見出し画像

くされ縁-ハンニバル-

平日午後7時半から8時頃にかけて、銀座8丁目界隈は夢みたいな空気に包まれる。
蝶のように美しい女性たちが艶めくドレスの裾をヒラヒラとなびかせながら、高い視線で颯爽と歩き、次々にビルの中へと吸い込まれていく。

そういったビルの前には必ずと言っていいほど、タキシード姿の精悍な顔つきの男性が背筋を伸ばして佇みながら、周囲を鋭く観察している。

銀座の、夜の顔。

そんな時間帯にこの近辺に足を運ぶことはそうないのだが、考えてみれば、自分自身が指定したビストロは8丁目の中心にあった。
その夜は、名古屋から出張で上京した友人と、大学時代の友人と3人で飲むことになっていた。



仕事で遅れるもう一人を待たずして、私たちは遠慮もなくワインボトルの栓を抜いた。
牛のモツとズッキーニをふんわり卵と炒めた一皿が、どこか安心する味つけで、「絶対醤油が入ってるよね」と意見が合致する。

この友人は名古屋で働いていて、知り合ったのは私がそこに暮らしていた頃だが、月に2回は東京出張に来ているんじゃないかと思う。
昼も夜も、仕事や仕事とカコつけたお付き合いで、いつもとにかく忙しくしている人、というのは知り合ったばかりの頃からそうだった。
互いに30代になっても、全然変わらない。

彼は、マメというより人懐っこい。
私のことを「そっけない」とか「冷たい」とか「かわいげがない」とか言うけれど、そのわりに、遠慮することもなく愛想をつかすこともなく、あつかましいほどの人懐っこさで「明日、東京行くけど」と誘ってくる。
3回に2回くらいは「あ、そ」で受け流す私。
うち1回くらい、都合がついて気分が乗れば、誘いに応じる。
しょっちゅう東京に来ているんだから、「せっかく東京に来るから」なんていう有り難みはない。

私たちのことを「くされ縁」だと呼んだのは、彼の方が先だった気がするが、確かにまあ、言い得て妙かもしれない。

「一回銀座の店で働いてみたいなあなんて思うことあるんだけど」
と、店に来るまでの道で思いついたばかりのことを不用意に言うと、「無理無理」と真剣な顔をして否定する友人。
私も大して自信があるわけではないけれど、そう言われるとちょっと反論したくなる。

「なんで?」
「絶対無理だって。ああいう世界の生き残りは厳しいから」
「生き残らなくたっていいよ。ちょっと経験だけだから。ヘルプで週に何日か働くくらいで」

友人は顔を上げて、もう一度言った。
「無理」

そうですか。無理ですか。
どこか釈然としない気分だが、言い争うほどのことでもないので、まあいいやと引き下がる。
それでも、その気になれば意外と私もやれるんじゃないの?という内心は、全く変えるつもりがない。

それなりに付き合いも長いので、私の彼に対する態度はかなり明け透けだと思うが、会話の行く末に、私はよく、彼に対して「ムカツクなあ」と言う。
失礼な言い方は百も承知だが、実際、ムカツいているので「ムカツク」と言う。

彼は彼で、私に対して常に本音で話すというスタンスを持ちたいらしく、お世辞や遠慮の類を持ち込むことがない。
だから当然、とんでもなく失礼なことや、デリカシーのないことをバンバン投げてくるわけで、それに対して私も遠慮なくムカツいて、そのムカツきを遠慮なく示すという具合だ。

遠慮不在のコミュニケーション。
ぶっきらぼうな自分を感じながら、ここにも、縁だとか、相性だとかがあるのだなと思う。
そういうバランスで、私たちは成り立っているらしい。

やがて、仕事を終えたもう一人の友人がやって来る。
彼女は私の長い友人。
友人どうしは互いに初対面で、私が「こちらT君」「こちらHちゃん」と軽く紹介する。

「どうも」
「はじめまして」

それから、会話は妙な方向にエスカレートしていく。

遠慮がないと言ったけれど、私たちはこれまで何事でも話し合ってきたわけではない。
むしろ、互いのプライベートに対して、あまり多くは語らない。
彼の方がどう思っているかは知らないが、私の方には彼に弱みを見せたくないという気持ちが働いているのだと思う。
そういうのをして「かわいげがない」と言われるのだろうが、私はいつも言い返す。
「あなたにかわいげを見せるつもりないから」

かわいげがあったかどうかは別にして、その夜の告白は多少ハメが外れていた。
愚かな恋愛観や、不実な過ちや。
そこには、オープンで自由人なHちゃんという相乗効果が無関係でないし、鮮血のようなワインの色も無関係でないだろう。
それで改めて、互いの意外な一面を知り、ふうんと多少ニヤついてうなづく。

私たちが名古屋で知り合って間もない頃、確か初めて一緒に観に行った映画は「ハンニバル」だった。
映画の後のお茶で、私は「ハンニバル」の感想として「フィレンツェの陰影、キリスト教世界の陰影」と表現して話した気がする。
その話を聴いたときの、彼の表情がなぜだか突然蘇る。
少し目を見開くようにして、驚いたような顔をした。
そして、「どうしても行かなければいけない用事があるから」と彼が言って、その日、夜を待たないうちに私たちは別れた。

私は帰り道、もう彼に会うことはないかもな、と思った。
でも、不思議なことに、あれから6年半。

名古屋に帰った友人から、「オクラも入れてみた」とコメントを加えて、例のモツ料理を自分で再現してみたらしい写メールが届く。
きっと醤油を入れただろう。
彼にはとにかく、そういう人懐っこさがある。

どうやらその日のことを指しているらしい、彼の短いMixi日記によれば、自分は「女運がいい」のだそうだ。
「変な意味じゃないよ!」とフォローしなくても、言わんとすることは分かる。
それを読んで私はまた、「ムカツク」とつぶやく。

ハンニバル Hannibal(2001年・米)
監督:リドリー・スコット
出演:アンソニー・ホプキンス、ジュリアン・ムーア、ゲイリー・オールドマン他

■2007/8/14投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます


この記事が参加している募集

映画感想文

サポートをいただけるご厚意に感謝します!