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わたし以外わたしじゃないことのざんこくと、

 今週は本当に疲れ果てた。
私以外私じゃないこと由来の様々な問題が子供に起こって、彼自身それを痛いほど思い知っただろうし、私もまた、さいきん私に起こった似非色恋些事を重ねて、他者のわからなさ、について深く考えた一週間だった。
 他人はわからない、という共通認識ならば、私たちはきっと皆ある程度もっているけれど、だからと言ってそのわからなさを、すんなり受け入れたり理解することはなかなかできるものではない。

 興味のないひとや、嫌いなひとについては、わからなくてもいいやどうせあいつ変だし、という冷たいあきらめで端からわかろうとしないし、興味のある人や好きなひとについては、わからなさが出てくると知りたくなるものの、わからない…と感じた時点ですでに、実はもうその好きはそのわからなさによって若干のこじらせを開始させられているのであって、そしてこじれた感情というものは、素直に他者のわからなさに歩み寄ったり寄り添ったりする余裕を持つことができず、ただひたすらにわかりたいわかってわかりたいわかっての猛者と化し、わからなさのみならず、通常ならわかるようなことさえも、もはや、まともに認知することができない場合さえある。
 つまり、これもまた結局、その熱しすぎた固執で端から真にはわかろうとなどしていないというわけで、好きでも嫌いでも、わからないものはわからないフォーエバーわからないわかることができない、という仕組みである。

 そんななかで、どうやって、私たちは、他者を傷つけず、あるいは自分が傷つくことから身を守って、生きてゆけばよいのか。我が子は、出だしで触れた出来ごとにおいて、思いがけない友人の訴えに「自分がされていやなことはしない、と言う方法では、少しも対応できない」と思い知ったという。これをしたら”こいつ”どう思うか、ってことを考えないと、自分も相手も守れないと考えた様子。

 いつもいつも人間関係で頭使うなんてできないし、おとなになっても、かかわっている相手に思いがけない態度を取られてたじろいだり悲しくなったりするし、私以外私でないということの、救いのなさ、ざんこくさに対応するすべはないように思われる。
 けれども、他者のわからなさを、このわたしの身とこころにふかく思い知って、みぞおちがえぐられるみたいに寂しくなり、まだおしゃべりは途中なのに、その先の言葉もなにも、突然断ち切られたかのようになにひとつも見えなくなったりとか、それらが発せられる気配も、宇宙の終わりがあるとすればたぶんそれみたいに無で、ああやっぱりこれは絶対的に川谷絵音じゃんわたし以外はわたしじゃないんだ、この世に絶対なんてないって言うけども、わたし以外わたしじゃないこと、それって超ぜったいじゃん、それであれじゃない、絶対的なものって、なんか信じられる気がするじゃん。だからわたし、わたしのことは信じようかなとおもったりしている。宇宙の終わりの無がきても、それはできるかもしれない。できなくても、だれにも、わからないしね。


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