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なぜ「議論」が下手なのか?

日本人が議論下手なのは、議論のためのルール作りが下手だから

日本人は議論が下手だとよく言われている。そのことについてはその通りだと思う。しかしそれはテクニックの問題ではなく、文化の問題だと思う。欧米人は権利意識が強いので、自分達が手に入れたい、あるいは絶対守りたい権利については徹底的に主張してくる。というよりも、欧米人は子供の時から一人一人、人とは違った立場だと思っているので、何かにつけ議論を吹っ掛けあってそれでコミュニケーションする習慣を持っている。確かに、父はポーランド人で、母はスコットランド人という人もいて、あるいは10の民族の混血の人もいる。この人たちにとっては、父や母ともまったく自分と同じ側にいるわけではないと思っている。こうした欧米と日本の違いの根源は、国家の成り立ちにも関係している。欧米は、多様な文化と民族が混交して成り立っているので、自分の立場はどこまで行っても自分は独自のひとりという立場なのだ。

西欧社会では一人一人が独自の立場に

しかし日本人は、みんなが昔から同じ側に立っているという認識にがあるので、何とか相互に話しあって、譲り合って折り合いをつけようとするので、基本的に西欧の文化が言うところの議論というものが成り立たない。ところが西欧の文化では、それぞれに自分だけの立場があるという前提なので、まず議論することが生活の場でも出発点にある。
それぞれ立場の違う人が議論するとなると、その前にルールを決めなくてはならない。例えて言うと、相撲取りとボクシングの選手が試合するためにはその異種間競技のルール、あるいはリングや土俵と呼んでもいいのだけれど、両者が戦う競技の場を作る必要がある。例えば、リングの大きさはどの程度、どうすれば勝負が決まるか、レフリーは誰がするのか、何が反則かといったことだ。そうしたルールを決めたうえで異種間競技が行われることになるが、議論もそれと同じようなものだと言える気がする。

「和」をもって尊しは、日本の決め事の理想

日本では古来より、聖徳太子の「和をもって尊し」という決め事に対しての理想がある。この理念はこれで文化的な価値があると思うのだが、それも話し合う人間がすべて同じ側にいるという認識を持っているので成立するものだと言える。また、こうしたポリシーが通用するのは、高い徳があって、絶対的な権力を持った主導者が存在していることが前提になる。しかし一応現代は、世界中の多様な文化や政治理念が混在し、民主主義的な討議が決め事の基本になっているので、やはり、決め事のルールが必要になってくる。

交通規則のような議論のためのルールが必要

つまり効率的な議論とは、交通ルールがある交通システムのようなものなので、交通ルールがなければ、結局交通システムは機能しない。言ってみれば、みんなが交通標識がない道路を自分の決めた方法で勝手に走るようなもので、まったく交通秩序はなく、限りなく事故の危険性は高まる。そこで事故が起これば誰が悪いのかという議論になるのだが、ルールがないので誰が悪いのか結論が出せることではない。だから議論しようとすれば、異種間競技ではないが、まず共通のルールを作ることが先決だ。「議論」の前にまずルールというのは意外かも知れないが、ルールというのはそういうものだと思う。文化論としてはもっと微妙で複雑な側面があるが、一つの視点としてそんな考え方もあり得るのではないだろうか。


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