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編曲の楽しみ

✳️この記事は2020年12月に投稿した内容に基づいています


この度は「編曲モノ」について、その奥深さにできる範囲で多角的に迫ってゆきたいと思います。
暫しのひととき、どうぞお付き合いください―。



少なからず「原典主義」の影響が避けられないクラシック音楽

僕もかつては「原曲が一番」みたいな考え方をしていた。ただ以前より心が広くなったのか、拘りが減ったのか、どうでもよくなったのか、ハンドルには遊びがあることを思い出したからか、僕自身が変容を迎えたからか、は解らないが、ようやく「編曲版」の作品を楽しめるようになった。思えば、初めて書いたブログの最初の2つの記事は「編曲モノ」であった。

人は進歩できるのである―。



なかなか「原典主義」の影響が避けられないクラシック音楽

ポップスで「編曲」は当たり前のことである。「カバー曲」の方が有名ってのも、ざらにある。懐かしい曲に新たな装いが与えられる。僕はハイトーン・ヴォイスが好きなので、徳永英明が「カバーした」アルバムを聞いていた頃があった。昔の曲のイメージが強められたり、刷新されたり―。彼の歌声からは作品への征服欲ではなく、敬意や愛着が感じられた。


バッハが生きていた時代は、自分の作品はおろか、他人の作品を勝手に編曲してもナンボの世界だった。
実際、バッハもヴィヴァルディやマルチェッロの協奏曲を原曲を尊重しつつ編曲している。

なんて寛容な時代―。

自身の作品の編曲についてもそうだ。様々な楽器に対応させるため、様々な機会に演奏するため、多くの自作が編曲されてきた。例えば「バッハ/ピアノ協奏曲第1番ニ短調BWV1052」には、僕が知る限り4つの演奏ヴァージョンがある―。

ピアノ協奏曲版。アンドレイ・ガヴリーロフのガツガツしたソロが面白い。

ハープシコード「英」(チェンバロ「独」)協奏曲版。ジャン・ロンドーの刺激的な演奏で。

こちらは復元版 (ヴァイオリン協奏曲)。佐藤俊介のキレッキレのソロで―。

カンタータ第146番「われら多くの艱難を乗り越え」ではBWV1052と同じ音楽が聴ける。調べたら、他にもBWV1052a(異稿)によるオルガン協奏曲も存在するようだ―。



どうしても「原典主義」の影響が避けられないクラシック音楽―。

作曲当時の時代背景もある―「古典派」の時代においては、「交響曲」や「協奏曲」をピアノやヴァイオリン、フルートなどの家庭的な楽器で普及させるための編曲版が普通のように出版されていた。楽章ごとの「切り売り」も普通のことであった―「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の逸話が思い出される。

作曲者自身の編曲によるベートーヴェン/交響曲第2番のピアノトリオ版~第1楽章。聞いてて何の遜色も感じないほど見事に室内楽化している。


「ロマン派」においては、シューマンは「教育用」と称し、バッハ/無伴奏ヴァイオリンやチェロ作品にピアノ伴奏を添えて編曲を試み、リストをはじめとするヴィルトゥオーゾたちは「自分の楽器」のために、ベートーヴェン/交響曲全曲やオペラのアリアに至るまで、ためらうことなくピアノ用に編曲した。ブラームスはシューマンや自身の作品のピアノ連弾版を多数残している。室内楽や管弦楽作品はピアノ連弾用に編曲されることが当時は普通であったようである。

タネ―エフ編曲4手ピアノ版によるチャイコフスキー/交響曲第4番~第1楽章。普段チャイコフスキーは聞かないが、交響曲第4番は結構好きだ。なかなかの熱演だが、オーバーアクションも目立つ。

クレンペラー/バイエルン放送soによるメンデルスゾーン/「スコットランド」~第4楽章。コーダかクレンペラーによって短調の終結に書き換えている。


シェーンベルクは「私的演奏協会」のため、バッハやヘンデルといったバロック作品や、ウィンナ・ワルツ、ドビュッシーの「牧神」などを室内アンサンブル用に編曲し直す。彼のシンパたちも多くの編曲に携わることになる。自身の「室内交響曲第1番」をフル・オーケストラ版にするという自己矛盾も面白い―。
最初のブログでも取り上げた「ブラームス/ピアノ四重奏曲第1番」の (こちらも大規模な) オーケストラ編曲版を彼は自信作とみなし「ブラームスの第5交響曲」とまで呼んだそうだ。

シェーンベルク編曲によるヨハン・シュトラウス2世/「南国のバラ」Op.388。弦楽四重奏にピアノ、ハルモニウムという編成で親密に奏でられる。



19世紀までの「表現主義」から、20世紀初頭からの「新即物主義」への移行―。

やがて演奏芸術の進展により、時代考証に基づくピリオド演奏の普及が始まることで「オリジナル志向」「原典尊重」の傾向が高まってきたように思う。
「リピート重視」「当時の楽器と奏法で」「未完成」は未完成のままに―。

ヴァレリー・アファナシエフは「モーツァルト/レクイエム」を「ラクリモーサ」の開始8小節(ここで絶筆となった)までしか聞かない―と言っていた。僕が所有しているCDの演奏はこの作品をフラグメントとして扱い、現代曲で補っている。


「補完」を「編曲」とみなすなら、数々の名曲たちが該当することになるだろう。そして僕たちは確実に、その恩恵を受けている―。

マーラー/交響曲第10番はまさに「補筆」の恩恵を受けている代表例だろう。多くの版の中で、このバルシャイ版は打楽器の使用が多彩で、聞いてて楽しい。



「原典版」「編曲版」が自由な選択肢となったクラシック音楽―。

編曲により、また編成が変わることで新たな魅力に気づくことがある。僕にとっては (前述の) マーラー/「大地の歌」がそうだった。この作品の多くの演奏に少し辟易していたからだ。室内楽版により、テクスチュアの透明度が遥かに増した。作品の核心となっている要素が、ある意味「剥き出し」にされたのだ。

「小品集」のようなアルバムでは、とりわけ「編曲」が生きてくる―。最近リリースされた木嶋真優によるヴィヴァルディ/「四季」には、AKB48/「恋するフォーチュンクッキー」のヴァイオリン編曲版がカップリングされている。「四季」では鳥の声をフューチャーしたりと様々な工夫がなされているようだ―。


「編曲」にとどまらず、現代の作曲家たちにより「再作曲」がなされた作品がある。その1つにマックス・リヒター (1966-) による再作曲されたヴィヴァルディ/「四季」がある。

CDではホープ盤が出ているが、演奏はこちらがよりダークネスで素晴らしい。庄司紗矢香は「心の闇」へフォーカスしているように感じられる。

他に、ハンス・ツェンダーはシューベルト/「冬の旅」や「シューマン/幻想曲ハ長調」にオーケストレーションを施し、ルチアーノ・ベリオは「ブラームス/クラリネット・ソナタ第1番」を協奏曲風にしたり、「ビートルズ」も編曲している (武満徹もそうだった)。

思わず聞きほれてしまう、秀逸な編曲。世界初録音のCDもあるようだ。


実に、ここに書ききれないほど沢山の「編曲版」がこの世界には溢れている。「原典主義」は録音媒体が溢れかえった現代の傾向の1つでしかないのだ。

選択は僕たちに任せられている―。

今日ほど、あらゆる形態の音楽に親しめる時代はかつてなかったかもしれない。だとしたら、現代に生を受けた僕たちは本当に幸せな存在といえるのではないだろうか―。


「編曲の楽しみ」 ご案内は新芽 取亜でした―。 

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