月11日に筑紫大津浦(博多湾)を出て、9月13日に百済の南辺の島に着きます。そこから黄海・東シナ海を横断しようとしますが、9月15日に石布の船が横(北)からの逆風に流され、南海の爾加委島(奄美諸島の喜界島)に漂着します。石布は島人らに殺されてしまい、坂合部稲積ら5人は島人の船を盗んで逃げ、唐の括州浙江省麗水市)にたどり着きました。彼らは州県の役人らに庇護され、洛陽へ送られます。

一方、吉祥らの船も東北からの強風によって南へ流され、9月16日の夜に越州会稽県須岸山(浙江省紹興市柯橋区)に漂着します。22日に余姚県(浙江省寧波市余姚)に着き、船と品物をそこで預かってもらい、閏10月1日に越州の役所に遷ります。彼らはそこから駅馬に乗り、10月15日に長安へ到着しますが、天子は洛陽にいたので引き返し、29日に洛陽に着きました。ここで稲積らと合流したわけですが、稲積の船は荷物ごと失われています。

[顕慶]四年(659年)…閏十月戊寅、幸東都、皇太子監國。戊戌、至東都。(旧唐書高宗紀)

閏10月30日、倭国の使者は唐の天子に謁見します。挨拶を済ませた後、天子が「彼ら蝦夷の国はどちらの方角にあるか」と尋ねると、使者(石布は死んだので吉祥でしょう)は「東北にあります」といい、「何種類あるか」と聞かれると「三種あります。最も遠いものを都加留(津軽)、次に遠いものを麁蝦夷(あらえみし)、一番近いものを熟蝦夷(にきえみし)といい、ここにいるのは熟蝦夷です。毎年我が国に朝貢しています」と答えます。また蝦夷が五穀を育てず肉食すること、家屋がなく深山の樹下に住むことなどを伝えると、天子は「奇怪なことだ。遠くから来てご苦労だった」といい、迎賓館に下がらせました。津軽の名が唐の天子にも届いたわけです。また別の記録によると、蝦夷は白鹿の皮1枚と弓矢を献じたといいます。

11月1日(旧暦)に冬至の祝宴があり、倭使は再び天子に謁見しましたが、出火騒ぎが起きます。12月3日、倭人と唐人の混血者である韓智興の従者が主人や倭使を「犯人だ」と讒言したため、一行は捕縛され流刑に定められます。伊吉博徳が釈明したので刑は免じられましたが、天子は「我が国は来年必ず海東の政(朝鮮半島への出兵)を行う。お前たちは帰国させない」と勅命を下し、倭使を長安に幽閉してしまいました。えらいことです。

倭国ではそうとも知らず、盂蘭盆会を催したり、高句麗の使者にヒグマの皮を自慢したりしています。この年は唐の高宗の顕慶4年にあたりますが、『旧唐書』高宗紀にはこの時天子が東都にいたとはあるものの、倭国の使者については記録がありません。この頃、唐は西突厥の阿史那賀魯を討伐して服属させており、東西の突厥領は唐の羈縻下に入りました。北方と西方の大敵を降し、残る敵は高句麗と、それに従う百済だけです。

粛慎討伐

斉明6年(660年)3月、阿倍比羅夫が軍船200隻を率いて粛慎国を討伐しました。彼は自分の船に陸奥蝦夷を載せて道案内とし、大河(江差町北部の厚沢部川か)の河口近くに渡嶋蝦夷が多数宿営しているのを発見します。彼らは「粛慎の船に襲われて殺されそうです」と告げたので、比羅夫は賊徒の居場所と人数を聞き出したところ、船20隻ほどの集団でした。

こちらが優勢ですが、比羅夫は慎重に使者を送って呼び寄せます。しかし粛慎は来なかったので、奇襲は不可能となります。そこで比羅夫は絹や鉄や武器を浜に並べ、後退して様子を伺いました。すると粛慎の船が一隻近づいてきて2人の老人が上陸し、並べ置かれた品物を調べます。彼らは絹の単衫(シャツ)を試着し、布を取って引き上げますが、また戻ってきて着物を脱ぎ、布を置いて去って行きました。

これはいわゆる「沈黙交易」です。言葉が通じなかったりあまり友好的でない相手とは、このようにして交易を行っていました。世界的に広く見られる風習で、アイヌも行っていたといいますから、阿倍比羅夫は蝦夷のやり方を真似たのでしょう。しかし今回、粛慎との取引は成功しませんでした。

粛慎は倭国・蝦夷の連合軍を恐れて弊賂弁(へろべ)という島へ帰ります。これはオホーツク文化の集落遺跡があることから奥尻島と考えられており、弊賂弁とはアイヌ語で「ブナの有るところ(pero-un-pe)」を意味します。粛慎はここを拠点として日本海沿岸一帯を荒らし回っていたようで、欽明天皇の時代には佐渡に粛慎人が漂着したとの報告があります。

しばらくして粛慎は講和をもちかけて来ましたが、おそらく蝦夷に恨まれていたため成立せず、自ら築いた砦に籠って抗戦しました。倭国・蝦夷連合軍はこれを攻撃しましたが、倭軍の能登馬身竜が戦死し、粛慎は自分たちの妻子を(足手まといにならぬよう)殺して砦を棄て、敗走しました。

この戦いで粛慎の捕虜を手に入れたらしく、比羅夫は5月に蝦夷50余人、粛慎47人を都へ送っています。斉明天皇はまた須弥山を造って彼らを饗応し、高句麗の使者らに見せびらかしました。なおこの頃、皇太子は初めて漏刻水時計)を造り、人民に時を知らせるようにしました。これは試験的なものだったようで、671年4月に新たな漏刻を整備しています。

7月に高句麗の使者が帰途につくと、都貨羅(墮羅とも)人の乾豆波斯達阿は本国に戻ろうと思い、「また参りますから」と妻の舎衛女を残し、10人あまりを率いて去っていきました。しかし彼らは戻って来ませんでした。

9月5日、百済から使者がやってきました。彼らは「今年の7月、新羅が唐を引き入れて百済を転覆し、君臣はみな捕虜となりました」と言います。長年倭国の友好国ないし属国で、倭国内部にも多数の渡来帰化人がいる百済本国は、ついに滅亡したのです(475年から185年ぶり2回め)。どのように滅んだのでしょうか。そして、倭国はどうするのでしょうか。

◆粛◆

◆慎◆

【続く】

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