とおまど、M-1に出る。 エントリー編
──────① とおまど、M-1に出る。
「嫌です」
(────────………………)
「ぜひ、浅倉さんと一緒に!
どうでしょうか……!」
(ぅぐおあああぁ………………………………)
「え?
あー……」
(ああ、願わくは────)
「……イエス」
(あーーーー、いやもういい、もういい
ないないないない)
「いい!」
「いいねぇ!」
「いい!!」
「そういうの
……本当、結構です」
(あああぁ………)
「あは〜
なんか楽しそう〜!」
「ぴ……
ぴぇ……」
(ああ、うるさいうるさい
もう黙って)
目を疑うような内容が書かれたカンペに従い、MCがとんでもないフリを放った。それに追従し上手側ひな壇の登壇者たちが総掛かりでトピックをこじ開けてきて、私はあれよあれよという間に退路をなくした。進行表を兼ねた台本通り、構成作家がアンケートを叩き台に纏めたバラエティスタイルのQ&Aをトレースさえしていればいいはずだったのに。
《バラエティ番組用の事前アンケートは机に置きました》
《もう対応してくれたんだな、ありがとう!
当日は付き添えなくて申し訳ない》
《台本がありますし番組の要望に沿ってやります
問題ありません》
《ありがとう》
……
段取りも質問も、全然違う。
──何もかも話が違ってる。どうせその程度の枠だったってこと。
インターネット定時生配信のバラエティ番組にゲストとして呼ばれた、アイドルユニット『ノクチル』。
同ユニットは、独特のオーラと透明感で誰をも惹きつけるリーダー『浅倉透』のもと、隣家に住む同学年の私『樋口円香』、一つ年下の『福丸小糸』と『市川雛菜』が追随する、幼なじみの高校生4人組からなるグループだ。
得も言われぬカリスマ性じみたものを帯びる透の自然体な振る舞いは予てから注目を集めてきたが、しかし彼女はその実何も考えていない天然マイペースでもあり、現所属事務所である『283プロダクション』からのスカウトを危険視した私は、大事な幼なじみが食い物にされないか監視するため自らその虎穴へ潜った。そのうち小糸と雛菜も付和雷同して結局いつもの関係性がそのままユニットとなり、あるがままの私たちと芸能活動の齟齬から生じる様々なトラブルを経つつ、アイドルとしてそれなりの知名度を得て現在に至る。
バラエティ番組が期待する『ノクチル』の役割とは大抵、飾り気がない緩慢なリアクションからくる気の抜けた笑いである。特にただ居るだけでカメラ映えする透はフリの対象となりやすく、その天然な応答をイジりさえすれば安定して尺が稼げるということを業界は目敏く理解している。しかし今回異例なのは、あくまで透の安易なノリが構成上の前提に過ぎず、フリとイジりの最終的な矛先が私に向いているらしいことと、そしてそれが少々危険なことだ──
お笑いは見るほうである。突拍子もないフリのゴリ押しに対していちアイドルとして殊更に嫌がってみせるのは、テレビ文脈的な定型に則った応酬として正しい。前のめりで乗っかるよりも歴然として正しい。若手芸人が冠を務める生配信においては尚のことだ。芸人には芸人の、アイドルにはアイドルの職分がある。私は少なくとも分を弁えている。
「ははは……!
アイドルとしてそれはダメでしょ!」
「いやインパクトはあるけど!」
「あはは……!」
「いやもうそのインパクトが大切なんですって!」
「見たいんだって、友達の絆」
「……最悪」
この状況というのは、私の本心からの拒絶と周囲に要請される役割とが不幸にも合致していたがため落ちざるを得なかった陥穽に過ぎない。そしてその隣に、無自覚で砂を掛けるバカが配置されていただけのこと。
構成作家の絵図に乗ること自体は──私がそれをすげなく為し得る範囲において──吝かではない。だが問題は放言が実体化するリスクだ。他人の人生にどこまで責任を持てるんですか?
全く、冗談じゃない。
────…………透と私がコンビを組んで、日本一の若手漫才師を決める大会『M-1グランプリ』に出ろだなんて。
「…………
……無理です、笑えない」
ことの重大さを理解せず無責任なフリに応じる透、他人事だと思って煽るこれまた自由人の雛菜。小動物じみて竦む小糸だけがこの状況に気を揉んでおり、挙動不審なジェスチャーで透へ訴えかけるが、全く暖簾に腕押しだ。
「うぃー
めっちゃ楽しそう なんか」
「そ……
そういうわけじゃないよ……」
投げられた賽は音を立てて転がり続け、挿入効果音ではない生のスタッフ笑いに気を良くした芸人たちが矢継ぎ早にガヤを放り込んでくる。それは渦となった。
(私を見て、楽しみ、喜び、悲しみ、嗤い、誹る
私は娯楽のための見世物じゃない……)
お笑いとはコントラストかもしれない。緩急というよりもしっくりくる。不機嫌を決め込んだアイドルを取り巻く粗い野次の激烈な対比関係は、静と動という一種の超自然的なセオリーかのようだ。望まざることだが今や私を目とした台風が発生している。
「じゃあ、します
優勝」
「と、透ちゃん……!
……!
