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映画『サイドバイサイド 隣にいる人』レビュー(ネタバレあり)

男性への叱責映画(だと思う)。

単純に映画として気になっていたのと、監督が行定勲監督の弟子であり押井守監督の作品にも携わったことのある伊藤ちひろさんであることと、元乃木坂46の齋藤飛鳥ちゃんが出演ということで、個人的にいろんなファンポイントが多かったので鑑賞。

すでに難しいとのレビューがたくさんある通り難しい映画なのだけど、一応自分なりにひとつの解釈を見つけたので書いておきたい。




まずこの作品は、最初にも書いた通り男性に対する叱責、逆に言えば女性への賛美を贈る映画だと思う。

©2023『サイド バイ サイド』製作委員会

坂口健太郎さん演じる主人公の未山は、恐らく齋藤飛鳥ちゃん演じる莉子に対して「酷いこと」をしたのだろう。

「酷いこと」が何かは描写がないので想像するしかないけど、シンプルに何も言わずに莉子から逃げたと考えていいと思う。
エスカレーターから落ちるシーンのところ(恐らく妄想)で、なんでいなくなったの的なことを言っていたので。

ただなぜ逃げたのか。自分の父親のように暴力を振るうような人間になりたくなかったのか、もしくは将来ことを考えたときに責任を取ることから逃げたのか、その両方か、それ以外か。
ただ「暴力を振るうような人間になりたくなかった」と考えれば、未山の特殊能力である人に触れてその人に癒しを導くことも、人に触れることを恐れた未山に対する呪いのようなものかもしれないと考えることができる。
そして、元々の口数の少なさから考えても、恐らく未山は人と触れ合うことを避けてきたのかもしれない。
だからあえて触れさせて、そして人に触れる大切さを教える。

詩織さんと共に暮らすような素振りをしていたのは何故なのか分からないけど、もしかしたら未山は年上の女性には本当は興味がなく、恋愛対象としてみないことを安心して一緒にいたのかもしれない。
もしくは詩織さんが暮らすように提案したか。莉子ちゃんを暮らさせたように。未山と真逆で、誰かと一緒にいることが幸せであることを知って、そして美々ちゃんにもそうであると教えているような節はある。


©2023『サイド バイ サイド』製作委員会

なんか舞台挨拶とかでは、未山も莉子も存在するかしないか曖昧な雰囲気と言われていた気がするけど、恐らくそれは無くて、しっかり存在する人だと思う。
そして特に莉子は、未山のことが好きなんだと思う。描写はされていないけど、好きで、でもどこか思うところがある。
だから抱きしめられたとき、すぐには受け止めなかった。

未山の前に現れる幽霊的な二人は、未山が抱えるモノの象徴的な存在だと思われる。
金髪の草鹿の方は「莉子を連れ戻しにこいよ」的なもので、ミャンマー人の方は「自分の父親、そして自分自身が父親としての意識」みたいなものだと思う。
何故ミャンマー人なのかは分からんけど、莉子役の飛鳥ちゃんのママさんがミャンマー人(つまり飛鳥ちゃんはハーフ)なので、それを意識してるのかな、と思えなくもない。




©2023『サイド バイ サイド』製作委員会

そして、この作品ではやたらと自然が多く描写されていたけど、この作品における重要な要素は「自然の摂理」だと思う。
父がいて母がいて子どもがいる。それが自然の摂理。もっと具体的に言えば、生物としての意味。これまでの地球上の歴史で、オスとメスがいて子どもが生まれる。そうやって生物は成り立ってきた。
メス、特に人間である女性は、子どもが生まれたとき母であろうとする。だから当然、オスである男性は父であろうとするべきもの。

しかしそれに反した行動を取ったのが未山。
特に序盤がそうだったけど、美々ちゃんに対して何かをしてあげることはしていなかった。父性のようなものがなかったんだろう。
そして莉子の子どもの父親というのは、あの金髪男の可能性もあるけど、やはり未山なのだと思う。
「違うよ」と言っていたが、現実を認めていない、持っている不思議な能力でしか現実を見ず、避けているようにも見える未山の言葉は信用ならない。

そのために自然の怒りを買い、代表して乳牛(つまりメス)が突き落としたのだと思う。
未山自身が美々ちゃんに「自然に守られて生きている」的なことを言ってたけど、未山は自然に守られなかった。それは未山が自然の摂理に反していたから。
津田寛治さん演じる蕎麦屋(?)の男が不自然な穴に落ちたのも、このおじさん自身が何かをしていて、自然の怒りを買っていたのかもしれない。
つまり女性(もしくは家族)に何かをした人は、自然の怒りを買うのかもしれない。

