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音楽マネージャーとライター、事業家などに夢中になっているうちに、いつの間にかかなりの月日が経ちました。何か新しい楽しみを発見している最中です。

最近の記事

コトコトコットンの「森の水車」

水車って重そうなのに、それほど速く回転するの? 「コトコトコットン コトコトコットン ファミレドシドレミファ」と続くのだが、いわゆる「森の水車」の歌だ。「コトコトコットン」というのはおそらく水車のまわる音の擬音だが、いかにも軽妙で、子供が喜びそうな楽し気な歌だ。誰が作った歌かは私は知らなかったが、この種の歌には疎(うと)い私もこの曲のことは記憶にあった。また、この歌が、「森の水車」という題名だったことも、水車のことを歌っていることも知っていた。そう考えてみると、きっと私も学

    • 大阪・京都・東京          コンビニ・トイレの三都物語

      大きな通りなのになぜかコンビニがない 京都の北大路通りを西に向かって歩いていたが、下鴨本通りと北大路が交わる辺りから北大路通りにはコンビニがほとんどなくなった。コンビニが大好きな外国人観光客はいっぱいいるのに、コンビニはない。これは理屈が分からない。それはともかく、この日は京都でも今年最高と思われる暑い日で、それほど歩いたわけでもないのに汗だくで、ペットボトルの水を過度に飲んでいたのか、にわかに尿意を催してきた。ところが北大路通りにはコンビニの存在が目に入らないので、どうし

      • 日本人にとっての「故郷」と「都」

        故郷は遠きにありて思うもの 誰が書いた文かは分からない人でも、「ふるさとは遠きにありて思うもの」という一節は頭のどこかに残っているのではないだろうか。「故郷から遠く離れて暮らしている人なら、故郷に戻りたいという気持ちになるが、故郷というのは生活が苦しくても決して戻るところではない!」と、この詩は訴えている。しかし、評論家などによると、どうもそうでもないらしい。そこで、一応、この詩の肝心な部分を書き写しておくと… ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よし

        • 祇園祭は平安時代のクールジャパン

          昨日が宵山、いよいよ今日は山鉾巡行を迎える 京都は祇園祭の宵山を迎えて、いよいよ明日は山鉾巡行という段取りになる。最近は海外の観光客が京都の人口の半分ぐらいを占めるのではないかと思われるほど京都の街は観光客があふれていて、明日の山鉾巡行は天気さえよければ空前の人出になるだろうことが容易に想像できる。かつて私は、山鉾巡行のスタート地点となる、四条通りの大丸百貨店の少し東の方にあった山一證券ビルに仕事で出入りしていて、祇園祭の山鉾巡行の日は、おめでたくも毎年祭事の一番前で見物す

        コトコトコットンの「森の水車」

          世の中に、有りそうで無いもの

          電気の「瞬間湯沸かし器」をみたことがある? 世の中には、いかにも有りそうで実際は無いものがたくさんある。例えば、電気の「瞬間湯沸かし器」もその中の一つだ。一気に水を沸かして湯にするには相当なエネルギーが必要なので、どうしても湯沸かしはガスが有利ということになっている。つまり水道管の太さのパイプの中を、水は一定の速さで移動しているが、その速さで流れている水を、水が流れるのと同時に沸騰させなければならないのだ。私は、この電気による「瞬間湯沸かし器」を開発しようとしている技術者と

          世の中に、有りそうで無いもの

          故郷に寄せる情熱の季節

          JRの汽笛の音が、人々に故郷への思いを掻き立てる 私は京都の下京区というところに住んでいる。部屋のあるマンションの前が幹線道路の一つなので、本来は静かであるべき京都なのに、走る車やトラックの音が喧しい。ところが、夕方前のある時間、おそらく流通か何かの加減なのか、束の間少し静かな時間が存在する。その静かな時間を持っていたように、遠くにJRの汽笛の音が悲しげに聴こえてくることがある。本来は京都市内でJRの汽笛が鳴るところは多くなく、走るタクシーや営業車、トラックの音にかき消され

          故郷に寄せる情熱の季節

          無能の散歩人?

          つげ義春という漫画家を知っている? 昔、つげ義春(よしはる)という超現実主義的というか、特異な漫画で一世を風靡した作家がいた。過去形を使ったが、高齢だとは思うが現在も確かご健在で、ただ私は最近の活躍についてはよく知らない。「ねじ式」とか、「赤い花」などが代表作で、とにかく簡単には説明できない不思議な漫画を描く人だった。いろんな評論家が様々に評価していたが、こうした先駆的な手法を創造した人は少なからず否定されるが、つげ義春に関してはそうした批判は少なく、とりあえず彼の作品のイ

          無能の散歩人?

