見出し画像

彼女の名前を僕は知らない《短編小説》

近くにあると、中々足を運ばない…そんな場所ってないだろうか?
僕にはある。
家のロフトから見える、蔦が絡まっている建物。
様式は、西洋館みたいな感じだ。

引越してきてから半年程経つが、いつも夜灯りを消した時、朝目が覚めた時に必ずそれを確認する。

今日は仕事は休み、と言っても僕は家で仕事をしている訳だから、ちょっと息抜き。
作業に行き詰まっていた。
中々構想が浮かばずに、頭も心も悶々としていた。

何となく行ってみたくなった、あの西洋館に。

着いて扉を開けると、中は意外にも仄かな灯りがついていた。
それは人工的な明かりではなく、本物の燭台が照らす灯りだった。

ゆらゆらと自分の影が深緑の、柔らかなカーペットに揺れている。

受付に入場料を渡し、パンフレットを貰った。
そこは絵画だけが飾ってある、美術館だった。

中世ヨーロッパだろうか…。
仕事柄、絵は沢山観てきたが、どの絵もマイナーな作家ばかりだった。

ゆっくり歩みを進めて行った時、僕は一枚の美しい絵に惹かれた。
題名も作者も年代も不明。

少し斜め下を向いた彼女の髪はブロンドで、肌は白く柔らかそうだ。薄く開いた唇は柔らかいピンクをしている。
何より惹き付けるのは、その瞳だ。青と緑が入り交じった、宝石の様な瞳をしていた。
けれどその瞳は、伏し目がちで今にも涙が零れて来そうだ。

「どうしてそんなに悲しそうなの?」
僕は心の中で問い掛けていた。

その時背後から、「私もこの絵が好きなの」
急に声がして驚いた。振り向くと、混血なのか淡い髪の色に瞳は薄い茶色の、僕より歳下らしい女の子がいた。
女の子と言っても二十歳は越えてるだろう。

ただその雰囲気がどこかで見た様な気がしてならなかった。
「君…前にどこかで会った事ある?仕事関係とか」
「え?嫌だ、何ですか急に」と言って彼女は笑った。
その屈託のない笑い声に、僕の心は和んだ。

それから毎日の様に美術館に通った。
二人の彼女に会いたくて。
絵画の中の儚げな彼女と、現実にいる彼女。
正反対に見える二人だけど、どこかが交差している様に思えてならなかった。

彼女とは会える日もあれば、数日数週間会えない日もあった。
気まぐれに現れる、そんな感じだった。

「私、そろそろ新しい場所へ行かなきゃ行けないの」
彼女がそう口を開いた。
「仕事関係?」
「うーん…まぁ、そんな感じ」
「そっか…寂しいな…君に逢えなくなるのは」
僕の顔を下から覗き込み、「ほんと?」と言って、何故だか嬉しそうに少し笑った。

「きっとまた…会えるわ」
別れ際に彼女はそう言って、僕の唇に自分の唇を重ねた。

次の日、また例の絵を観に行ったら、もう飾っていなかった。
僕は慌てて受付に聞きに行った。
受付係は、怪訝な顔で少々お待ちください…と言って、その場に僕と向かった。

「こちらに飾ってあった、という絵ですか?」
「そうです。あの、女性が俯き加減で…瞳はブルーグリーンの美しい…」
受付係が益々怪訝な顔でこう言った。
「その様な絵はこの美術館には置いてありませんし…この場所は元から何も飾っておらず、明日から飾られる予定の場所です」

僕は混乱しながら家へと帰った。

混乱が治まらないまま筆を取り、三日三晩寝ず食わずのまま、キャンバスに絵を描き続けた。

出来上がった絵を見て僕は驚いた。
そこに居たのは、二人の彼女を重ね合わせた人物だった。

「あ…」
唇に自然と目が行く。
彼女の唇と、絵に居た彼女の唇は瓜二つなのだ。

僕はキャンバスを抱きしめながら、天窓から射し込む光を一身に受けていた。

彼女達のおかげで
また絵が描ける…。 きっと二人は……

[完]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?