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「晩年様式」が僕にもたらしたもの

✳️本記事は2020年12月に投稿した記事の編集版です



僕は、作曲家の晩年の作品に特別な興味を覚える。

モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなどの晩年の作品は、初期~中期の作品とは明らかに伝わってくるものが違うように感じられるのだ。

ただ、モーツァルトの場合は、それほど変わらないように見えるかもしれない―短命だったからだろうか。あるいはすでに「完成」されていたからか。
よく言われることとして、彼の自筆楽譜は訂正した跡がなく、清書したように綺麗なのだそうだ。シンプルで、この世のものとは思えない澄み切った透明感を感じさせる音楽―ピアノ協奏曲第27番やクラリネット協奏曲などを思い出す。
但し、絶筆となった「レクイエム」にいたっては少し趣が異なり、これまでにないほど「人間的な、あまりにも人間的な」音楽に聞こえる―「天使」が「人」となった感覚だ。


ベートーヴェンについてはその変化が最も分かりやすいように思える。作品100番台から明らかに異なってくる。次元が数ランク上がるようなイメージだ。より自由度が増す―それゆえか「本人」にしか分からないような表現も感じられる(特にOp.131)。しかも別にわかってもらおうとは思っていない風なのだ。見方によっては「独りよがり」な音楽で、不思議と「お茶らけた」音楽が聞かれることもあるが(特にOp.131)、僕には「親父ギャグ」のような違和感を覚える―「面白い」と思ってるのは「本人」だけなのだ。ただ、緩徐楽章の深く穏やかな世界観は特筆に値する―ここでしか見られない(聴かれない)音楽だ。一番の特徴はここにある。

ピアノ・ソナタ第30~32番のような「晩年の作品」となると、それなりの円熟性(中身も見た目も)に達したピアニストが初めて取り組めるようなイメージがかつてあったが、それを打ち破ったのが若きグールドだった。デビューから2枚目のアルバムが後期の3つのソナタだったのだ。それに倣ったのか、ポゴレリチの2枚目のアルバムもOp.111のソナタだった。彼らはスコアそのものから自らが読み取ったフレッシュな感覚でイキイキと演奏しているのだ―。僕自身「晩年の作品は晦渋で深遠で、達しがたい素晴らしさがある」という先入観念に囚われているんだな、と気づかされる。


シューベルトの晩年は悲惨なものだった―と伝えられている。「本人」より「作品」の方が圧倒的に愛されていた。D700番台後半あたりから、ヤバい雰囲気が漂ってくる―先へ進まないリピート感覚、突然の転調、ぽっかり空いた「穴」(Abyss)、重苦しいも美しいメロディ…。モーツァルトと同じほど短命であったが、彼よりも遥かに深刻さが際立つ。

シューベルトの「負」の面を全面的に押し出したのはアファナシエフだと思う。彼はシューベルトの「牧歌性」より「地獄」の面を強調する―特に後期の3つのソナタにおいて。極めてネガティヴで、一つの見識だと思うが、僕自身としてはちょっと疲れる見方でもある―音楽で「癒されたい」とも思っているからだ。


シューマンは僕が一番好きな作曲家だ。CDの枚数も一番多い(「全集」モノゆえか)。「精神疾患」との関連で語られることの多い作曲家であるが、僕もその方向性に特別な関心がある。果たして「狂気」は音楽を生むのだろうか―それは「音楽」としてどこまで認識できるのだろうか。大変興味深い。後期作品(やはり作品100番台あたりからだろうか)から音楽語法に翳りが生じ始める、という見方もあるが、一概に云えないところがある。同心円上で音楽が徘徊するようなイメージは後期作品に限らないように思えるからだ。ただ、グレイ一色のような雰囲気、何かぶつぶつ小声で言うような、はっきり聞き取れない印象、理由の分からない情熱などがハッキリと出てくるのがこの時期の作品。何か痛ましさを覚えることもある音楽だ。


