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W介護

私 浸潤性小葉癌のお話です
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放射線治療

そんなこんなで、初めての頭頸科も無事に終了し、検査に出した舌の腫瘍も良性との事で問題無し!
やっと放射線治療の方に入った。

放射線治療は放射線科を受診しての治療となる。
先に放射線科の先生に診察を受けてから、放射線治療をして帰宅となる。

初めての日に、体に直接マジックで放射線を当てる箇所のマークを書かれる。マークが消えてると、その都度マジックで書き足される。
少しでもズレると大変なので、放射線をあてる時は動かない様に気をつけた。

治療自体の時間はそんなにかからなくて、着替えて治療する迄の時間自体は10分位?なものだが、月〜金まで毎日行かなくてはならなかった。(土日はお休み)
これがまた、意外と大変で、放射線治療25回+ブースト5回なので、約1か月、通って治療を受けた。

だんだん放射線をあてたところの皮膚が黒くなってきて、痒くなってきたり痛みが出たりしてくるので、その都度、先生に伝えて皮膚に塗る塗り薬を処方してもらいながら規程の回数をあてていった。

私は放射線治療の副作用や後遺症もあまりなくて助かった。

その他の治療としてはホルモン剤治療をした。
私はホルモン剤の注射を3年位打って、タモキシフェンというホルモン剤を7年飲み続けた。ホルモン剤を飲んでいる間は更年期障害の様な症状が出ますと言われていたので、覚悟はしていた。

薬を飲み始めた頃、退院してすぐに仕事をしようとしたが、無理に気持ちばかりが焦り、ホルモン剤の副作用のホットフラッシュなどモロに受けて体調を崩してしまった。
結局、仕事する事は少し休んでからにしよう。と思って、治療に体が慣れるのを待ちながらゆっくりさせてもらおうと思った。
しかしこの頃、実家の両親の体調が悪く、父親、母親の2人とも倒れると言う、ダブル介護の生活に突入していた。

W介護

父親は肝硬変を治療中だったが、その後末期の大腸ガンが見つかり、余命2ヶ月と申告を受けて(その後1年半で他界しました)、当時は実家の父親が要介護3(その後要介護4)、認知症の母親が要介護2(現在要介護4)で、実家でそれぞれの部屋に介護サービスからリクライニングベッド、ベッドの横に簡易トイレを借りてのダブル介護を姉と私と妹で協力しながら行っていた。

それぞれの病院へも家族が連れて行くので、
・車椅子をレンタルして車に乗せて、本人も車に乗せて病院へ。(車椅子はめちゃくちゃ重いです)
・車椅子を車から下ろして本人を乗せて病院で受付。
・座る所がないので本人を車椅子に座らせたまま邪魔にならなそうな所に移動、私は近くで待機。
・トイレに行きたいと行ったら車椅子でトイレまで連れて行き、トイレ介助。
・先生の診察を受けて採血受けて会計待ち。
・会計が終わったら車椅子を押して近くの薬局に行って薬をもらい、車へ戻り、本人を車に乗せて車椅子をたたんで車に乗せて帰る。

当たり前だけど、これを毎月の内科、眼科、歯医者などの病院の度、2人分連れて行った。
家に戻ればどちらかもう1人がいるので、そちらの様子を見に行き、簡易トイレの掃除、朝置いて行ったお昼ご飯の片付け、夜ご飯の準備、食べさせて後片付けして片道1時間半の道のりを運転して帰る。
病院がない日でも母親が毎日の様にシーツを汚してしまうので、シーツ+パットの交換、洗濯、これだけであっという間にお昼になる。

実家には妹が両親と一緒に住んでくれていたけど、すぐに恫喝的になる父親に子供の頃から怯え、自分では何も出来ない母親に挟まれ、将来の不安を感じながら妹も精神的に体調を崩し、部屋から出てこない日が増えて行った。
私ももう、心身ともにヘトヘトだった。

そんな様子を見てケアマネさんが
「もう、2人をご自宅で介護するのは限界だと思います。1人、施設に入ってもらった方がいいです。このままだと、ご家族の皆さんが体を壊してしまう。」
と、言ってくれて、そこで初めて施設に入居すると言う選択肢があるのだと、施設に入るにはどうすればいいのか?と言う事を調べ出した。

益々酷くなる両親のダブル介護生活をしていた頃、夏に行った人間ドッグの結果でかなりの項目が引っかかっていた事を思い出した。
乳がんになってから毎年、旦那さんと人間ドッグを受診するようになっていた。大体、夏の時期に行くようにしていたが、夏に行った人間ドッグの結果をなんだかんだで年末までずっと放置していた。
ホルモン剤を飲み始めて5年目位の頃だ。

年末で忙しいけど、今年の事は今年のうちに片付けてしまおう!と言う気持ちで、介護の合間に人間ドッグの結果票を持って人間ドッグを受診した病院へ向かった。


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