私が小学生の頃、福岡に住んでいた。 海が近かったので、よく家族で海岸の方にドライブに行った。 海岸沿いの道は美しく、道路沿いにはドライブインのような店がたくさんあった。 夕日が美しいレストランにもよく行ったが、一番、思い出に残っている店は、まだ店の数も少なかったチェーン店のうどん屋だった。 小屋のような建物だが、駐車場も十分にあり、様々な人たちに重宝されていた。 なにか働いている店員がきびきびと、それでいて優しく接してくれて「アットホーム」そのものという店だった。 私は毎回「
昨年秋の台風の時、数年ぶりに雨戸を引いておこうということになった。 我が家は築60年で、強風はある意味「恐怖」でもあった。 いつもは父親がしていたのだが、高齢ということもあり、私が雨戸を引くことになった。 戸袋を開け、少し動かしてみて、なにかいやな予感がした。 蜘蛛の巣やほこりもあった。 東側の雨戸は特に問題はなかった。 南側の雨戸に手をかけた途端、それなりに力を入れなければ動かない。 四枚のうちの二枚目までなんとか閉めることが出来た。 問題は三枚目だった。 半分ぐらいまでの
小学校4年生の夏休み、一人で帰省したことがあった。 久しぶりに祖父と遊ぶのが楽しみだった。 祖父の家で荷物を出していると、祖父が「学校の宿題は持ってきたのか?」と聞いてきた。 「うん!」 私はよく考えずに返事をしていた。 私は解放感からか、テレビばかり観て過ごしていた。 祖父はなにか言いたげだった。 帰る日の前日、祖父が「ずっとテレビばかり観ていたな。宿題は全然しなかったじゃないか!」と少し怒った口調で言った。 「お母さんに手紙を書くから、ちゃんと渡しなさい!」 勉強熱心な祖
私は小学校の6年生から英語を習い始めて、相当な年数、学習していることになる。 現在、地元の英会話のフリートーキングのクラスに参加し、スムーズに英語が口について出るように努力している。 学生時代は「日本語から英語への置き換え」というように捉えていては、上達しないと言われていた。 しかし、私は母国語が日本語である限り、置き換えは当然のことだと思っている。 今回、特に感じているのは「語彙力」の問題である。 圧倒的に、私は語彙力が不足していると感じる。 しかし「英語から英語への言い換
10年前、友人に納税は地元でしたいということを表明していた。 その後は、大きなことを言った割には、収入が少なく「ふるさと納税」どころではなかった。 しかし、今は、所得を増やして、日本各地の自治体のふるさと納税をしたいと思うようになっている。 その理由としては、まず楽しさであろう。 日本にはいろいろな地域がある。 返礼品は物品も確かに選べるのだが、私は「メタボ気味の食いしん坊」なので、やはり新鮮な食べ物などを選びたい。 そして、一番大切なことは、私と自治体とのウィンウィンの関係
私が福岡の小学校に入学して間もない頃、祖父が点字サークルを立ち上げた。 目の不自由な人のために本を点訳して、いろいろな本を読めるような環境を作る目的であった。 ある日、大阪の祖父から電話があった。 「今度、私が点字サークルの代表としてテレビに出ることになったんだ」 それを父から聞かされた私は大喜びだった。 父は「明日、おじいちゃんが昼頃、テレビに出るから、学校を早退してきなさい。先生には用事があると言っておくから」と言った。 次の日、私は午前中で学校を早退すると、駆け足で家ま
私は「サンマ」という言葉を聞くと、どうしても、魚のサンマより、明石家さんまさんを連想してしまう。 聞くところによると、さんまさんの実家が水産加工業を営んでいたために、この名前になったのだという。 大学生時代から、彼のしゃべりにはまり、バラエティー番組などを観ながら大笑いしたものだった。 また彼はしゃべりの天才であると同時に、自分で言って、自分で受けて笑っているところがある。 本当に楽しそうだ。 職業としてだけではないのかもしれない。 私はお笑い界の人間ではないが、30代の時に
20年前、母方の祖父が亡くなった。 葬儀の後、祖父が勤めていた会社の人が、1冊の冊子をくれた。 中を読むと、祖父の紹介と社内報に祖父が書いていたコラムがまとめられていた。 紹介の欄は、祖父の会社の同僚でもある長年の友人が書いていた。 祖父の友人が一緒に満州にいた頃の祖父とのの思い出話など、娘である私の母も知らないことが多かった。 戦争のことも含め、明治生まれの厳格な口数が極端に少なかった祖父が、芸能人のことなどのことなども書いており、その意外性に驚かされた。 3年前から、私も
