シベリア鉄道の夜明け-ラストエンペラー-
北京駅発シベリア鉄道の、その先の話。
この北京駅へたどり着く前には、こういう船旅やこういう列車の旅があり、早朝に膨らむ高揚感があり、そうしてようやくクラシックなコンパートメントに腰を下ろす。
シベリア鉄道というとウラジオストクからモスクワ、という印象があるけれど、その一部はウラン・ウデで分岐してウランバートルを経て北京へとつながっている。
私たちが目指したのはモンゴルの首都ウランバートルで、そういう意味ではシベリア鉄道には乗ったものの、「本当の」シベリアの大地を走ったわけではない。
その車窓から見えたものは、寂寥の大地というよりはむしろ、豊かさに満ちた中国という国の重々しく壮大な歴史の片鱗だったような気がする。
北京からウランバートルはおよそ30時間ほどの道のりだ。
国境を越えるのは、真夜中のこと。
北の国境にたどり着くために、早朝から深夜まで走り続けなければならないのが、この国の広さ。
北京は地理的には河北省の中央に位置する直轄都市で、鉄道で数時間ほど走ったところで、内モンゴル自治区に入る。
「東夷・北狄・西戎・南蛮」とも言われるが、中国というのはその四方を異民族によって囲まれた歴史を持つ。
もっと正確に言えば、高度な文化を花咲かせた漢民族を中心にして、数々の権力が支配を奪わんとした戦火の歴史を持っている。
歴代の中国皇帝たちは、北方民族の侵略を防ぐため、ちょうど現在の内モンゴル自治区との境目にあたる場所に、高い壁を建設した。
それがいわゆる万里の長城。
私も北京に滞在した折は、万里の長城を訪ねた。
しかしながら、そこは現地住人による案内で、「普通の万里の長城なんてつまんないよ」と言われるがまま、マイクロバスで相当な僻地まで連れられて、通常の観光客が滅多に来ない、「司馬台の長城」というところに行くことになった。
一般に知られており、写真でもよく目にする長城は「八達嶺の長城」と呼ばれている。
そこは世界中から観光客が訪れるため、きれいに整備され雄大な姿を誇っているが、この「司馬台の長城」は整備がまだ途中だとかで、ところどころ足場が崩れている。
元々幅が狭くて、また傾斜が急であり、のんびりと散策するとか観光するというのとは、やや趣が違う。
言うなれば、これは明らかに「登山」に近い。
半ば意地になるように、私たちは「前進できるところまで」進もうと決めた。
時折はよじ登るようにしながら、足元に恐る恐るの注意を払いながら、前進できるところまで。
同行していた友人の一人は高所恐怖症だと言って、途中でうずくまってしまい、どうぞ私を放っておいてくださいとジェスチャーする。
しかたがないので、彼女を置いていく。
振り返って見下ろすと、遥かぐるりと見渡せる限り、森と荒野が続く。
斜面をうねるように、長城の石が地を這っている。
観光客はまさにまばらで、私たちがすれ違った外国人は欧米人が数組ほど。
そんな場所だけれど、商魂たくましい現地の女性が、みやげ物や水やなんやをめいっぱい背中にしょって、私たちの後をついてくる。
よく日焼けして前歯のかけた顔で、くったくなく笑う彼女たちは、私たちが歩む速度にあわせて歩み、休憩をとろうとすれば同じように休む。
足場の悪いところで往生すれば手を差し伸べてくれたり、道を案内してくれたりする。
「謝々」と言うと「不客気(プーカーチー)」と照れ笑い。
「不客気」は「どういたしまして」。私がおぼえた中国語の一つ。
長城の道が遂に90度になってしまった場所で、私たちは彼女に記念撮影をしてもらった。
これより先は壁というより、ただ土地の隆起の上に石を無理矢理に積み重ねたオブジェ。
なぜなら、ここまで切り立った崖のような峠を馬に乗ったまま越えていくなんて、まず難しそうに思えたからだ。
騎馬民族の侵入を防ぐための壁だとしたら、さすがにこの場所に壁は必要ないのではないか。
だとするとそれって、きっと中国皇帝が「こことここに長城作っちゃったから、その間をどうしてもつなぎたい!」という意地だったんじゃないかと思うのだ。
多くの人民の犠牲の下に完成したに違いないこの壁は、自らの権力を示すのに恰好の象徴になる。
