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日本人にとっての「故郷」と「都」

故郷は遠きにありて思うもの

誰が書いた文かは分からない人でも、「ふるさとは遠きにありて思うもの」という一節は頭のどこかに残っているのではないだろうか。「故郷から遠く離れて暮らしている人なら、故郷に戻りたいという気持ちになるが、故郷というのは生活が苦しくても決して戻るところではない!」と、この詩は訴えている。しかし、評論家などによると、どうもそうでもないらしい。そこで、一応、この詩の肝心な部分を書き写しておくと…

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの
よしや うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて
遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや

室生犀星 「小景異情」より

となる。この詩は東京にいる室生犀星が、故郷の金沢を思いながら詠った詩と思われているらしいが、実際にはこの詩は故郷の金沢で書かれているらしい。本格的な解釈は室生犀星の研究家などがいろいろ分析しているが、ざっくり言えば、故郷の金沢に帰ってきたが、周囲の目は冷ややかで、故郷など絶対に帰ってくるところではないということを言っている気がする。そのうえで、故郷を思えば涙ぐむほどに金沢が好きだが、その気持ちを忘れず急いで東京に戻ろうということを言っているらしい。その心情の複雑さは、評論家が言うようにいろいろと理由はあるのだろうけれど、室生の気持ちは分からなくもない。

ところで私は、室生犀星のファンではない。というより、彼に対しては一般の人程度の知識しかない。ただ、室生の故郷である金沢は、私の父親の故郷でもあって、その一点はわずかに関りがある。さて、故郷のことだが、たしかに故郷を離れて異郷に暮らしていると、折に触れて故郷がことさら懐かしく思えるのは自然なことだと思う。私自身はどこにいても意外に疎外感を感じないし、また故郷にも好意は感じるが、特に恋しくなった経験はない。

京都は、日本の都市の理想の雛形
その雛形を日本中に広げる「首都」の役割

これは多分に私の育った環境にかかわるもので、ほとんど自然や風土の息吹に触れることのない大都市に育ち、また大都市に育つということは、祖父母、従兄や叔父、叔母など近親者との距離も相対的に遠く、自分の心の中に故郷のシーズが根を広げる機会がなかったのかも知れない。私は今京都に住んでいるが、京都という町も故郷としての意識を育むところではないと思う。京都は日本の都であり、京都人の郷里づくりのために造られた町ではない。私は京都で生まれ育ったのではないので、逆に京都が日本の都市の理想的な雛形で、その雛形を日本中に広げる役割を持ったのが本当の意味での「首都」であることを確かに認識することができる。

一般的に公共放送やメディアでは、京都で使われている言葉のことを「京都弁」とか「京都の方言」とか言ったりするが、普通の京都の人に聞くと、怒りも反発もなく自然に、それは「京ことば」と呼ぶのが一番正確ではないかと返答されることがある。確かに、もともと日本語の基本は日本の首都である京都の言葉なので、どこまでいっても「弁」とか「方言」というものではない。今の標準語は、どう考えても江戸の大衆の言語に、長州言葉や薩摩言葉が不自然に入り混じったもので、これは明治弁ということになる。「京ことば」は明治弁とは違うので、明治弁を話す人にすれば明治弁の訛りと決めつけて京都弁と呼ぶ。それに不思議なことだが、日本人は、便宜的に日本の首都は東京だろうと思ってはいるが、まず法的に決められて、東京が首都になったわけではなくて、曖昧な部分がある。誰がそう決めたのかも定かではない。

京都弁でも京都の方言でもなく

永遠に日本語の標準となる「京ことば」


さらに言えば、東京に皇居はあるが、「御所」はない。言葉通りに解釈すると、天皇が鎮座する場所は時代と関係なく昔から「御所」であり、皇居は「天皇」が居るという存在の表示である。明治からこの方、相当な時間が経過するが、天皇という存在と、首都という在り方に関して、未解決の解釈がたくさん残っているような気がする。京都ではいつも冗談半分の話題になるが、天皇が東京に行ったのは法的な根拠があるわけではない。ただ、明治政府の誰かが行幸だと偽って天皇陛下を東京に連れ出して、将軍のいた城に入れた。そして天皇を二度と京都には戻さなかった…と言い伝えられている。そして京都人からは、天皇はんは、いまだに京の御所を留守にしてはるんどすと、言わしめていることになる。「御所」は、遠きにありて思うものだろうか。


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