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ストーリーのない意見のぶつかり合いに意味はない

しゃび

SNSやブログで自由に意見が言えるようになった。

昔は心の中でもやもやと思っているだけだったことも、世界中にお届けすることができるし、見ず知らずの人と意見交換もできるようになった。

それなのに、なんか不自由な言論空間な感じもしてくる。

少し突飛な意見を言うと、引用リツイートの応酬でマウント合戦に発展しているケースもざらだし、場合によっては逆バズで袋叩きに合っている人も見かける。


意見と意見のぶつかり合いに意味はないと思う。


どちらかが正しいなんてほとんどないからだ。
意見が違うのは、ストーリーが違うからだ。

どんなところで生まれて、どんな育ち方をして、どんな社会経験を積み、そこにどんな悲しみや喜び、葛藤があったのか

意見に紐づけられたストーリー、今風に言うとナラティブというのだろうか。

それを度外視して「そうだそうだ」「お前は間違っている」と意見を結集させたところで、中身は空っぽなのではないか。


意見とは「AさんによるXという意見」として聞くべきだと思う。
そしてこの「べき」という意見も、「しゃびによるYという意見」として届かなければ仕方がないのだ。

これが1対nの難しいところなのだと思う。


だからぼくはずっと、いろんなことを言い続けて「しゃびによる」を伝えていきたいのです。


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しゃび

これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!