ゆ、優勝って……」
「全部のユニットの中で1位とるってこと〜?」
普段ならば台風の目とは疑う余地もなく透だったはずだ。中空のような透がただ在り、悠然と振る舞うのを起点に周囲が転がるお決まりの流れ。ところがここにおいてはどうだ、透はスタジオの追い風に身を任せ猛烈な気流の一部と化していた。ただそこに在るという役割を私にパスしてだ──ちょっと、何パスしてんの。そのことは私をますます不機嫌にさせた。
「────ったく、簡単に」
「え?」
「優勝するとか、簡単に言いすぎ」
「あれ、出たくなかった?」
「あは〜
優勝したら注目されちゃうね〜」
こういう平場において天然・自由演技型は異様な強さを発揮する。思慮や物怖じといった、常識的な人間が須く備えているはずのリミッターが欠落しているからだ。そんな何者の思惑にも囚われないマイペース加減は私たちの深く知るところだ。
枷なき怪物が場を荒らすお陰で、スタジオにはもはやどう転がしても美味しくなる空気が充満している。それは若手芸人にとって格好の、狩場の様相を呈する。
「あれ……あれ?
どうしました、樋口さーん?」
「なんか真顔?
怒ってます?」
「アハハ、どうしちゃったのかな〜」
「は??
何この番組」
──ほんとに、中身のない会話。
不本意な状況にうんざりとしながらも、私はトークの流れを冷静に俯瞰していた。同じトピックを執拗に擦りすぎていることによりノリが飽和している。見かけの盛り上がりに反して『軽い』個々のワードは、さながら惰性で回旋する温帯低気圧だ。
展開を考える。雨後の筍のようなしょうもない野次を止揚する秩序としての、より『重い』ワードが必要だ。誰が放り込む? 周囲の全てが敵にさえ見える四面楚歌の現況下で、回しや決定打を期待できるキャストへ寄り掛かってしまう選択は取り難い。
番組はまとめのフェーズに差し掛かっていて、カメラ確認モニターの横でしゃがむフロアディレクターが黒のポスターカラーで一気呵成にカンペを書き込む。MCへ向けられたそれには『話題そのまま/(MC)樋口さんに終際まとめのフリ』とあり、ADに託され私に向けられたもう一冊のカンペには『(樋口さん)最後に一言』とある。それも聞いてないんだけど。
終盤でありながらトークはあえて泳がされ続ける。喧騒をバックにMCが短い挨拶で強引に畳む、よくある土壇場のフローとなるだろう。長時間バラエティ特番の跨ぎを例としてみるように、盛り上がりのカオスなドライヴ感とほどよい事件性を演出するそれは確かに生放送との噛み合わせがいい。駆け込むようなフリに対して気の利いた罵倒でも用意しておけば、役割としては及第がつけられるはずだ。
(何もしなくても、時計の針は回る
何もしなくても、未来は来る
だけど────)
もとより障りなくやり過ごすつもりではいた。
──ところが私は見つけてしまった。空気の一瞬の境目。MCが息継ぎをする、キャストが分節を区切る、そんなタイミングの奇跡的な共通集合。おそらく誰も気がついていないごく僅かな刹那の空隙……そして、ふとした思いつき──
今しかない……何が?
考えるよりも先に私は、大引けのフローに移ろうとするMCの機先を制して微細な目線を投げつつ、組んだ腕の肘裏で密かにこまねくようなフィンガーサインを送っていた。瞬時に意図を理解したMCは私にだけ軽く頷き、間髪入れずわざとらしく声を張る。
「……ってあっという間だったなー! もう終わっちゃうよー
最後一言! 樋口さんお願いします!」
●ON AIR time remaining:00:00:09
フリを受け取るや否や、私は自身に集中する視線から最も遠い上手最奥のカメラ・レンズに向き直る!
同時に番組終了までの秒読みが始まる。
──ちょっと待って、私は何をしようとしている……?
●ON AIR time remaining:00:00:08
事態が動くと直感した出演者たちは固唾を呑み成り行きを見守る。
右隣に座る元凶からの、好奇を示しているのか、そうでないのかさえもわからない、イノセントな視線の痒い刺激をうなじで感じ取る。あんたのせいだ、浅倉透!!
(私は誰にも縛られない……)
ただ、衝動のようなもの。
飽和した場には冷や水を浴びせなければならない。お笑いはコントラストだ。黙って見てろ。
●ON AIR time remaining:00:00:07
続いて無言のうちに正反対の下手側の一台へと振り返る。
スイッチャーへの信頼はカメラ確認モニターのトランジションによって応えられた。画角がグラついてカメラのズーム倍率が合ったらしいのを視野角ギリギリの端で捉える。
●ON AIR time remaining:00:00:06
スタジオを完全掌握している感覚。沈黙のなか注目を一身に浴びる、並みの神経では到底もたないヒリついたシチュエーション。そうした摩擦の真っ只中、もし透がこの立ち位置にあったらとつい思い浮かべてしまう。しかしその様は呆れるほど容易に想像でき、私の胸中で燻る怒りにも似た感情を熾してやまない。
どう見られるかとか、どう反応されるかなんて、透だったら気にもしないんでしょ?
《み、みんな見てる……
みんな、透ちゃん見てる……》
《みんな、見惚れてた
小糸も雛菜も、スタッフさんも》
(──知ってる)
●ON AIR time remaining:00:00:05
私とコンビやりたいとかだって、特に何の考えもなしに言ってるだけでしょ?
どうしても私を相方にしたい積極的な動機などは別段なく、巻き込んだのはただ身近にいたからっていう、それだけでしょ?
透が隣を許すことに深い意味なんてないんだから。
《なんか嫌。勘違いしてるみたいで》
《そうなんだ?》
《…………
っていうかさ、
浅倉は、なんで──……》
(──わかってる)
仏頂面を決め込んだまま中央のカメラに向く。もう、引き返せない。
●ON AIR time remaining:00:00:04
無茶なフリに応えたその向こう側に何が待ち構えてるっていうの?
見えてくるのはきっと、隙あらば誰かを陥れて嘲笑わんとする人間の宿痾を煮詰めた消費構造に過ぎないでしょ。
透はなんだってそこへ正面から飛び込んでいけるわけ? 悪意に満ちたトラップだってわかってる?