ブラームスの晩年の作品は「寂しさ」に溢れている。孤独感を感じ、押し潰されそうになり、自身を守るため、さらに殻に閉じこもり、孤立する。外観も、かつての「水も滴るような」美男子から、よく知られている肖像画のような姿に成り果ててしまう―。
晩年の作品でとりわけ「孤独感」を感じさせるのはOp.116以降の一連のピアノ小品集であろう。
これらの作品には特別な思い入れがある―。

僕が高校生の頃、母親代わりだった祖母が他界した。僕は、余命幾許もない祖母の気持ちに寄り添いたかった。結局何もできなかった。二度も「母親」を失う経験をして、自分の境遇について悲しみを覚えずにはいられなかった。その時偶然耳にしたのがブラームスのこれらの作品だったのだ―確かラドゥ・ルプー盤だったと思う。極めてメランコリックな音楽なのに、不思議な「癒し」を与えてもらった記憶がある。

「晩年様式」の作品が僕の心に寄り添ってくれた瞬間であったのだ―。


ブルックナーとマーラーについてはやはり、交響曲第9番に「晩年様式」に近いものを感じる。

ブルックナーにとって交響曲第8番が人生最高の「頂点」であり、最大の「成功」だったと思う。次の第9番で、彼の心は (彼にとって)「最も重要な存在」へと向かう。もはや地上に彼の居場所はないのだ。いずれ去ることとなるこの世界を名残惜しむような風情を感じる。「諦観」ともいえるが「Abschied」のイメージが強い (不協和音がぶつかる世紀末的な場面には驚かされるが)。ただ、終楽章フラグメントの印象は第8番に近い印象なのだ。彼にはまだやり残したことがあったに違いない。


マーラー9番についてはまさに「告別」のイメージだ―音楽的性質としては「大地の歌」に続く音楽だからだ。番号のつけ方の点で「運命を騙す」ことに成功したマーラーは、構成力が過去最強―特に第1楽章―の第9番を書き上げる (第6番「悲劇的」のフィナーレも凄まじいが) 。第2~3楽章でサクッと人生を回想し、フィナーレで透明な悲しみとともに「死に絶えるように」「別れ」を告げるのだ―ハイポジションの弦楽の響きと長いコーダがそれを象徴している。アダージョでの終結はチャイコフスキーの「悲愴」を思わせるが、そちらの方が圧倒的に暗く、絶望に沈んでゆく。マーラーは第6番以外、全て長調で作品を閉じる。第9番も同様で、受ける印象は (ブルーノ・ワルターに倣えば)「白い雲が浮かんだ蒼い空」に吸い込まれるイメージである。その透明感はマーラーが臨終の床で発した (同じMの頭文字で始まる) 作曲家の晩年の音楽に通じる。

その後マーラーは当時のシンフォニストとしては前人未到の第10交響曲に着手するも、「騙されたフリをしていた運命」によって打ち倒されてしまう(本命の「ハンマー」か)。その第10番は第9番以上に「晩年様式」を感じない。ブルックナーの場合のように「天国モード」ではないのだ。むしろ「地上での事柄」に溢れている。そこにあるのは「ねたみ」や「嫉妬」だ―それは現実的に「生きている」証拠でもある。現世的にドロドロしたものを音楽に感じるのだ。ここにも先述の作曲家Mと似た感触を覚える。


最後にもう一人、ショスタコーヴィチを挙げようと思う。僕はあまり聞かない作曲家だが、作品番号の大きい作品―たとえばヴァイオリン・ソナタやヴィオラ・ソナタ、弦楽四重奏曲第13~15番や交響曲第14~15番などがベートーヴェンと同様「晩年様式」に当てはまる可能性がある。どれも、晦渋さや深刻さの点で他の時期の作品よりも際立っている。自分の内側に引きこもり、哲学的な文句をつぶやいてるイメージだ。晩年特有の「回想シーン」は特に交響曲第15番に顕著だが、あまり深刻でないのが不思議と面白い。この曲と弦楽四重奏曲第13番については時々聞いてみたいと思う時がある。


やはり、作曲家たちの「晩年様式」の作品は今もこれからも、僕を魅了し続けることだろう―。






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