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咲く場所は自分で選ぼう

人生を花に例えた言葉で「置かれた場所で咲きなさい」というものがある。自分が今いる場所こそが自分の居場所なのだから、周りの環境を言い訳にせず、自らの心がけで幸せになりなさいという意味であると解釈している。

僕はこの言葉が好きだった。
何かの縁やめぐり合わせで導かれた場所こそが自分の居場所であり、その場所で一生懸命に生きていれば人並みの幸せを手にすることが出来ると思っていた。

でも、今はそう思わない。
うつ病を患って痛感したことだが、人それぞれ適応できる環境は異なる。
どんなに頑張って根を張ろうとしても、そこが自分に合わない環境ならいつか枯れる。
雑草だって同じだ。
それに、もし根を張れたとしても環境が合わないのなら、大輪の花は咲かない。
だから自分が咲ける場所を自分で吟味して選択する必要がある。
縁やしがらみに任せて何となく決めていいものではない。

昨日の投稿と少し被るが、”本能”を敏感に感じ取ることは生きていくうえで大切だ。
どんな人生にも必ず苦しいことは訪れる訳だが、その苦しさを本能が強烈に拒むのなら環境を変える機会なのだと思う。
僕は社会に出て何度かそういう時期が訪れた。
僕の場合は、強いストレスと動悸や鼻血といった形で本能が訴えてきたが、当時の僕は「置かれた場所で咲く」つもりでいたから環境の変化を拒んだ。
その結果、うつ病になった。
とんでもない間違いを犯してしまったわけだ。

僕たちには足がある。
草木のようにその場にとどまる必要はないし、置かれた場所に適応できないと思うのなら移動すればいい。
花を咲かせたいのなら、適した環境に赴くのは自然なことだ。
そのために逃げることは悪いことじゃない。

もうすぐ卒業式の時期だ。
社会に羽ばたいていく若者たちは、きっとこの1年間で様々なことを経験して見聞を広め、自分の居場所について真剣に考えることになるのだろう。
悩んだときに誰かに相談すれば、もっともらしい答えが返ってくるかも知れないけれど、それが自分にとって正解なのかどうかは他人には解らない。
その時感じている悩みや苦しみは本能を活性する刺激なのか、それとも本能が発するSOSなのか、しっかり汲み取って自分で行動を選択しよう。

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