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クリームパンを食べた娘に「どんな味がする?」と尋ねたらカオスだった

子どもの言葉選びは面白い。
少ないボキャブラリーの中から、大人があっと驚くような表現をしてみせる。

今日は2歳の娘がクリームパンを食べた感想が、予想の斜め上過ぎた話をしてみようと思う。

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夕方、保育園から帰宅した娘はいつも

「お腹すいた!」

の嵐を起こす。

産休中の私は昼間に比較的自由な時間があるが、最近はたいてい体を休めることに費やしている(動くとお腹がよく張るのだ)。もちろん夕飯はまだできていない。なにせまだ16時半である。どちらにせよ、夕飯にはまだ早い。

だからいつもリンゴやバナナ、おせんべいなどのおやつを娘には与えるのだけれど、今日はパン屋でパンを買ってきていた。ちょうど外に出る用があり、その帰りに立ち寄ったのだった。

いくつか買ったパンの中に「こだわりのクリームパン」があった。なんでも、その店特製のカスタードクリームが2種類も使われているのだとか。チョコレートの菓子パンだけを買うつもりが、気づいたらクリームパンもトレーに乗せていた。

「今日のおやつはパンパン(パンのこと)にしようね」

と言い、娘にクリームパンを渡す。娘は顔をキラキラとさせながら

「うん!」

と言い、椅子によじ登っていそいそとクリームパンを食べ始める。

この感じであれば食べている途中で飽きることもないだろうと踏んだ私は、娘を横目に見ながら夕飯づくりに取り掛かる。

余談だが私は料理があまり得意ではなく、特別好きでもない。なので大抵、10~15分でできるような簡単なものしか作らない。普段から夕飯を作る時は、娘が帰ってきてからのおやつタイム中に、冷蔵庫にあったものでパパっと作ってしまうことが多い。

メインのおかずは昨日の残りがまだあったため、今日は付け合わせのきんぴらを作ることに。ゴボウを炒めている間に、娘はクリームパンのクリームを美味しそうになめている(パンも食べて)。

きんぴらを作り終えるのと同時くらいに、娘もパンを食べ終えた。

いつもならここで

「美味しかった?」

と尋ねるのだが、今日は

「どんな味がする?」

と声かけを変えてみた。


昨日、Instagramで子育てについて発信しているママさんが、

「子どもへの声掛けは『美味しい?』ではなく『どんな味がする?』がよい」

と言っていたからである。

「美味しい?」と尋ねると「美味しい」か「美味しくない」でしか返ってこないが、「どんな味がする?」と尋ねると子どもは食べたものの味を言葉で表現しようとして、結果、五感や表現力が鍛えられるのだとか。この発信者のママさんは育児書を実に100冊読んだそうである。

私は熱心に育児書を読むなどして育児を勉強するタイプではあまりないのだが、そのママさんの主張に「なるほど」と思ったため、さっそく実践してみることにしたのだ。

「クリームパン、どんな味がした?」

普段とは違う母親からの声かけに、一瞬娘は考える様子を見せた。そして数秒後に

「かわったあじがする」

と言ってにやりと笑った。


(「変わった味」……!?)


予想の斜め上からの返事に、私は思わず笑ってしまった。

2種類のクリームをふんだんに使った「こだわりのクリームパン」。
大人であれば「甘かった」「美味しかった」「柔らかかった」などの感想が出そうなところである(「柔らかい」は味じゃないかもしれないが)。

ところが、だ。

2歳の娘にとって、このクリームパンは「変わった味」だったようだ。
もしかしたら娘の中の辞書に「甘い」や「柔らかい」などの言葉がまだなかったのかもしれない。初めて食べたクリームパンの味を表現するために自分の持つ知識を総動員して「変わった味」と言ったのだろうか。いや、「甘い」という言葉はもしかしたら知っているのかもしれないけれど、同じ「甘い」の中でも娘の知っている甘さではなかったから「変わった味」という言葉が出てきたのかもしれない。

日本人初のノーベル物理学賞を受賞した物理学者の湯川秀樹は、以下のような言葉を残している。

人間は具象以前の世界を内蔵している。そしてそこから何か具象化されたものを取り出そうとする。化学も芸術もそういう努力のあらわれである。いわば混沌に目鼻を付けようとする努力である。人生の意義の少なくとも一つは、ここに見出しうるのではなかろうか。

「湯川秀樹 詩と科学」p.54
/STANDARDBOOKS(平凡社)

言葉で何かを表すという営みも、頭の中にある形ないものから「言葉」として形を与える作業だと言える。詩や文章を書くのだってそうだ。普段何気なく考えている漠然とした靄(もや)のようなものに「言葉」という輪郭を与えていることを感じながら、私は日々何かを書いている。

娘がたったいま体験したクリームパンの味を言葉で表現しようとしたとき、たしかに「変わって」いたのだろう。普段食べなれないモノを食べたときの戸惑いや感動が、この一言に凝縮されているような気もする。

「美味しい?」と聞いていたら、きっとこの体験は娘の中の「美味しい」カテゴリーにポンと分類されておしまいだったであろう。それが声かけを少し変えただけで、ただ「美味しい」カテゴリーに乱暴に放り投げるのではなく、もう一段踏み込んだ「変わった味」というカテゴリーを生み出し、分類するという過程が生まれた。

いわば混沌に目鼻をつけようとする努力である。人生の意義の少なくとも一つは、ここに見出しうるのではないだろうか。

「湯川秀樹 詩と科学」p.54/
STANDARDBOOKS(平凡社)


「分かる」とは「分けること」であるらしい。
おそらく娘は今日、娘なりにクリームパンの味が「分かった」。

何かを言葉にすることは私にとって喜びであり、生きがいでもある。娘が今後同じように感じるかは分からないが、今回のクリームパンを「変わった味」と言葉で表現したことも、娘が自分の中の混沌に目鼻をつけようと努力した結果であろう。娘はまた一つ、新たな味覚を発見・獲得したのかもしれない。まだ成熟していない混沌とした娘の世界が新たな色を帯びた瞬間に、私は立ち会ったのかもしれない。湯川の言うところによると、それは人生の意義になりうるほどの出来事である。何気ない日常の一コマが、とてもドラマチックに思えてくる。たかが声かけ、されど声かけ、だ。

クリームパンを食べ終えた娘は、指についたクリームをなめながら満足そうな顔をしている。決してお行儀はよくないが、そんな様子をついつい微笑ましく見てしまう。いつだって自分に素直な子どもの仕草はとても愛らしく、見飽きることがない。

しばらくすると

「お腹すいた!」

とまた言うので、夕飯にすることにした。

細かく刻んだきんぴらを食べている娘に

「どんな味がする?」

と尋ねると、自信満々の笑顔で

「イチゴのあじ!!」

と答えた。


うーん。まさかそう来るとは。
何と反応したらいいのやら。混沌(カオス)。

子どもとは本当に不思議なものである。
でもだからこそ、面白い。


娘にはこれからも、自らの中にある混沌に娘なりの形を与えていく喜びを感じていってほしいものである。






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