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失敗と成長 failure & growth

我々は自己をひとつの主体としてまとめて認識するときに「自己相似形」の比喩あるいはイメージを利用することがある。なぜならば、「自己相似形」の関係にある二つの幾何図形は辺の比率や角度が同じであるという共通点を持ちながらも、その大きさにおいては相違点をも持ち合わせているからである。このような自己相似形という関係の特徴から類推して、我々は例えば、「20年前の自分よりも今年の自分の方が進歩はしている。言い換えれば大きくはなっているという相違点はあるが、一方で20年前の自分と図形で言えば比率や角度に相当するような好き嫌いや方法論にはあまり違いがない。すなわち共通点もある」といった自分自身に対する自己解釈をおこなうことができる。したがって、自分自身の共通点と相違点という変化をまとめて捉えるときに自己相似形のイメージは利用可能 available であり、しばしば利用しやすいものとして我々の手元にあるのである。

人生における成功と失敗についても、このような自己相似形の比喩で解釈することもできる。成功と失敗とは、例えば銭儲けできたかできなかったか、学歴を築けたかどうか、人間関係をうまく進められたかどうか、日々のコミュニケーションが円滑だったかどうか、スポーツで勝ったか負けたかなどいろいろある。それらの成功と失敗についても、「かつての自分と同じだから成功できたのだ(失敗してしまったのだ)」と解釈することもできる。そして、将来にそれを延長して、「仮にこれから成長する部分があっても肝心の部分(角度や比率に相当する不変の部分)が変わらないのだから、自分は成功を継続できる」とか「たとえ成長しても失敗し続けるに違いない。向いてないのだ」という解釈を結論としてしまうこともできる。

だが、このように自分自身の人生を図形的に解釈していることがあまりにもクセになり過ぎて、あるいは別の言い方をすれば、こうした言い訳が習慣化してしまって、自分が自分自身を三角形や六角形のようなものだと単純化して捉えていることを忘れてしまうのは誤りだろう。なぜならば、もちろん人間は図形そのものではないし、そもそも人間の縮図とされる他の何物でもないからである。それは、たとえて言えば地図が頼りになることはあっても、地図は現地そのものではないのと同様である。現地で経験できる事情が更新されているのに旧い地図にこだわって進んでも、意図した結果は得られないだろう。したがって、自分自身の人生の変わる部分(辺の長さ)と変わらない部分(角度や辺同士の比率)とが、本当に今までと同じなのかどうか、ときどき疑ってみたほうがよい。なぜならば、自分が三角形から四角形に変化しているのに、つまり変わらないと思い込んでいた部分が不可逆的に変わっているのに、いつまでも三角形のつもりでいたら滑稽だからである。

ここでは図形の話ばかりしたから、「私は自分自身をそのように単純に解釈したことなんてない」とあなたは思うかもしれない。ところが、幾つもの辺や角度を持つ平面図形どころか、実際には多くの人が年収や年齢、はたまた性別や世代といったひとつかふたつの数で自分のことを単純化してしまって、それを言い訳にやりたいようにやり、イイタイコトを言っているのがこの世間なのである。

(1,351字、2024.03.07)


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