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「日本児童文学の父」の影『転向者・小川未明』増井真琴


子供の頃に読んで、すごく心に残った絵本がありました。保育園か、小学校かの図書館にあった、『赤いろうそくと人魚』という本です。水墨画みたいな寂しい白黒の世界に、薄幸そうな人魚と、赤いろうそくがとても印象的な絵本でした。なにより、お話に出てくる人間の欲深さ、夜の海の怖さがいまでも記憶に焼きついています。

今では青空文庫でも読めますが、やはり絵本は絵があってこそ。どこの図書館にも複数の出版社で、いろんな挿絵(もちろん、いわさきちひろ版も!)のものが読める定番絵本です。その作家さんが、小川未明という人だと知ったのは、10年くらい前だったかと思います。

その小川について、本格的な研究書が最近出版されたので、早速手に取りました。そして、2つのことに驚きました。1つめは、小川が「日本のアンデルセン」とか、「日本児童文学の父」なんて言われるくらいの大御所だったということ。文化功労者として表彰されているそうです。

特に、『赤いろうそくと人魚』については、北海の夜の美しさ、人魚の憧憬、人間の善意への信頼、それを裏切る人間のみにくさ、人魚母子やろうそくの妖しさ、美しさ、神秘さなど、すべて独特の幻想や夢、憧憬、神秘性、自然美など、ロマンティックに美しく形象化されていて、北欧的な異国情緒もあわせ持つ、香気高い絶品と高く評価されています。

ただし、もう1つの驚きは、小川が若い頃にはマルクス主義に傾倒し、日中戦争が始まる頃には、「大日本帝国バンザイ!」「民主主義は敵性文化」と主張するような、国家主義者になったこと。そして、戦後は一転して戦後民主主義はすばらしいと言う、何度も変節する人だったことです。

若い頃にはラディカルな主義に共感し、年をとったら保守的になるのは、芸術家でなくても、わりと一般的な傾向だと思います。でも、小川の変わりっぷりはすごいです。これまでの小川未明研究では、そのあたりのことが全くわかっていなかったとのこと。理由は、小川未明の執筆した資料が網羅的に集められていなかったことにあるそうです。

本書は、資料がようやく網羅されるようになった現代の、初の本格的な研究書。なので、これまで知られていなかった小川の、文壇デビューする前のことにも言及されています。小川は、明治の漢詩流行期には漢詩を書き、漢詩ブームがすたると口語自由詩を書いていたそうです。

小川が文壇デビューした後、童話と小説を書いていたことは、以前から知られていました。ただ、小川の全集には、時事評論みたいな文章は収録されず、特に都合の悪い黒歴史は知られていなかった模様。小川の全ての文章が網羅的に集められる現代になって、ようやく本書が完成したのだそうです。

そもそも小川の場合、大正時代の「赤いろうそくと人魚」を書いた時期の童話がすばらしいのに比べて、その後の昭和の童話はお説教臭かったり、戦争賛美や戦争懺悔のような、時代迎合的な駄作ばかりだったので、ほとんど顧みられてこなかったという理由もあるそうです。

確かに、研究者や批評家は、作品がすばらしいから研究したり、論評するわけで、わざわざイマイチな作品をとりあげて、研究する人や論評する人は珍しいでしょう。

そして、大人向けの文芸作品と児童文学の社会的な地位の違いもあったようです。戦争が終わったとき、文芸作家たちは戦時中の戦争賛美について、いろんな追求を受けました。でも、児童文学は全体的な注目度も低く、文学よりも一段下く見られていたので、戦時中の活動をごまかすことができた、と作者の増井さんは辛辣です。

小川は、戦時中、新聞や本に「吾等の文化は、民主主義的な、敵性文化の類似であってはならぬ」、「自由主義時代に感染したる、心の汚辱を一洗いして、真に日本精神に生き、国家に殉ずること」、「日本の家族制度は、日本精神を中軸とする、世界無比なもの。皇道日本は皇室中心のいち大家族」なんて書いていました。

ところが、戦争が終わって半年もたつと、児童文学者協会(現、日本児童文学者協会)の結成に参加します。その趣意文には、「軍国主義の教育にゆがめられた自動の精神を解放し、児童に真の人間性が何であるかを知らせ、児童の自由な創造的な生活を培うために精神な文芸の沃野を拓くことこそわれわれのねがい」なんて書かれていたとか。

戦争が終わって5年目、『小川未明童話全集』が出版されます。その翌年には、小林秀雄と一緒に芸術院賞を受賞し、その後、永井荷風や川端康成なんかと同時に芸術院会員になり、文化功労者として表彰され、終身年金を獲得します。亡くなったのは1961年。うまく逃げ切った作家人生、ということのようです。


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