知識のあり方 帰納法的学習法と演繹トレーニングの勧め

知識はアクセサリーであってはならない。生そのものを輝かせるための熱でなくてはならない。

知識そのものは与えたからといってその分失われるということはない。しかし与えている時間と労力で新たに得られたかもしれない分を取り逃がすということはあり得る。私は悟りを開いた訳でも、指導者としての資格を得られるだけの充分な知識を有している訳でもなく、熱浴としては機能しない。新人に教えるときにイライラしてしまうのはそのせいかもしれない。あるいは教える側、教えられる側という立場の違いの上で、新人から思いもしなかった質問をぶつけられることによって生じる動揺をそのように感じるのかもしれない。

知識をアクセサリーにしないためには帰納法的学習が効果的である{思考とは、具体→(帰納)→抽象(普遍)→(演繹)→具体、の循環。帰納とは突き詰めて言えば、とか、考えを推し進めると、など、極限をとることに似ていて(大数の法則に基づくため)、極限という概念は無限という概念と共にある。無限の尺度を持つようになった者はもはや大衆ではない。だからこそ、善なるものは偽なのである。学習法がどちらであっても正しく極限をとれる(微視的に関数を展開した上で極限をとらなければ正しい結果にはならない)ようになっていればそれは公衆である。}し、現場では概ねそのように研究が進められるのは私も認めるところではあるけれど、それを実現するには時間、労力、紙、電力などそれぞれに莫大な資源を要する。人道的な視点からはそれらが平等に与えられる環境に既存の社会がなっていないこと、非人道的な視点からはそこまでする価値が(大衆的な人間に対しては)ないことがあって(知識を悪用しかしないため)、私は公理(普遍の原理)から演繹する訓練を通じて、公理そのものを体得する学習を支持している(全てを学ぶことを前提とするならその方が恐らくは安上がりにできると思われるため)。もっとも、国語のテストのように与えられた情報から言えることだけが問われるような社会であったならばそれはこの限りではない。しかし、それもそれで窮屈で面白味のない世界ではある。


この記事が参加している募集

学問への愛を語ろう

物理がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?