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『魔女の宅急便』と贈り物の世界


『魔女の宅急便』を観直した。

冒頭、魔女のキキが修行の旅に出発するシーンで、こんなセリフがある。

「あの鈴の音も当分聞けないなぁ」

飛ぶのが下手なキキはよく木にぶつかる。
木にくくりつけた鈴がぶつかるたびにチリリンとなる。馴染み深いその音が聞けなくなることを、寂しく感じて出たセリフだ。

当然キキは鈴の音を故意に鳴らしているわけではないし、鈴の音が街の人たちに心地よく届いていることを知らない。

キキは飛ぶのが下手なことで、意図せず鈴の音をプレゼントしているのだ。

贈り物を届けるのは難しい。
想いを込めて贈っても、その気持ちが伝わらないことも多い。

おばあさんとキキが力を合わせて作った、「ニシンとかぼちゃの包み焼き」。雨の中必死で届けるも、「私このパイ嫌いなのよね」と一蹴される。



全力のプレゼントは届かず、意図しない贈り物は届く。




このようなことは往々にして起こる。




現代社会は交換を前提とした関係で溢れている。

労働をお金に変え、それをまた物やサービスに変える。

交換することに慣れ切っているので、人間関係でも何かを交換しようとしてしまう。

自分にできる役割は何か?
giveできるものは何か?
見返りはあるのか?
メリットはあるのか?

交換を前提とした人間関係は、均衡が取れてないとバツの悪さが生まれる。何もできていないと感じると、居心地が悪い。

魔女の宅急便でも、交換社会を感じさせるシーンがある。

キキがスランプに陥った時、「魔法がなくなったら、私、何の取り柄もなくなっちゃう」と嘆く。この街でやっていくためには、「魔法」という取り柄を差し出す必要があった。

しかし、絵描きのウルスラにとっては、スランプに悩むキキの表情の方が魅力的に映っていた。

世界は交換のように見えて贈与なのかもしれない。


もし、ぼくがお金も能力もなくなってしまったらどうなるんだろう。周りから誰もいなくなるのだろうか。

それは寂しい。

でも、本来人と人を繋げるのは、キキの鈴の音やのようなものなのではないか。

意図しないものを誰かが受け取った時、交換の伴わない真の贈り物が成立するのだと思う。

飛ぶのが下手であったことや悩んでいる表情が贈り物になったように、葛藤、笑い、喜び、迷い、弱さ。そのような人間臭さを人は贈り物として受け取るのではないか。

交換は貯蓄できるけど、贈りものは貯蓄できない。勝手に送られてしまうのだから。

もしかしたら贈り合いの社会は、デフレやインフレのない経済を作るかもしれない。



『魔女の宅急便』を観返したのにはきっかけがある。近内悠太さんの『世界は贈与でできている』を読んで、そういえば魔女の宅急便って贈与性の高い映画だったなぁと思ったからだ。

『世界は贈与でできている』
すごくいい本なので良かったら読んでみてください。そして、感想を聞かせてくれると嬉しいです。

最後に一つだけ、本からの引用を紹介。

「贈与は合理的であってはならない。不合理なものだけが、受取人の目に贈与として映る。」

ではではまた。


おしゃべり版もあります。
良かったら聴いてみてください。


(参考文献)
近内悠太『世界は贈与でできている-資本主義の「すきま」を埋める倫理学』NewsPicksパブリッシング 2020.3




これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!