「すごい。皇帝ってまじすごい」
おかしなところで私たちは、中華王朝の偉大さを実感することになる。
「請給砿泉水(チンゲイクォンチェンシュイ)」
写真を撮ってくれた彼女から、私はミネラルウォーターを買った。
峠の風は心地よく汗を冷やし、凍ったまま売られているペットボトルの溶け出した水がみるみると喉を潤す。
彼女の顔は、漢民族のそれじゃない。
もしかしたら騎馬民族の末裔なのかもしれない。
「ラストエンペラー」は大好きな映画だ。
中国最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の人生を描く。
何も分からない幼いときに時の皇帝が死に、西太后によって皇帝にすえられたときから、彼は常に自らの意志とは無関係な人々の謀略に利用されていく運命となる。
この強大で豊かさに溢れた国を手にする地位にありながら、その実は、気だるく哀しく空虚な人生。
友情に思えるものも、愛情に思えるものも、何一つ信用することができない。
彼が皇帝でなかったら、誰か彼を本気で愛しただろうか。
皇帝の権力というのは、実際に誰がそれを操っているにせよ、その地位をもって彼が幸せであるとはもちろん言えない。
あらゆるものを手にしても、あらゆるものが通り過ぎるだけ。
だとしたら、あの長城の端と端をつなぎ合わせることに躍起になる思いというのは、宿命へのあてつけか、あるいは恐怖、あるいは怒り。
シベリア鉄道のコンパートメントは4人用。
私たち3人ともう一人乗り合わせたのは、モンゴル人の男の子だった。
12歳のわりには小柄な少年で、けれどとても利口そうな顔をしていた。
第一、彼は学校で習ったという英語を上手に使って、私たちとコミュニケーションをとる。
彼の父親や妹も明るいうちは私たちの部屋で過ごしたりして、俄かモンゴル語講座が開かれる。
少年は、英語の分からない家族のために、通訳も買ってでている。
モンゴル語の発音は、耳慣れない音ばかりで難しく、私が辛うじておぼえられたのは「こんにちは」と「ありがとう」と「さようなら」、それから数字の「1・2・3」。
それだけでモンゴル旅行大丈夫なの?という感じだけれど、実際、何にも困らなかった。
英語は相変わらず通じない国で街中の表示もキリル文字ばかりだったけれど、でも案外と日本語の分かる人に出会ったり、偶然に日本人が経営しているゲストハウスを見つけたりしたからだ。
というか、中国の雑多さとは違って、モンゴルは人が少なくどこか寂しく、また首都でさえとても規模が小さいので大抵の場所へ行くのは徒歩ですみ、バスの路線を覚えるのも簡単だったから。
むしろ、中国のパワー、その豊かさを強く強く印象づける恰好のコントラストだったと言える。
中国の街を歩くのがなんとなく不安なのは、言葉や文化といったことだけじゃない。
おそらくあのエネルギーのせいなのだ。
それを制して治めようとしたら、興奮とともに恐怖がつきまとうだろう。
手なづけるにはやんちゃすぎる。
そして、その上、周囲からは彼を狙う異民族の圧力。
そう、日本という国も含めて。
北上する車窓から、私たちがよじ登った長城を目にすることができた。
険しい山肌にうねうねと連なる。
窓から優しい風が入って、レースのカーテンをなびかせている。
ベッドに寝そべった姿勢で、私はその緑の尾根を眺めた。
目を閉じているうちにやがて列車は国境を越えて、明け方にはただっ広い草原が開けていた。
二匹の野生の馬がたて髪をなびかせて駆けていく。
窓から乗り出して進行方向を見ると、緩やかに左にカーブした線路に沿って、何両にもつながる長い車体が朝日にまばゆく反射していた。
ラストエンペラー The Last Emperor(1987年・伊/中)
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
出演:ジョン・ローン、ジョアン・チェン、ピーター・オトゥール他
■2005/9/25投稿の記事
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