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スマホの使いすぎでメンタルを崩すそもそもの理由

ドーパミンがどうとか、幸せそうな他人と比較してしまうとか、そういった医学的・心理的な説明でなくても、スマホの使いすぎが心の状態に悪影響を及ぼすということは理解できたりする。もっと根本的な理由がある。


そのことは、哲学者で著作家の池田晶子さんが『14歳からの哲学』で次のように書いていることからもわかる。

最も身近な自然を、人は忘れてしまっているんだ。それが、この体だ。体は自然が作ったものだ。




体、とくに内臓は、自分の意志とは関係なく動いている。心臓、胃、腸、腎臓、血液の流れ、毛や爪が伸びる、etc…
わざわざこんなふうに考えなくても、体、つまり生命が自然によって作られたものだということは、意識さえすれば直感的にわかるはずだ。体は明らかに人工的なものではなく、自然の産物である。



だから本来、僕たちの体は自然と親和性が高い。緑の多い場所に行ったり、川のせせらぎや鳥のさえずりを聞いたり、水辺に赴いたりすると癒されるのはそのためだ。そもそも僕たちの体が自然なのだから、本来の僕たちの、いわば生まれ故郷である自然の中に行けば、落ち着いた気持ちになるのは当然である。


が、しかし。
これに対して、スマホは完全に人工の産物である。



スマホという機械そのものが人工物だし、画面に表示された情報も人工のものである。画面なんてものは自然にはないし、言ってみればデジタルそのものが存在しない。




人間によって意図的に作られた情報を四六時中眺め、機械のシステムによって加工された写真や編集された動画を頻繁に見、他人よって語られた言葉を絶えず目にする。



そんなことができる代物を肌身離さずずっと手にして眺めていたら、もともと自然である身体と不調和を起こすのは必然である。スマホと人間の肉体(体)は根本的に相性が悪いのだ。水と油のような関係の二つのものを接触させているのだから、メンタルが悪影響を受けるはずである。




そんなことを言ったら、日常生活には人工的なものが溢れているじゃないかと言うかもしれない。街がそもそも人間が作ったものだし、建物も人が作ったもの、机も椅子も、服も、アクセサリーも、洗濯機も冷蔵庫もテレビも、生活で使うもののほとんどは人間が作った人工物じゃないかと(木製の机とかだったら、原材料が自然のものだけれど)。



たしかにそうだが、スマホは明らかに人工的な内容に触れる機会が多すぎる。情報という人工物に大量に触れてしまう。
ちょっとSNSを開けば、数分のあいだにあり得ない量の情報が流れてくる。おそらくこんな量の情報に触れることは、本来僕たちの体は想定していない。許容量オーバーだ。ただでさえ相性の悪いものなのに、それを自分の体に嫌がらせかのように大量に注いでいるのである。体にとっては拷問のようだ。



しかし(ここでやはり医学的な話を挟むのだが)、やっかいなことに、情報に触れるとドーパミンが分泌され、僕たちは快楽を感じ、そしてさらなる快楽を求めてしまう。相性が悪いものなのに、快楽としてインプットされ、またアウトプットされてしまう。まったくもってちぐはぐだ。



人類はそのほとんどの歴史において、自然のなかで過ごしてきた。狩猟・採集時代が長かったし、日本の縄文時代だって約1万年ほど続いたと言われる。一方、スマホが普及したのはここ十数年のことだ。
このことからもわかるように、やはり僕たちの体は自然と調和するようにつくられている。なのに、スマホという肉体にとってイレギュラーな存在によって快楽をドパドパと得ているのだから、適応しきれずに心身がおかしくなるのは当然である。やはり僕たちは――僕たちの体は――、自然に触れながら生きるのが望ましいのだ。


ここまで訳知り顔で書いてきたが、そんな僕も一日にスマホを8時間とか見てしまうこともざらにある。まったく説得力がないが、とりあえず考えたことを簡単にまとめてみた。


肉体とスマホ。
自然と人工。



スマホはもはや僕たちの生活から排除することはできない。
そんななか、この相反する性質のものを、僕たちはどう融合させていけばいいのだろうか。
 


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