《わからん》
《──》
《いいじゃん
樋口がわかってれば》
(──私だけは)
●ON AIR time remaining:00:00:03
せめて、せめて透のそばにいないと。透がお笑い界の毒牙にかからないよう、私が監視して守らないと。
どんどん走っていって……危なっかしいから、見張るのも大変。
この危うくも狂おしいほど透明な存在を──みすみすどこの馬の骨かも分からない何者かに染めさせたりなんかしない。
《勝手にどこか行かないで》
《……あー
いいじゃん、まぁ
探しにきてくれれば》
(────浅倉透を)
●ON AIR time remaining:00:00:02
もう、二度と──
──────離さない!!
「やるか」
「「「────────!?」」」
●ON AIR time remaining:00:00:01
────(Cut!!)────
○ON AIR time remaining:00:00:00
スタジオが揺れた。
透にできることで、私にできないことはない。
* * *
──────② CATASTROPHE
「なんか大変なことになってるよ……!」
「へ〜〜?
あは〜〜〜〜〜!
見て〜 こんなにバズってる〜〜」
「ほんとだ やば」
「ぴぇ…………
ど、どうしよう……
プロデューサーさんに相談しないと、だよね……」
(ツイスタのトレンド通知……)
──転がり始めてしまった。
番組終了後の楽屋で見せつけられたスマホには、扇情的なアオリのついた切り抜きショートリールがあった。恐ろしい初動でLikeがリアルタイム更新されていく様を見て、私はあのスタジオでの掛け合いが単なる生バラのインスタントなノリで片付かなかったことを察した。
放送時間という完結性を意識した幕際の一言だったが、あまりにもヒキが強すぎたのは誤算としか言いようがなかった。ほぼ自損事故だ。柄にもなく調子に乗った。
──それにしても、今、すごく注目されている番組。多少過激な立ち回りが無いとは言えない、しかし、若者への知名度が一気に広まる、売出し中の子にはかなり美味しい話。
《なぜ、あの仕事なんですか?》
《────ええと……生配信の件かな
かなりいい話だと思うんだけど、心配か?》
《そうですね
あなたとは価値観が違うので》
《……アイドル番組じゃないけど、結構注目されてるんだ
テレビ業界もアンテナを張ったりしてる》
《それで?
浅倉透がディレクターの目にとまった?
……
あの番組についてはもう調べました
確かに視聴者数が売りの番組
……それだけの番組》
《だからって、なかなか出られるものじゃない
たくさんの視聴者を意識するのは、きっとすごく大事な経験になると思う』
《──好きに言ってくれますね
矢面に立つ、売り物はこっちなのに》
《……売り物って────》
《何かあったら、許しませんので》
《何か……って────円香》
(あああぁ………)
実際に起きた何か。いや、起こしてしまった何か。誰の目にも明らかな墓穴だ。
ふとした向こう見ずな衝動に任せて、らしくないノリ──ただし私たちの内輪では小糸という可愛いブレーキを前提とした、諫言の逆張りとしての乗っかりはままある──を惜しげもなく披露してしまったことに我がことながら狼狽えたし、弊社プロデューサーに大きな口を叩いた手前のこの有様が何より苛立たしく、次会う際の気遣わしげな第一声を思うと今から鬱陶しくて堪らなかった。
┌────────────────┐
お疲れ様です|
バラエティ番組のLIVE配信は|
終了しましたが|
申し訳ありません。失敗しました|
└──────────────‐v─┘
┌────────────────┐
|お、番組お疲れさま!
|こっちのMTGも終わったところだ
|まだスタジオの近くにいるなら
|迎えにいく
└─‐v──────────────┘
┌────────────────┐
はい。では、待っています|
└──────────────‐v─┘
「はぁ……
最悪」
「やったじゃん
キャーだったよね、スタジオ」
「ね〜〜〜
それに〜、透先輩と円香先輩の漫才、ちょっと見てみたいかも〜〜」
トム・ブラウン布川か?
「は?
やるわけないでしょ」
あの弱そうなアイドルが集まって合体したら最強なんですよって? 冗談もいいとこ。番組終了直後のスタジオで芸人たちが興奮の面持ちで健闘を讃えてくれたといえども、それは単に『アイドルがやらなそうだから』というギャップありきのスマッシュヒットに過ぎないのであって、実際に『やる』となれば決していい顔なんかされないはずだ。そこを履き違えてはならない。
《ほんっと私って何やってもダメで!
その私の起死回生の策がこれ!
無能系アイドル!》
薄汚れたテレビバラエティの文脈におけるアイドルというポジションは、言ってみればある一面では煌びやかな芸能界の力学、体制的利権の最たるものである。飢えたレジスタンスとしての芸人がそういう胡乱な存在を挫く。
屈折したルサンチマンや下卑た欲望の矛先。視聴者は芸人対アイドルの対立構造を介して、自己顕示欲の塊に見える笑顔をどうにか無価値化してほしいのだ。未完成でも商売になるってことを否定し、社会ってもっと厳しいものだと示したいのだ。
《どうして私を、台本通りに笑ってくれなかったんですか?
