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魂ってないのかも知れないし、それに該当する何かのことなのかも知れない。


病んでる時に生まれた作品の方が、なんかいい、と思うことがある。

大抵はアーティストの初期作品が好きで。でも、特に絵画とかは、なんかいいなと思えば暗黒期だったりする。
暗黒期がどうかとか関係なく好きなのもあるし、遺作に感銘を受けたり、作品の印象と真逆の時代を本人は生きていた、なんて作品も多々あるのだろうけれど。
何かピックアップして例えられないレベルの知識では何も語れない。。



ブライトサイドに立つには、何がブライトか、身を投じて知る必要がある。
私は、過激で残酷な描写、ダークな表現に引き込まれる時、そこに美があるかを見てしまう。
エンタメやアートのビジネス価値は共感性や没入感、予測を覆すもの、知名度など、明確な基準がない最たるもの。

利益追求などないような、審美眼をついた作品は、それだけ真に迫っていて、何かが宿っているように感じる。

何か、が魂なのかは、結局わからない。
そう思うのがしっくりくるだけなのかもしれない。
魂なんてものは、ないのかもしれない。

この世の理、この世界のアルゴリズム。
明晰な夢も、幽体離脱も、死後の世界ですら、全ては脳が作り出す幻影に過ぎないのだとしたら。
それでも人の出す答えは変わらない気もする。
"現生で思い残しのない人生を。"

イマジナリーだとしても、幻覚だとしても、そこで得た経験は現実のそれとどう違うのか。
たまにスーパーなどで一人で真剣に会話している人を見るが、それはその人にとっての真実と、それを見ている人たちという構図があるに過ぎない。
現実を真実だと思うから錯誤する。

闇に浸かるなら、それが超常現象であれ、神秘の泉であれ、単なる精神構造であれ、どこまで深みに行き、そこで人は何を見るのか。

それを己や他人が覗き見たいという心理は、一重であると。
だから、やっぱり私は、自分の好きな仮説の海で、好きに泳いでいていいのだと。

夢の世界、死後の世界、人の想念や魂、それらのが解明できたとしたら、
それでもやっぱり、はるか太古から、物理演算的に、電脳的に、人は死なないし、転生もするし、異次元もありうるかもしれない。忘れているだけで。

肉体から離れても生きる未来が来るなら、全部関係なくなってしまうし。
かもしれない内は、想像する楽しみがある。
私も近所の猫も、ただ忘れてるだけで、100万回死んでるかもしれない。



お寿司食べてきます。


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