体験する言葉と生きる
続けて記事を投稿していると、何かを書かないと、という小さな恐れが湧いてくる。そこに何があるのか自分に問うてみると、人とのつながりを大事にしたい、があった。大丈夫、書かなくなっても、つながりは、なくならないから。
出会った人に、話をしようと伝えた。やってみたいことを表明するという感じで。何かを得ようとかではなくて、味わいたいことを創り出す感じで。会って、いのちがあること、愛があることを感じたかった。循環することを感じたかった。
在り方が逃避的だった私にとって、体験する怖さは今もあるけど、もう体験して感じる豊かさにワクワクしているし、いのちの後を追いかける感じで、ちょっと待って、となっている。
毎日、いろんなことがあって、今まで以上にいろんなことがあって、その都度感じて、自分を感じて、受け取ったり、抵抗したり。
うれしくて涙が込み上げてくることがある。一日に数度ある。涙を我慢してる。ほんとうは泣きたいのに。泣き虫なのに。
いのち、愛、純度。あることがある、のなかに在るのか。身体を通して感じるいのちがあって、そのいのちを身体で感じて受け取って、その場に居ること。いのちに応答すること。
(私たちの)いのちを私の身体が感じて受け取って言葉にして表現する。いのちの言葉(表現)は、(私たちの)いのちに届いて響き、いのちどうしでやりとりして、いのちどうしが示す方向に、(私たちの)いのちが運んでいく。
それはもうコントロールできることではないし、コントロールしようとすればするほど、無理が生じて運ばれなくなる。運ばれないこと、それ自体もいのちの体験で、そこから感じて、感じ取って、また生きていくような。
体験して、感じて、味わって、私は生きている。
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