…………
もしかしてなんですが、樋口さんはずっと私のことを──
憐れんでいました?》
だからこそ、輝かしいアイドルが汗塗れた芸人の力学に引き摺り下ろされれば──哀れみ、励まし、尊敬、賞賛? 違う、なら優越感……いや──それは『笑い』となる。
アイドルは無垢で愚かで苦労も知らず、テレビでしゃべって笑われて、ろくに踊れなくてもちやほやされて、考えなく生きているだけでみんなに愛される、だなんていう何ら実態を鑑みないバイアスは、かつての私がそうであったように依然そこかしこにありふれている。
──手の震えが止まらない子、何度も深呼吸している子……オーディションが終わった後、大声で泣き出す子。失敗した、悔しい、情けないって。多かれ少なかれアイドルは、先の見えない残酷な戦いにその身が潰れるまで晒され続ける。それは芸人とどう異なるのだろう。地獄の下積みがあまりにも暗い行路だという点は何ら変わりないはずなのに。
人々はこう夢見る。燦然と輝く美しい星を愛でたいと。人々はこうも夢見る。憧れの星を失墜させたいと。このコンフリクトは消費者とショービジネスの蜜月な共犯関係を育んだ。歪んだバイアスはその産物だ。
『矢面に立つ商品』はその糊塗された価値によって持て囃されながらも弄ばれ、しまいには壊される。──欺瞞だ。
「お、チェインきた」
──程なく、プロデューサーからスタジオに到着したとのメッセージが入った。裏手のモータープールへ動こうとしたら、ディレクターや構成作家に話をしたいからと待ったがかかった。ということはチェインを受けて現況を把握したのだろう、製作陣に対してあの困ったような優男面で、ちょっとした苦言の一つでも呈しに詰め寄るのかもしれない。
ごく常識的に考えれば、バラエティ慣れしていない未成年アイドルにあの芸人の集中砲火は──よく見た光景でこそあるが──酷だ。だがここ芸能界はまさに常識の埒外なのである。
気になったのはフロアディレクターのカンペ。一番組あたりしばしば数冊にも及ぶスケッチブックは、ほとんどが収録前に準備される。現場で変更しうる内容や秒カウントなどの追記ができるよう欄を開けておき、台本の文面を可読性の高い太字ゴシックで印刷して貼っておいたりするのが一般的だ。フロアディレクターがトークの軌道を現場判断で決定していく場合の指示は、当然準備しようもないから収録中にリアルタイムで書かれていくこととなる。
ところが問題のターニングポイントにおけるカンペはまさしく印刷された書体であった。つまりノクチルの知らないシナリオが予めきちんと準備されていたということになる。このようにキャストをハメて陥れる作為は往々にしてあるが、芸能、殊にお笑い界隈の無法地帯ぶりを思えば詮ないことだろう。そうした露悪趣味的な優越感を擽る点においてこの番組の高視聴率は頷ける。そのプロフェッションは認める。どのみち私たちには自衛のしようもなかった。
もちろんこうした生放送リスクを予見することができた283プロダクションサイドの人間の管理責任は否定できない。私たちに仕事を持ちかける前に、フィルタリングしておく義務があろうはずですよね?
ただ最終的に出演する判断を下したのは他でもない私たち自身だったし、場に乗せられてとはいえ後に引きずるアドリブをカマす主体性についてしらばっくれるのは無理筋だ。何より番組への反抗で炎上し干された前科も私たちにはある。──もっとも、その成り行きについて悪びれるつもりは毛頭ありませんが?
「あ、プロデューサー!」
「待たせてすまない
みんな、行こうか」
労基法や自主規制基準に照らし合わせると、18歳未満のタレントの生出演は概ね22:00までというふうに定められている。今夜において時計は既に22:30を回っていた。プロデューサーが編成局制作部の面々と討議するイレギュラーのためだ。局から頂いたタクチケを使ってしまうかやや微妙なところではあった。
* * *
──環状線山手トンネルは景色が単調だ。中央自動車道に入った頃合いには、流れゆく夜灯の光芒に催眠でもかけられたか、既に3人は目を閉じて寝息を立てていた。ホームである永山に着くのはもうあと20分ほどだろうか。
言うなら今。見計らって切り出す。
「…………
バラエティ番組の件、申し訳ありませんでした
本当に余計なことを言いました」
「……
……確かにディレクターさんも、台本通りではなかったとは言っていた」
「…………」
「でも、そこからうまいこと話が転がって、想像以上の盛り上がりになったと言っていたよ
何より、円香に注目が集まった
実はあの番組をきっかけにしたオファーがかなり来ているんだ
結果的には成功と言っていい」
今の今でそんな『あの番組をきっかけにしたオファー』だなんて、きっと碌でもないものに決まっている。
樋口円香は強引に空気を作りさえすれば、無茶なフリに対する乗っかりが果たして可能である、というテレビ関係者向けのハウツー・プレゼンテーションだ、あれは。
「つまり進め方としては失敗ですよね
あの瞬間、私は発言の後始末を考えていなかった
もっと慎重になるべきだった
何より……
『M-1』に出る空気になった
……黙っていればよかった
ウケなんて、狙うんじゃなかった」
一つ思い出されるのは、番組終了後のチーフディレクターの反応だった。
立ち尽くしながら考え込むように手で口を覆いこちらを見据える様は、何やら背後に邪な思惑を隠しているように感じられてならなかった。一頻り遠巻きに私を視線で舐め尽くした後、現場に立ち会っていた構成作家を引っ張って何処かへと消えていった一連の動きはもう、次に向けて良からぬことを策謀している証左と考えて間違いない。
「……
正解はないよ
円香の言う通り、行動として不正解な部分はあったかもしれない
でも、正解な部分もあったと思う
……俺はそう思う」
「そうですか
あなたは、そう思うんですね
…………
今の言葉はプロデューサーとしての?