私は以前から、読みたい本があるときは、基本的に近所の図書館から借りて、読むことが多かった。 しかし、先日、本屋に立ち寄った時に、並んでいた1冊の小説本を購入した。 それは、話題となっている村上春樹さんの久しぶりの長編小説だ。 私はすぐに読み終えるだろうと甘く見ていた。 学生時代に、村上さんの小説をよく読んでいた横浜に住んでいる姉にも「読んだら貸すよ」と気軽に声をかけた。 しかし、私がじっと集中して本を読むということに慣れていないせいか、一向に読み終わりそうになかった。 そんな
12年前の3月11日は海外からの留学生のための会話ボランティアに参加する日だった。 まだボランティアを始めたばかりで、緊張をしていた。 会場はビルの4階だった。 会が始まる前に、ボランティア仲間の3人で部屋の前にあるソファに座って、打ち合わせをしていた。 なにか自分の体がふわふわするのを感じた。 すごく気分が悪かった。 すこしすると治まった。 2人に「なにか今、変な感じがしませんでしたか?」と聞いた。 2人は「なにも感じなかったけど。大丈夫ですか?」と逆に心配された。 その時
中学校1年生の時に、叔父の母校である高校が甲子園に出場することになった。 日頃から陽気な叔父の笑顔が目に浮かぶようだった。 夏、叔父が横浜からやって来て「一緒に甲子園に行こう!」と誘ってくれた。 試合当日、甲子園球場に着いた私たちは、叔父の母校の生徒が球場の周りに集まっていた。 叔父は早足で生徒たちの方に進んでいった。 「僕はだいぶ前の卒業生なんだ」 叔父はにこやかに話しかけた。 「こんにちは!」 野球部のユニホームを着た生徒たちも大きな声であいさつをした。 叔父は財布を取り
スーパーの駐車場の手前で、道を渡ろうとしている女性がいた。 横断歩道でもないが、危ないので停車した。 なにを急いでいるのだろうと見ていると、道路を挟んだバス停に向かった。 どうも、しばらくバスは待ってくれていたようだ。 それで、前に友人の女性から聞いた話を思い出した。 その友人は以前、バスに乗るためバス停に向かっていると、目的地に行くバスが停車中だったので、走って言った。 バスのブザーが鳴り、ドアが閉じかけたため、すぐ近くまで来ていた友人はバスの運転手に向かって「待ってくださ
小学生の時は、プロ野球選手になって投手になりたいと思っていた。 ただ、チームプレーが苦手だった私はマンションの塀に向かって、自分で思い込んでいる「カーブ」や「シンカー」を投げ込み、練習していた。 野球選手になった自分を想像していた。 中学生になり、体育の時間が苦痛になるほど、体を動かすことが嫌いになっていた。 本を読んだり、好きな英語のラジオ講座を聴いたりして過ごした。 しかし、なぜか毎月発売される雑誌「月間ジャイアンツ」を少ない小遣いで購入していた。 何時の頃からか、野球と
中学校の卒業式の後のこと。 学校の観察池のほうがなにか騒がしい感じがしたので行ってみると、学年で目立っていた男子たちが、生徒から人気のあった男性教師や体育の男性教師を囲んでいた。 何だろうと思って近寄って行くと、先生の体を掴んで、池の方に引きずっていく。 真新しいスーツを着ている二人の先生は見事にドボンという音と共に池に落とされて、正に濡れネズミの状態となった。 そこへ登場したのが日頃、まったく目立たなかった地味な美術の男性教師だった。 その教師はなぜか柔道着姿である。 柔道
3年前、万博記念公園で陶器市があるということを聞いた。 両親が陶器が好きなこともあり、桜が開花している公園に3人で出かけた。 桜並木は見事に満開だった。 その一角に陶器市は開催されていた。 数十軒の店をすべて巡っていった。 私は当時、母親の友人が作った湯呑を愛用していたのだが、うっかり割ってしまった。 湯呑を探しながら、すべての店を廻り終える時、一つの湯呑に目が留まった。 少し青みがかり、縞模様。 これだ! 私は直感で決めた。 「これは美濃焼です」 男性が穏やかに言った。 な
小学校5年生の時、福岡に住んでいた。 家の近くに「飯盛神社」という歴史のある神社があった。 お祭りがあると聞いて、家族で神社に出かけた。 神社はこんもりとした低い山の上にあり、古墳のような雰囲気もあった。 行くと、人は結構集まっていて、何か行事が始まるようだった。 その時、神社の係りの人たちが、人の整理を始めた。 道に集まっていた人たちが道の端に寄って、ほら貝が鳴り響いたと同時に突然、すごい勢いで馬が走ってきた。 私は間近で馬が走るのを見るのも初めてで、ただただ驚くばかりだっ