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アスペルガー症候群の所見

※診断前の所感は以下の記事にあります。

※以下は診断後の2010年当時での見解です。

先日の木曜日に精神科で二回目の診察を受け、結果、アスペルガー症候群(AS)の所見を頂いた。

材料としては生育歴についての私の証言と、親の証言、及び知能テストの結果、現在私が感じている困難についての意見である。

ASの所見についての私の反応

自分としては現段階では特に何も感じない。私は「近視」で物心ついてこの方の「鼻炎」で軽度の「色弱」でもある。それに加えて「AS」がつけ加わったという感じである。

知能テストでは、最低スコアが平均をやや下回る程度に過ぎないが、最高スコアとの開きが顕著だったことは、10ヶ月程度前に別の病院で受けてわかっていたことだし、或る程度客観的な数値であろうと納得していた。また、生育歴についても今回「ここまで客観的に詳しくわかる人は珍しい」と言われたぐらいで、私自身には明らかなものを開陳したに過ぎないことであった。実際、伝え聞いた話では診断をもらうまでに何ヶ月もかかる方もいるという。恐らく、診察二回目でASの所見を頂くのも珍しいのだろう。

つまり、私自身の自己認識は正確で詳細であることが証明されたわけで、それがたまたま現在の精神医療の状況に照らして「アスペルガー症候群」に分類されるようなものであったに過ぎないわけである。

cf.[twitter上の反応まとめ]アスペルガー症候群の所見とそれに対する反応

ASであるかないかで対応の仕方が異なるのだろうか?

私が事前に二三の書籍などを参照したところでは、ASであるからといって特別な投薬やプログラムによる改善を受けられるようには思えなかった。改善のための特効薬はなく、例えば障碍者手帳のような何らかの保障もなく、トレーニングにしても、私自身が仕事術の本やライフハックなどで目にするようなものと大差があるようには思えなかった。自己改善のためのノウハウなら知識的にはいろいろ知っているし、また、前職の会社でもかなり実践してきた(させられた)ので、果たしてASならではの改善方法があるのか、またはあっても自分にとって有効なのかは現在でも懐疑的である(具体的な提案のレベルにならないと何とも言えない)。

今回の診察でも、ASの所見の経済的生活的な意味について懐疑的である旨を述べたところ、少なくともASであることによって有効な「障碍者就労枠」が存在するとの示唆を頂いた。

今後はカウンセリングなども受ける予定だが、私自身は診断以前から未だ自信喪失状態にあるため、具体的なことを話し合わないと経済活動について前向きになれるかどうかも不明といった段階である。

ASの社会的意味とは?

私は上記にて「私自身はASであることに感じることはない」と言ったが、しかし、社会的な文脈を考慮にいれなければ、という但し書きをつけなければなるまい。すなわち、ASの所見によって私自身が何か変わるというよりも、私の周囲が認識の枠組みを改めざるを得ないということなのである。

具体的には次のようなことは周囲も私も含めて意識せざるを得なくなるかもしれない。たとえば周囲が私の軽率な発言を非難したとき、私が「ASだから致し方なかろう(笑)」などと開き直ることが考えられる。このとき、当事者である私の発言がどの程度免責されるかも問題であるし、大きく言えば、それら一連の遣り取りによって、ひょっとしたらASに対する偏見が助長される恐れも出て来るであろう。

なお、私個人としてはASを持ちネタにして当事者としての可能性を切り開くのも一興である程度にしか思っていない(自分がASであることに深く悩まれている方には心外かもしれないが)。

弱者について

私は社会的に認定された「弱者」は利権であると捉えている。つまり、「弱者」は別の意味では手厚く保護を受ける強者、エリートでもある。障碍者という「弱者」についてもそうである。

しかし、障碍者にもより大きな保障を受けられるものとそうでないものがいる。つまり、認定される障碍の度合いに応じて特典もグラデーションするわけである。このグラデーションの中で、明らかに損なのは、あまり弱くない「弱者」である。つまり、障碍としてあまり重度でないと認められる場合には「障碍者」の枠の中に入るにも関わらず、ほとんど特典が受けられないわけである。たとえば、障碍者就労枠にしてもやはり限られた枠であることには変わりなく、障碍が明白で重度な障碍者が優先され、軽度なものは優先されないであろう。実際、私は軽度の色弱であることによって何の特典も受けることができない(もちろん生活に支障を感じない程度だからそうなのだが)。

つまり、中途半端な「弱者」が一番損だ、ということである。

ASも生活にどの程度差し支えるかによって、或いは本人の能力の分布の仕方などによって困難の度合いは異なるであろうし、当然私よりも深刻なケース(たとえばASで苦境に陥ったことによる二次障碍でうつ病などの他の精神疾患を併発している場合)も多いだろう。

自分が「ASとして」損な面があるとしたら、きっとこの中途半端性にあるだろうと思う。

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