それとも、一般視聴者としての?」
(……評判だって──)
《いいキャラだなあ! 最高
いじりがいもあるし、バラエティもいけるんじゃないの》
《絵になりますよ、カメラの前だと本当に》
《なんというか、存在感があるし
いけちゃうんじゃないですか、『M-1』なんかも》
《────いいですね、すごく
カメラを向くと
カメラが息をし始めるんですよ……忘れてたみたいにね
そういう存在がいるんです
全部のんじゃう、全部のんで輝く────
────捕食者が》
(────上々だよ
……けど────
────合ってるのかな、俺
これでいいのだろうか
俺は円香の気持ちに寄り添えているのか
これは本当に円香が望む空なのか)
(………………いや
迷うのはやめよう
俺は信じたい
この先にある円香を)
「…………
そうだな……
なんて言えば──……
…………
そうか…………」
「……?」
「いや…… ずっと考えていたんだ
プロデューサーとしての自分が言えること、
円香の、ノクチルのみんなのためにできることを……
だけど……」
「…………」
「……あ、ああ すまん
今から言うことは俺の独り言だと思って、聞き流してもらえたら」
「…………」
「本当に、M-1に出てみる気はないか?」
「お断りします」
──────③ エントリーチケット
「しゃー
やるか」
「は〜い、
撮ります〜3、2、1──……」
雛菜がスマホを掲げている。被写体は透と、私と、机の上のエントリー用紙。
──……エントリー用紙。
結果から言うと私たちは、M-1グランプリへ出ることになった。
《嫌です》
《いいよ》
配信の後日、プロデューサーから面談が設けられた。車中での彼にみられた幾許かの逡巡は失せ、むしろ数日思い悩む間に確信を深めたようであった。
二つ返事の透に巻き込まれる形でなし崩されたわけだが、噴き上がってしまった世論の要請に対する調停が目的の一つだという殺し文句が、まあ一戦くらいは付き合ってやるかと背中を押したのも確かだ。
だがこの男にとってそんなことはただの建前に過ぎない。呆れるほど爛々とした期待の面持ちは隠し立てようもありませんし。そのお笑いへの前のめりな企画姿勢はなんなの? ミスター・どうでしょう。
《改めて今、ここでスカウトさせてくれないか……!》
《……は……?》
《見逃し配信を見たときにすぐわかった
……ダイヤの原石だって……!》
《は……?
ふざけないでください
近寄らないで》
《…………意味わかんないか》
《──疑問が先立って
私に何を期待しているんだろうと
まあ、わからなくても対応しますよ
アイドルには必要なことみたいですから》
《……あのさ、円香──
演ってみたいことは?》
《逆に聞きますが
あるように見えますか?》
《う、うーん…… あるという可能性に賭けて……》
《クレイジーな人ですね
勝算のない賭けに興じるなんて》
それだけではない。トドメとして提示されたのは、M-1に挑む私たちのドキュメンタリーを撮りたいという例の番組サイドからの企画書。やらかした収録の続編的な位置付けであることは明白だった。何やら暗躍的な企みが背後で動いているに違いないと予感していたが、件の番組ディレクターはやはり弊社プロデューサーを絡めとる寝技を用意していたわけだ。
そして企画書を読み進めるうち、私は一連の陰謀の導線を捉えつつあった。例の番組はネットメディアのオリジナル番組に過ぎず、局を跨ぐM-1本番組とは何ら連携し得ない別物と思っていたのだが、その理解は正しくなかった。
そもそもこの配信プラットフォームの出資者は『テレビ朝日』と『サイバーエージェント』なのだという。前者はM-1を主催するABC系列局であり、後者はM-1の筆頭スポンサー『Cygames』の親会社。放映権の兼ね合いや局間の素材引き渡しについて話が簡単過ぎるのはそのためであった。他の在京キー局だとこうはいかない。
私を呆れさせた点はまだある。
企画書には取材対象である『浅倉透』と『樋口円香』だけでなく、密着取材スタッフの名前があった。それを見て私は凍った。
──『ディレクター:福丸小糸』
──『カメラマン:市川雛菜』
……どういうこと?
つまり、こうだ。私たちが出場するステージの裏側なんかに付き従って、小糸が収録の段取りや指揮をし、雛菜が手持ちの機器でフッテージを撮れ、と。
効率的というか、横着というか、本来ならテレビマンがやるべき仕事を賃金の安い若手に引っ被せる構造搾取そのままだ。『ゴッドタン』の『気づいちゃった発表会』で吉住がこうした窮状をネタにしていた一幕があったのを思い出した。働き方改革? 知らないけど。
ただしこのケースに限っては理にこそかなっている。何より顔の知らないスタッフがひっきりなしに周囲をうろつくストレスを考えると、断然こっちの方がありがたい。
ともかく雛菜の撮ったフッテージは企画へ用いられつつ大会関連番組の素材としても使用されるのだという。だから基本的には余人の干渉なく私たちが私たちで取り組んでいればいいだけ。『アナザーストーリー』の密着だとかに煩わされなくていいことは素直に喜ばしい。
そして事務所側からすれば、センシティブな部分についての編集権を予め握れている利点は大きい。企画と大会側からすれば、現役アイドルが手ずから撮ったリールというヒキを得つつバッサリ省エネできる。三方得だ。この妥結点にはあからさまにミスター・ネゴシエーターの粘りが現れているように思える。
それはいいのだが、さて──私たちがM-1へ挑戦する第一歩目は、エントリー用紙を記入する今ここから始まる。
透がペンを執り、雛菜が録画ボタンをタップする。
* * *
○REC 00:00:00
────(Tap!!)────
●REC 00:00:01
浅倉「どうする? コンビ名」
樋口「何、いきなり
そんなの適当に名前並べとけばいいんじゃない」
浅倉「あー」
樋口「浅倉透と」
浅倉「樋口円香で」
樋口「……『とおるまどか』とか? 知らないけど」
浅倉「いいね、なんか
『遥か彼方』みたいで
あ、『おおうなばら』とも似てるわ、『とおるまどか』」
樋口「語感の問題?
