自己相似形のシンプルさとその限界
私達は自己相似形を好み、見つけたがる
自己相似形 self-similar shape は理解しやすいものだ。なぜならば、自己相似形はシンプルだからである。
(1)例えば、昔のロシアの軍隊のマニュアルでは、どこの軍隊でもそうであるように定められた部隊編成について記述があるが、小隊長と小隊の関係は、中隊長と中隊(それは幾つかの小隊から構成される)の関係のようなものであり、また大隊長と大隊(それは幾つかの中隊から構成される)の関係のようなものだと記述されていて、実際そのように教えられていたのだという。なぜそのように小規模な組織のあり方と、それらを組み合わせたもっと大規模な組織のあり方が類似したものだと教えられていたのかと言えば、その方が小隊の指揮を学んだ者がすぐに中隊や大隊の指揮に慣れることができ、小隊では通用するが大隊規模では通用しないようなことを考えなくて済むようにされているからである。おそらく、そこまで指揮官を教育する余裕が当時のロシア軍には無かったからだろう。
また、(2)例えば私たち一般にある心理的な傾向として実際は一回的な出来事の連なりでしかない歴史のなかに、小さな反復や大きな反復を見出しがちであるという事実がある。好景気と不景気のような大きな波と同じような波が好景気の中でも小波として現れ、また不景気のなかでも小波として現れる。実際そのように観測して、「好景気と不景気、良いことと悪いこととは入れ子状になっているのだ」と考えがちなのである。
あるいは(3)例えば、元素を発見してその中に陽子と電子があることに人が気づいたときも、陽子と電子との関係は重量の大きな星の周りを衛星や惑星が周転しているようなものではないかと考えた人たちがいた。このアイデアはそれ自体魅力的だっただろう。なぜならば、ミクロな世界の原理を追求していったときにマクロな世界と同じ運動原理の縮図がそこにあった!という解釈は何か神秘的な一致をほのめかしているし、2つの世界に共通する特徴は世界の普遍的あるいは根本的原理に根ざすように解釈できるからである。しかし、後世研究が進むと、ことはそう単純ではなく、原子と陽子の関係は地球と太陽のようなものとは異質であるとわかってきたというのが実情であるようだ。
いずれにしても、私達は想像力たくましく、豊かな類推能力を持っていて、そうであるが故に、物事が自己相似形であって、小さな関係の延長に大きな関係があって、大きな関係は単に小さな関係の拡大に過ぎないか、あるいは反対に小さな関係は大きな関係の縮図なのだという解釈に引き寄せられやすいものなのである。
自己相似形で考えると失敗することもある
確かに、自己相似形的に考えてうまくいくときもないことはあるまい。中隊の指揮を取るように大隊の指揮を取ることもできるかもしれないし、大波と小波とにまったく共通点が無いこともないだろう。原子の仕組みを理解する模型として太陽系を思い浮かべるところから入って修正を加えていくことも教育的効果があるかもしれない。しかし、実際には一定の規模を超えると(つまり、大きくなりすぎたり小さくなりすぎたりすると)、相似形で考えることは失敗につながる。或る転換点を超えると自己相似形が成立しなくなるのである。
(1)例えば、軍隊で言えば、数万人を擁する師団以上の部隊というのは原則として自給自足が可能な部隊単位であり、それらを補給も考えた上でうまく動かすには小隊や中隊での経験(例えばそこではメンバーの士気や隊長の演説の方が補給よりも重要かもしれない)は必ずしも役に立たない。だから、上級の軍人は士官学校に入り直して上級の戦術や戦略を学ぶことを求められるのである。また、(2)歴史は繰り返さない。なぜならば、人間の歴史はごく短いもので法則性(必然性)よりもむしろ偶然性によって大きく影響されるからである。別の言い方をすれば、繰り返すようなものは歴史とは呼べないのである。まだしも、進化論のような大きなスケールでの生物種の変化の方が数理的な法則化が可能であるが、進化論も完全に解明されたわけではない。それは当然、進化という現象がシンプルではないからだろう。「個体発生は系統発生を繰り返す」といった格言は深遠に聞こえるが、実証的なものではない。
(3)陽子と電子の関係は、古典力学が通用する太陽と惑星の関係とは異質なものであった。陽子は陽子の周りを「回っている」と比喩的に言われることはあっても、それは確率的に存在する電子の「雲」のようなものであって、大きな天体の周りを回る衛星や惑星がそのように言われることは決して無い。こうして、ミクロの領域の探求が実はマクロの領域の探求にも接続し得るのではないか?というアイデアは大変魅力的ではあるが、断念せざるを得ないものとなったわけである。
そして、非形式論理学の虚偽論で言えば、分割の誤謬と合成の誤謬というペアも指摘されている。例えばヨウカンを切り分けるという場面ならば話は簡単だ。500gの羊羹の味も250gのヨウカンの味も変わらない。500gを二人で分けて食べてもヨウカンはヨウカンだし、250gのヨウカンを一人で二つ食べてもまあ、大体二倍の満足感(効用)が得られる。これは「一切れのパンでも無いよりはマシ」という考え方に近い。パンは同質的で二つに切っても三つに切ってもパンだからだ。一方、「半分の赤ん坊はいないより悪い」という格言もある。なぜならば半分の赤ん坊とは遺体のことであり、分割によって掛け替えの無い価値が失われているし、また半分の赤ん坊の遺体を継ぎ合わせたところで一人の赤ん坊に蘇生すると考えるのも馬鹿げているだろう。
したがって、特定の均質性がキープできる一定の幅においては自己相似形で考えて、あるいは線形的に考えて差し支えないのだが、とりわけ複雑な工程を含んだ事象や多様な成分を含んだ有機体を取り扱うときは、自己相似形的な発想は「分割の誤謬」や「合成の誤謬」というかたちで現れてしまう。だから、この自己相似形と非自己相似形という二種類の思考の間で、いったい我々はどこで脚を踏み外すのか、その境界線を見極めることが重要なのである。
(2,535字、2024.03.06)
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