          日本人にとっての「お風呂」

          風呂には家族の歴史がある 世の中にお風呂が嫌いな人はいないと思っていたが、嫌いな人が結構な割合でいる。私が知っている風呂が嫌いな人の一人は、私のおやじだった。汚い話だが、風呂の嫌いなおやじを無理やり風呂に追い込むと、風呂に入るのは入る。しかし、風呂に入るとそのまま体を洗うこともなく、湯船に入ってしまう。湯に入っている間はさすがに気分が良いらしく、まずは静かに湯につかっているが、幾分体が温かくなって、温かくなると体全体が痒(かゆ)くなるようで、タオルを湯船に持ち込んで、体をマ

          日本人にとっての「お風呂」

          喫煙文化の残り香

          私は煙草好きな少年だった 私は高校生の時から煙草を吸っていた。男の兄弟は4人いたが、成人して10年以上も煙草を吸っていたのは私だけだった。といっても、私もかなり昔に煙草を止めたが、止めるのは思っていたよりずっと簡単だったのが意外だった。ただ煙草を吸っていた頃の習慣が、今も手に残っているのが不思議で、いまでも、自然に煙草を手にしようする仕草が抜けない。ところで、煙草と言うのはとても不思議な文化だ。作家の安部公房が「煙草は、気まずい時間を消費する道具だ」などと言っていたような記

          喫煙文化の残り香

          「孤独」という悲しくも豊かな環境

          自立していると思ったが、私は「孤独」な子供と思われていた 私の育った家庭はごく普通の家庭で、私は好き勝手に生活していたつもりだったが、母に言わせると昔から「孤独」を愛する子供だったという。しかし、私の同級生を含め、私の周辺にいた友人たちは、わが家は冷たい家族で、私が孤立して「孤独」な存在に苦しんでいるに違いないと信じていた。私の母親は、自らの感情を露わにすることをいとわず、歯に衣を着せない人だったが、それでいて人の苦しみに対しては人情豊かな人物だった。一方父は、正直言って何

          「孤独」という悲しくも豊かな環境

          探しものはなに・・・?

          大掃除の目的は一冊の大切な本を探すため 探しものと言えば、夢や希望、愛といった抽象的なものもあるし、それこそ今必要で必死で探している部屋のカギや、頭の上にかけた眼鏡といった日常的なものもある。実は私は先日、部屋の大掃除をした。なぜ大掃除をする気になったかと言えば、大切な本がなくなったのだ。私の書斎は、というほど立派なものではないが、部屋の陽の当たらない壁には二つの大きな本棚があって、未整理の状態で本棚一杯に本が詰まっている。しかも畳の部屋には、本を積み上げた本の小山がアフリ

          探しものはなに・・・?

          もっと遠くを見る

          予科練にいた若者は、いつも遠くを見るという 私はよく寝床に入ってから本を読む癖があった。家族はそれを、私の目が悪くなった、つまり近視の原因だと言う。それは確かに当たっているように思う。たまにわが家にやってくる歳の離れた私の従兄は、海軍の予科練にいた経験があって、船に乗っていた時代の習慣のように目の前に開けた風景があると、何も言わずにすぐに遠くを見つめるのだった。遠くを見るにいたった理由を聞くと、眼がよくないと飛んでくる敵の戦闘機の発見が遅れたり、近づいてくる艦船を見逃したり

          もっと遠くを見る

          生き物の権利

          動物は人間の役に立つために生きているのか? 私たち生き物はすべて、この地球上で人間と同じように種として生き残る権利を持っていると思う。といってもそのように認識している人は少ない。これは人間中心のキリスト教の影響かとも思うが、基本は人間の生存と繁栄が最大の課題で、動物は人間のために生きているという考え方だ。イギリスの動物学者デズモンド・モリスは、動物が生きる権利について昔から積極的な発言を繰り返している。ただこの問題を論じるには、私たち人間と野生動物が、どのように棲み分けるの

          生き物の権利

          「風見鶏」のうんちく

          幼い私が神戸で出遭った「風見鶏」 私は昔から風見鶏が好きだ。神戸は大阪から30分で行けて、エキゾチックな街の雰囲気は子供心にも大阪とは異質な世界であることを感じさせた。異人館は、その異質の世界の目印のようなもので、私は中学生の頃からこの街に馴染んでいた。なぜ風見鶏が好きなのかと聞かれても、なかなか答えが見つからないが、子供の頃から好きだったのだから、多分風見鶏の玩具性、風という自然によって動く汎自然性、日本にある異国性といったことが、好きな理由のようにも思える。 最近では神

          「風見鶏」のうんちく

          耐寒歩行の日

          年に一度「耐寒歩行」という日があった 私が通っていた高校では、年に一度「耐寒歩行」という行事があった。スポーツイベントなのか、あるいは精神修養なのか、その目的は分からないが、学内ではなんとなく重要なイベントとして扱われていたような記憶がある。学校から耐寒歩行の対象となる山までバスで向かい、麓(ふもと)から頂上近くにある寺まで歩く。そして、適当な時間に自分で作ってきた弁当を食べ、そのまま帰ってくるというシンプルなものだ。耐寒と言えばかつて大きな事件となった「八甲田山」をほうふ

          耐寒歩行の日

          「成熟社会」で普通に生きる

          ただ複雑になってくるが、決して便利ではない 世の中、どんどん面倒になってきていないですか?何でも電子化になって、世の中の公的や私的を問わずやり取りもすべて記号化され、その対応で高齢の人は大変だと思う。贅沢を望まなければ、もともと人間として生活するのはそれほど難しいことではなかったと思うのだ。 最近、若い人に限らず結構中年の人や、高齢者が移住を考え始めてるような気がする。単純に言えば、家があって、生計の方法があれば基本的に生活するための土台は出来上がっている。後は付加的に子供

          「成熟社会」で普通に生きる