……あと私別に詳しくないんだけど
いるでしょそれ、多分既に」
浅倉「え」
樋口「おおうなばら」
浅倉「はるかかなた」
両者「「大海原はるかかなた」」
樋口「いるって、なんかかなり近いとこ掠めてる気がする」
浅倉「ふふっ、いそう
漫才してそう、めっちゃ」
樋口「全然いる、やめよう」
浅倉「あ、じゃあさ、四文字で考えよ
流行るらしいよ、四文字の略語って」
樋口「ふうん、一理ある」
浅倉「ほら、あれだ、『ノクチル』とかさ」
樋口「流行ってる四文字の筆頭みたいに言うな」
浅倉「させてもろてまーす、筆頭 イエー」
樋口「不遜すぎる、変なジェスチャーやめろ
まあ略語なのはそうだけども」
浅倉「でしょ」
樋口「そんな言うなら何の略か教えてみてよ、『ノクチル』」
浅倉「しゃ 余裕
……あー ほら
なんか……
…………ふふ」
喋りながら用紙の欄外でインクの出を確かめている透をよそに、私はぼんやりとフッテージをショートコーナーに落とし込む編集について仮想していた。
BGMなどはどうなるだろう。例えばノーカットリールの頭から『いつだって僕らは』を流していたとしたら、1stサビの『光集めて』ぐらいまで来てしまっているタイミングが今だろうか。
……いや、まず集めるべきは映像素材だ。自分で振っておいてなんだが、話が脇道に逸れ続けている現況は好ましくない。肝心の記入欄はまだ白いままで。
●REC 00:01:00
樋口「何かは思いついといてよ」
浅倉「ノ……飲み物の」
樋口「あいうえお作文じゃないのよ
しかもスポンサー意識してんな多分」
浅倉「ク…………
……んー」
樋口「いや経っちゃいけない時間が経ってる」
ふと、机の上にペンが転がる──刹那、ぞくりと寒気がする。
机から目線を切ると、目と鼻の先の距離で透が私を見つめている……笑った?
それは、何? どういうつもり? 試しているような、その沈黙は何?
──いや、その瞳の奥には何もない。私は、知ってる。
浅倉「何も思いつかん、ふふ」
樋口「聞いた私が馬鹿だったわ
コンビ名は四文字で『とおまど』
これでいいでしょ、決まり」
浅倉「グー
でもさ、これって立ち位置? あるのかな、関係」
樋口「名前順に立ってなきゃってこと?」
浅倉「そう
私、右?」
樋口「何?」
浅倉「私、左?」
樋口「口裂け女のスイカ割りか」
浅倉「こっちかも」
樋口「ちょっと、うろうろしないで」
浅倉「あ、待って
前があるのか じゃあ逆?」
樋口「は?」
浅倉「後ろから右なら、前から左で、左だよね、始まるのが
来るのは右だけど」
樋口「何?? ずっとわかんない」
浅倉「いや、だからさ
右から来るじゃん?
それは左なんだけど、その時樋口は右でさ
でも樋口を逆にしたとき、右ってこと 私も」
樋口「無理、もう迷子」
浅倉「来るっしょ、どうも〜〜って」
樋口「どうも〜〜が何でこんなぐちゃぐちゃになんの
霞ヶ関のPDFか」
いつの間にか自然と、二人してソファから立ち上がっていた。透が空間を使ってぐるぐると回り出す。
──転がる。転がり始める。
透の語彙ではある。透の文法でもある。だけど何かがおかしい。冷や汗が背筋を撫でる。
スピードに乗っている。ワードのブローがある。展開がある。
────『インプロビゼーション(即興漫才)』? まさか。しかし……
●REC 00:02:00
浅倉「あ、でもあれか
後ろから来ることもあるか
逆なら前だけど」
樋口「その逆ってのやめない?
難易度上げてんのよそれが」
浅倉「私が右か後ろからどうも〜〜したらさ
来るじゃん 左か前の方に
でも、左か前で、右か、後ろ?
あー 後ろではないか、手前か
右か手前なんじゃない? 逆だと」
樋口「はあ???」
浅倉「──右でしょ 左が」
樋口「…………
……今何が起こったの??」
(私は、わかる
透が何を見てるのか
私は、知ってる
透が何を秘めてるのか)
透は透のままだ。いつも通りの延長だ。しかしこの奇妙なグルーヴは何だろう。
それには一つ思い当たることがあった──今、私こそが、透のダイナミズムに棹さしている張本人だということ……
いつだって私は、透が引き起こすリスクを恐れて不確定要素の兆しを早め早めに切り上げてきた。それは普段『浅倉透』の伸びやかな飛跳を制約していたといっていい。
ところが、今私がやっていることは何? 私は透を煽っていないだろうか。意識的に即時性を高めたツッコミ、補足、誘導、乗っかりで、透に拍車をかけていないか。現に転がる礫は連鎖し、岩塊に育ちつつあった。
透自身に漫才をしている自覚などないのだろう。迸るビートが漫才じみているというだけで。
だったら、一つ一つ合わせていこう。パズルみたいに繋げていこう。
乗りこなしてやる!!