決め手はどれだったのか、自然の中で抱きしめたことなのか、井口理演じる新たな男が現れたからなのか(代わりの男)、それ以外のシーンなのか分からないけど、何かしらがきっかけで未山は不要とされたのかもしれない。
なんだかヨルゴス・ランティモス監督作品みたいなメタファーの感じだけど、そう考えられると思う。



©2023『サイド バイ サイド』製作委員会

さらに言えば映画のポスターで、未山の頭は「反転した自然の写真」になっている。これも自然の逆を考えている、自然に反しているとも言える表現かもしれない。

莉子も、未山自身が自分のことをどういう人間なのか話さなかった、もしくは自分自身もどういう人間なのか分かっていなかった。
だからこの作品の予告や上記ポスターで、「未山とは何者なのか」と問われているのかもしれない。





©2023『サイド バイ サイド』製作委員会

そして最後のシーン、市川実日子さん演じる詩織さんと美々ちゃんと莉子のシーン。
よく見ると、莉子が未山がいたときよりも笑顔になっている。母親になったことも大きいかもしれないが、未山の存在の有無も関係あるだろう。
最後の美々ちゃんの「さっきまでいたんだけどなぁ」に対しての表情(上記場面写真がまさにそれ)は、「帰ってきてしまうかもしれない恐怖」なのか「一瞬でも帰ってきてくれたけど見れなかった寂しさ」なのか、あの最後の3人での笑顔を見ると両方思いついてしまうけど、個人的には後者であってほしいと願う。

とはいえ、この3人でのシーンは、女性は男がいなくても、隣にいる人は男じゃなくても生きていけるのだという女性へのエール的なことを表すシーンだと思う。

もっと言えば、未山を突き落とした「乳牛」という生き物もメスだけで生きている。
乳牛は基本的に、子どもを産むとしても人工授精が一般的なので、父親なしで生きている。そして母乳が出れば、オスがいなくても、牛乳やアイスクリームになるので乳牛として働くこともできる。
終始登場した乳牛は、その象徴的な役割を持っていたのかもしれない。だからこそ、自然の代表として、いや女の代表として突き落としたのだと思う。

男は女性を見捨てずに、そして女性は仮に見捨てられても強く生きていけますよ、というのが本作のメッセージではないかなと感じた。



という風に思ったんだけど、自分はこの解釈を得ることができたけど、情報と魅力を削ぎ落として「分からなすぎる」域まで達しているのはよくなかったかもしれない。

正直自分の解釈も、個人的にそこそこ納得はできてるけど、あっているかどうかは分からない。
いや正解は無いんだろうけど、それでも自分の想像にイマイチ自信が持てない引っかかりを残してくる。

なぜなら仮にこういう話だったとしても、やっぱり物足りなさを感じて面白いと思えないから。
もし面白いと思えるのならば、この解釈で個人的には満足するんだけど、映画にあった情報と魅力をもとに自分の想像する範囲では面白いまでの域には達することができなかった。


そして他の観客に対しても、削ぎ落としたポイントも映像表現も少しでも違っていれば、もうちょっとくらいは観客に分かってもらえた、もしくは想像して面白いと思ってもらえたかもしれない。

でも単純に、情報が削ぎ落とされた映画への読解力や想像力が身についていない客層が多くみてしまった、というのもあると思うから、これもあくまで「かもしれない」としか言えないけど。



自分は情報量が少ない映画でも好きだし、舞台挨拶等でも言われていた解釈を委ねるというのはとてもいい作風だと思う。
でもこの映画の場合は、情報以上に映画にあるべき魅力さえも削ぎ落としてしまってる印象もあった。

映像的には綺麗だったし、特に坂口健太郎さんと齋藤飛鳥ちゃんをよく撮れていたと思う。ここは出演者ファンも満足できるポイントかもしれない。
特に飛鳥ちゃんはキャラクター設定が本人と近いようで似ていないので新鮮味もある。そして何より役としての雰囲気作り、立ち回りもよく出来ていたと思う。
監督が飛鳥ちゃんを選んだのも理解できる。


でもストーリーが物足りないというか、この世界が静寂であってもいいけど、もっとストーリー的に大きな見所(起承転結で言えば転)が欲しかった。
大きな音楽を使ってハラハラドキドキさせろとかそういうことじゃなくて、解釈を得たときに後押しさせてくれるような面白い要素が欲しかった。

明確な答えは見つからなくていいんだけど、もっと面白くなる要素くらいは残しておいてほしかったと思った。


しかし日本の映画で、しかも現代でここまで情報量を少なく、解釈を委ねる作品を作ったことは挑戦的でいいと思うし、個人的にもこういう映画は嫌いじゃない。
雰囲気や世界観も良さそうな印象は受ける。だからこそ惜しいなと思った。

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