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ポリコレとエンタメ 後編:炎上中毒から立ち直った、ある映画 #私の2010s

第3回: 炎上中毒から立ち直った、ある映画

この記事は「ポリコレとエンタメ」後編です。前編をお読みでない方はこちら:

『僕の名前で君を呼んで』への違和感で気づいた中毒と反省

自分がポリコレに振り回されすぎて、若干の中毒になっていることを自覚しはじめたのは、『ブラックパンサー』からまもなく日本で上映された『僕の名前で君を呼んで(以下、CMBYN)』を観てからのことだった。皆が手を挙げて褒めたてるなか、ひとりなんともいえない気持ちでこの映画を観ていた。

『ムーンライト』がそこまで話題にならなかった一方で、CMBYNはどうしてこんなにも日本人に消費されているのだろうか、と思っていた。CMBYNの主役ティモシー・シャラメの演技の素晴らしさや映像美よりも、やけに「白人」の「美少年」であることが目につく。

そして、なんと言ってもBGMが、とっさに日本の京都アニメーションの緻密な風景を思い出させた(ちなみに、このサントラはとても好きでいまだに聞いている)。その後、吹き替え版声優のキャストを見て、BLややおいカルチャーの交差点としてCMBYNが受け止められているのではないか?と勘づく。

元々、腐女子カルチャーは「男性の性の客体化・商品化」なのではないかと懐疑的だった私は、さらに考えるにつれて「略奪的なラブストーリーと歳の差による恋愛模様」という物語構造が、まるで搾取的なストーリーモデルのようにも思えていた。だんだんと「これ、ヘテロセクシャルの映画だったらナシじゃない…?」という結論に導かれていった。

思い切って人にこれを話して見ると、困惑され苦笑いされる。この瞬間、「あ、私はエンタメをエンタメとして受け取れなくなっているな」ということに気づかされた。まるでトキシックショック症候群(TSS)のように、私のリテラシーは過剰なほどポリティカル・コレクトネスに蝕まれていた。

タランティーノに目を覚まされた

私がエンタメとポリコレをちょうどいい距離感で考えることができるようになったのは、その1年以上後のことだった。それまでの期間は、自分や、Twitterの一部界隈のいきすぎたポリコレ観や、トキシックファンダム、キャンセルカルチャーのどれが正しく、どれが間違っているかを明確に判断できずに悩んでいた。

例えば、#MeToo運動は本当に響いて欲しい相手には見向きもされず、一部では歪曲化される。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のジェームズ・ガンが過去の発言で解雇を余儀なくされるいっぽうで、リアルタイムに起こる芸人の人種差別ネタ炎上を知ったりして、息ができなくなるほど胸が苦しかった。文化と社会が常に地続きになり、ひとりのボヤが大火事になるまでのスピードが鬼のように早まった現代において、作り手は意図的に意図的であるか、意図的に意図的でなくするかを厳しく問われた。

そんなこんなで、答えが見えず、かといって逃げられない数々の炎上で中毒症状に苦しんでいた私を、あまりにもあっさりと救ったのは、ポリコレが始まるずっと前から血みどろでスプラッタでブラックジョークに溢れる鬼才クエンティン・タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(以下、OUTIH)』だった。ちなみに、タランティーノの『パルプ・フィクション』『キル・ビル』『ジャンゴ 繋がれざる者』をプロデュースしていたのは、#MeToo運動で告発されたあのハーヴェイ・ワインスタインである。

作り手もひとりの人間である

マーゴット・ロビー演じるシャロン・テートへの愛とリスペクトがラブレターのように込められていたタランティーノのOUTIHを観た後、私の心は爽快だった。作品は決して社会や大衆を背負うため”だけ”の目的ではないという、元々定義されてもいない当たり前のことに気づいた。

また、この時噴出していたマーゴット・ロビーの台詞の少なさ問題や、ブルース・リー描写問題にもキッパリと決別できている自分がいた。どちらにも、タランティーノの世界観とエンターテインメントに対するコンテクストを実感していたからだ。私からみれば、たとえば作中でブルース・リーがクリフとの一騎討ちで敗退したのは、「”あの”ブルース・リーですら勝てないくらい頑強なスタントマン」というリスペクトの裏返しだった。これは完全に私の解釈だし、実際ブルース・リーの娘は怒っていたようだけれども。もちろん、リーの娘が憤るのは止められない。だってそれは父を馬鹿にされたと感じる娘本人だからだ。かといって、私が”アジア人”としてそこに加勢するのは、違うなと感じた。

一貫してずっとブレないスタントマン、クリフのキャラクター描写は、史実をエンタメに変えるための「視点」として、とてもクールで素敵だった。映画が作られる目的は「啓蒙」だけでも「革命」だけでもない。私が中毒のように抱いていたポリコレへの、有り余る執着(呪縛?)はここで断ち切れた。

個人攻撃と批評は別モノである

ポリコレは本来、是正という意味において正義であるはずだ。でも、行き場を失った声なき声は常にフラストレーションとともにタイムラインに流れ続ける。いまだに、私もその一部だ。

泣き寝入りするしかない日本のセクハラ問題や、全体主義的に植え付けられたルッキズムに踊らされるコンテンツには辟易する。永遠にアップデートされない美や性の価値観にうんざりしている。自分が「女というモノ」として選択されることに対して、中指を立てて逃げたくなる時がある。悲しくて泣きそうなときもある。

でも、自分が声を上げるべき時は、その”あらゆるすべてではないな”と思っている。ちょっと無理やりくさくも聞こえるけれど、それが自分にとっての最善な方法論だし、それで満足している。

最近でいうと、ワニさんや岡村隆史はコラージュのように切り取られ、人々は公開私刑寸前までヒートアップしている。正しいも間違いも、一度堕ちれば悪かろう悪かろうになってしまう。

さらに、ゴシップニュースは象徴的なものを見つけると、安易に照準を合わせてインスタントライターに火をつけ、大衆を扇動していってしまう。

何万のいいねより、自分の指を信じて

ミツバチは、天敵であるスズメバチを撃退するために、1体に大量に集まって熱を発し、焼き殺してしまう。これと同じようなことがSNSでも起きている。人間同士は、果たして天敵なんだろうか?

自分が頑として「これはダメだ」と判断したならば、それはもちろん声を上げるべきだが、行き場のない怒りの矢面に立たされた人やコンテンツが、キャンセルされたまま復活を許されないのは、どうなんだろうか。純粋に、罵倒や中傷は、果たして正義なのだろうか?

詳細は書かないけれど、私には、自分が傷つけた相手に海を越えて直接謝りにいき、許しを得た友人がいる。そんなふうに、誰かの間違いや失敗と、それに対する心からの反省が、真の意味でリスペクトされる2020年代をひっそりと願っている。

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このnoteは、今年発売された書籍『2010s』を読んで、私にとって青春時代のほぼすべてだった2010年代のエンタメは、どうだったかを振り返ってみるwebファンジンです。詳細はこちら:


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