浅倉「『まどとお』、かもしれないでしょ」
樋口「…………
……あぁ
お客さん側から見て浅倉と私の順で左右に並んで『とおまど』でも
私たち側から見ると並びが反転するから『まどとお』なのかもってこと?」
浅倉「グー 完璧」
樋口「……ん」
浅倉「ふふ、変なジェスチャーやめろー」
樋口「それで、『まどとお』ね」
浅倉「……ふふっ
老舗の看板かーって 『まどとお』」
樋口「書き方逆なやつ、まあ見かけるけど
だったら『とおまど』の逆って『ど、ま、お、と』じゃない?」
●REC 00:03:00
浅倉「居酒屋だ」
樋口「うわ……」
浅倉「絶対あるじゃん、個室居酒屋『土間音』」
樋口「あるわ」
単なるボンクラな天然。表層的には多勢がそういう見方をせざるを得ないだろうし、実際言葉を選ばず本質を形容するとなれば、そうでしかないとは思う。ところが──
(そこには透がいた
そこで、はじめて、私は見た
何を、と問われると難しい
ギャグではない、ネタでもない──
──目に見える何かではない何かを見た)
演技と作為を一切感じさせないアドリブの眼前性。偶発の煌めき。その場に在るだけで何かが起こる気がする、天性の華!
(わかった
あれが『面白い』ものだ)
──ナチュラルなのである。ナチュラルすぎるのである。下馬評を優に覆す、確かな脚力と意外性を兼ね備えた精悍なサラブレッド……巧みに手綱を操りさえすれば、どこまででも行ける!
(わかってしまった
私が欲しかったのは、あれだ)
浅倉「筆文字そう、メニュー」
あとやかましい格言貼ってそう、トイレに」
樋口「高校生が居酒屋あるあるはNGでしょ──
──夜間シフトの時給1260円そう
あと都条例に違反した客引きしてそう」
浅倉「……らっしゃーせー!!」
樋口「うるっっさ ここでコントイン? 斬新だわ
一名でお願いします」
浅倉「はーい一名様ご案内
お席は入っていただいて、奥?
左か前の右で、手前です 右か後ろの」
樋口「迷子にさすな 注文いいですか」
浅倉「ラストオーダーとなっておりまーす」
樋口「飲み物の?」
浅倉「飲み物の
ふふっ あははっ やばい、さっきのじゃん
メニューはポカリのみとなっておりまーす」
樋口「客怖がるでしょ、メニュー開いて筆文字ポカリオンリーは」
浅倉「あと、こちらお通しの森永DARS」
樋口「とことんスポンサー意識してんな」
浅倉「ノクチルシーソルト味」
樋口「ない味勝手に出すな
大海原の遥か彼方を感じるわ、もういいです」
浅倉「しゃーす、創作和食バル『とおまど』っしたー」
樋口「いやコンビ名だけで覚えて帰ってください」
構成なんてめちゃくちゃだ。秩序もない、とりとめもない、単なる井戸端の駄弁り。そこにあるのは一瞬一瞬の思いつきで突き進むドライヴ感のみ。こんなものは漫才なんかじゃない、はずだ。もとより漫才としてしゃべくっている訳でもない。
大海原を知らないアマチュア特有の思い上がり。ティーンの悪ノリ。私たち最強だよねっていう、お友達の仲良しごっこ。打てば響く手応えも、風を切るような疾走感も、何もかもが熱に浮かされた束の間の白昼夢。
なのに透は、私に笑いかける。
──違う、勘違いするな。
浅倉「どうも、あーしたー
──みたいな? ふふっ」
樋口「みたいなね」
●REC 00:03:59
────(Tap!!)────
○REC 00:04:00
* * *
「「……………………!!」」
「やは〜!
漫才だ〜〜〜〜〜!」
「はぁ……
い、今の……
だ、だいぶ 『できてた』よね……!」
「……雛菜、なんで止めたの
まだ何も『始まってない』
空欄のままでしょ」
「へ〜〜〜〜??
すっごくいい感じで『終わってた』よ〜〜?」
「うん、そうだよね……
……えっ、ええっ!
うそ……! 4分ちょうど……??」
「え? あー
……4分間の筋肉ってやつ?」
「ん〜〜
あ、そうか〜
曲も4分くらいが多いもんね〜」
「…………」
《…………その
教えてくれるなら、でいいんだ
円香が漫才をやる理由が知りたい》
《……》
《透と一緒に漫才を演りたかった────
……それだけか?》
《……今さら理由が必要ですか?》
《これから透と一緒に頑張ってもらうからには知っておきたいと思った
スカウトした時にも話したように
俺は円香のことも
円香の望む空へ羽ばたかせてあげたいと思っているから》
《……あなたは勘違いをしているようですが
夢とか目標とか、ありません そんなもの》
《……》
《仕事であるからにはきちんとやります ほどほどに
ですからどうぞ
あなたのその熱意は、他のアイドルに注いでください
勝手に期待するだけして後からがっかりされても困るので》
《……円香》
《……提案を取りやめたいというなら
それでも構いません》
《いや、そのつもりはない
夢や目標がなくたって全然構わないよ
円香がいつか、飛びたいと思った時のために
翼をあげたいんだ》
《…………》
《漫才のこともこれから知っていけばいい
違うと思えばやめたっていい
まずはやってみないか?
透と一緒に》
まっさらだと思っていたエントリー用紙の記入欄にいつの間にか書き込みがあるのを見つけた。プロアマ欄の前者にチェックがついている。透のやつ……
──芸人には芸人の、アイドルにはアイドルの職分がある。私は少なくとも分を弁えている。
ペンを拾い、改めてプロの項目を丸印で囲み直したのは不遜が故ではない。隣に事務所欄が併記されているからに過ぎない。私は冷静だ。
「最初は、しゃべってるだけかと思ってた……
でも、……でも、だんだんゾクゾクして……
こんな……すごい…………」
小糸がずり落ちるようにその場でへたり込む。
「やっぱオーラ?
出ちゃってたか
うちらの漫才魂」
「やめて」
「困ったナー
全然意識してないんだけどナー」
「やめてそれ」
──芸人には芸人の、アイドルにはアイドルの職分がある。私は少なくとも分を弁えている。
(なんか……あっつ……)
だが、この児戯に等しい掛け合いに対して、はしかのような火照りを、私は────
──────● ピックアップコンテンツ(0)
○REC 00:00:00
浅倉「どうする? コンビ名」
樋口「何、いきなり
そんなの適当に名前並べとけばいいんじゃない」
浅倉「あー」
樋口「浅倉透と」
浅倉「樋口円香で」
樋口「……『とおるまどか』とか? 知らないけど」
浅倉「いいね、なんか
『遥か彼方』みたいで
あ、『おおうなばら』とも似てるわ、『とおるまどか』」
樋口「語感の問題?
……あと私別に詳しくないんだけど
いるでしょそれ、多分既に」
浅倉「え」
樋口「おおうなばら」
浅倉「はるかかなた」
両者「「大海原はるかかなた」」
樋口「いるって、なんかかなり近いとこ掠めてる気がする」
浅倉「ふふっ、いそう
漫才してそう、めっちゃ」
樋口「全然いる、やめよう」
浅倉「あ、じゃあさ、四文字で考えよ
流行るらしいよ、四文字の略語って」
樋口「ふうん、一理ある」
浅倉「ほら、あれだ、『ノクチル』とかさ」
樋口「流行ってる四文字の筆頭みたいに言うな」
浅倉「させてもろてまーす、筆頭 イエー」
樋口「不遜すぎる、変なジェスチャーやめろ
まあ略語なのはそうだけども」
浅倉「でしょ」
樋口「そんな言うなら何の略か教えてみてよ、『ノクチル』」
浅倉「しゃ 余裕
……あー ほら
なんか……
…………ふふ」
樋口「何かは思いついといてよ」
浅倉「ノ……飲み物の」
樋口「あいうえお作文じゃないのよ
しかもスポンサー意識してんな多分」
浅倉「ク…………
……んー」
樋口「いや経っちゃいけない時間が経ってる」
浅倉「何も思いつかん、ふふ」
樋口「聞いた私が馬鹿だったわ
コンビ名は四文字で『とおまど』
これでいいでしょ、決まり」
浅倉「グー
でもさ、これって立ち位置? あるのかな、関係」
樋口「名前順に立ってなきゃってこと?」
浅倉「そう
私、右?」
樋口「何?」
浅倉「私、左?」
樋口「口裂け女のスイカ割りか」
浅倉「こっちかも」
樋口「ちょっと、うろうろしないで」
浅倉「あ、待って
前があるのか じゃあ逆?」
樋口「は?」
浅倉「後ろから右なら、前から左で、左だよね、始まるのが
来るのは右だけど」
樋口「何?? ずっとわかんない」
浅倉「いや、だからさ
右から来るじゃん?
それは左なんだけど、その時樋口は右でさ
でも樋口を逆にしたとき、右ってこと 私も」
樋口「無理、もう迷子」
浅倉「来るっしょ、どうも〜〜って」
樋口「どうも〜〜が何でこんなぐちゃぐちゃになんの
霞ヶ関のPDFか」
浅倉「あ、でもあれか、後ろから来ることもあるか
逆なら前だけど」
樋口「その逆ってのやめない?
難易度上げてんのよそれが」
浅倉「私が右か後ろからどうも〜〜したらさ
来るじゃん 左か前の方に
でも、左か前で、右か、後ろ?
あー 後ろではないか、手前か
右か手前なんじゃない? 逆だと」
樋口「はあ???」
浅倉「──右でしょ 左が」
樋口「…………
……今何が起こったの??」
浅倉「『まどとお』、かもしれないでしょ」
樋口「…………
……あぁ
お客さん側から見て浅倉と私の順で左右に並んで『とおまど』でも
私たち側から見ると並びが反転するから『まどとお』なのかもってこと?」
浅倉「グー 完璧」
樋口「……ん」
浅倉「ふふ、変なジェスチャーやめろー」
樋口「それで、『まどとお』ね」
浅倉「……ふふっ
老舗の看板かーって 『まどとお』」
樋口「書き方逆なやつ、まあ見かけるけど
だったら『とおまど』の逆って『ど、ま、お、と』じゃない?」
浅倉「居酒屋だ」
樋口「うわ……」
浅倉「絶対あるじゃん、個室居酒屋『土間音』」
樋口「あるわ」
浅倉「筆文字そう、メニュー」
あとやかましい格言貼ってそう、トイレに」
樋口「高校生が居酒屋あるあるはNGでしょ──
──夜間シフトの時給1260円そう
あと都条例に違反した客引きしてそう」
浅倉「……らっしゃーせー!!」
樋口「うるっっさ ここでコントイン? 斬新だわ
一名でお願いします」
浅倉「はーい一名様ご案内
お席は入っていただいて、奥?
左か前の右で、手前です 右か後ろの」
樋口「迷子にさすな 注文いいですか」
浅倉「ラストオーダーとなっておりまーす」
樋口「飲み物の?」
浅倉「飲み物の
ふふっ あははっ やばい、さっきのじゃん
メニューはポカリのみとなっておりまーす」
樋口「客怖がるでしょ、メニュー開いて筆文字ポカリオンリーは」
浅倉「あと、こちらお通しの森永DARS」
樋口「とことんスポンサー意識してんな」
浅倉「ノクチルシーソルト味」
樋口「ない味勝手に出すな
大海原の遥か彼方を感じるわ、もういいです」
浅倉「しゃーす、創作和食バル『とおまど』っしたー」
樋口「いやコンビ名だけで覚えて帰ってください」
浅倉「どうも、あーしたー
──みたいな? ふふっ」
樋口「みたいなね」
○REC 00:04:00
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