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始皇帝 中華統一の思想 『キングダム』で解く中国大陸の謎【読書感想】

人類史上、中国ほど何度も統一された国はほかに存在しない。ローマ帝国は崩壊後、二度と再興しなかった。インド半島の大部分を平定したマウリヤ朝も、アショーカ王の死後に分裂し近代まで統一されなかった。

それに対し、中国は例外はあるにせよ、2200年前から中央集権体制で統一された状態が基本であった。その淵源は本書のタイトルにもある「始皇帝」による初の統一帝国・秦にあるというのが本書の主張だ。

なぜ中国は統一されなくてはならないのか?

中国は何度も国が変わっている。しかし、不思議なことに、新しい国と支配者でも統治のシステムはほとんど変わらないのだ。(モンゴルに支配された元など例外はある)。

広大な領土を効率良く治めるなら地方は領主に任せるのが普通だ。遠い地ほどコミュニケーションが難しく、その地のことを一任する封建制のほうが楽だからだ。

しかし、中華はあくまで、地方自治を許さず困難を伴う中央集権型統治を徹底する。例えば三国志でも各国はすでに広大な土地を持っていた。ならば軍事は自国の防衛に留め、国を富ませる方向にかじを切っても良いように思えるが、三国とも他国への出兵を繰り返し続けた。

結論としては、これを維持した理由の一つに匈奴と呼ばれる外部への脅威がある。安全保障を考えると、封建制より中央集権国家が良いというわけだ。実際に、漢の劉邦も統一後、封建制と共存する「ゆるやかな中央集権国家」を作った後、匈奴に攻められ妻を差し出すなどの屈辱を味わっている。

筆者は「秦の始皇帝の統治にその淵源がある」と言う。正確には、秦の後の漢で統治のモデルが出来上がり、それを新政権も参照している。秦がどのような国だったかを語るには、まず秦が生まれる以前の社会を振り返る必要がある。

秦の始皇帝 国歴代皇帝トランプより

「秦」以前の社会とは
「キングダム」以前の社会はどのようなものだったか。中国史において紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代を「春秋戦国時代」と呼ぶ。

この時代、氏族制度が社会の基盤であった。当時の国の単位は「邑(ゆう)」と呼ばれる”城”であった。城壁に囲まれた領域である。基本的に君主が治めているのは邑の内側で、白の外側は支配できていない。邑単位で点と点が結びついて国家の形を成していた。当然、邑の外で暮らす人も大勢いた。

制度面では血縁関係による身分制度である「氏族制」がベースとなっていた。町長、警察組織の長といった権力者に誰が就くかはすべて血筋で決まっている。嫡子はリーダーになれても分家は補佐役にしかなれない。この身分の壁は強固なものであったし、当然ながら町の権力者は大きな領土を統べる君主には逆らえない。

なぜ氏族制は崩れたのか?

氏族制度が成り立っていた理由の一つに、当時の農業効率の悪さがある。各家族で耕作しても十分な量を収穫できないため、大規模農業と集団生活は欠かせなかった。血縁が無くても一族同士がつながるのだ。異なる氏族で軋轢を起こさないよう、「祖先神信仰」が共有されていた。これは血筋をたどれば我々は同じ偉人の血筋であり、その偉人のパワーを色濃く受け継いでいる人が次世代に相応しいという理屈だ。

だが、農業生産効率が上がるとこの体制の必要性はなくなる。「鉄の大量生産」と鉄を使った犂を牛に引かせて畑を耕す「牛犂耕(ぎゅうりこう)」によって、農業革命が起こると生産力は何倍も変わったと推測されている。生産力が上がると、独自に耕作に適した地を開墾すれば分家であっても本家より豊かになれる可能性が出てくる。独立する集団も出てくる。

牛(犂)耕の様子

秦だけが氏族制を高速で解体できた理由とは

氏族制は緩んでいたが、崩壊には遠く、多くの国では統一はまだ先と思われていた。秦のみが「法家改革」を断行し、偶然や強い意志を持つ幾人もの変革者によって急速な解体に成功した。

法家は現代の法律とはやや異なる。基本は厳格なルールを設け、「信賞必罰」を徹底する思想を持つ。君主だけは別だが、逆に言うと君主以外はルールの下で平等であるため、ピラミッド型の権力構造である氏族制度と真っ向から対立するものでもあった。

法家の代表者が商鞅(しょうおう)である。キングダムより少し前、紀元前361年の頃の秦王である老公が商鞅を迎え入れたことを、筆者は「のちの世から見れば秦の最も大きな転換点」と評する。

法の下の平等と言うと聞こえはいいが、実際の統治はコミュニティの分断を徹底していた。例えば「分異の令」。1つの家に2人以上の男子がいる場合、次男以下を家から追い出し、強制的に分家させるというものだ。分家すると国が指定した遠い地に行くことになる。

さらに、地域共同体としては縁もゆかりもない5つの家族を集め、1組として編成し、組内で相互監視させた。告発されなかった悪事が発覚すると、5家族全体が処罰される。合わせて、祖先神を祀っている霊廟も尽く破壊された。

このようにその土地の支配者の権威を否定し、権力を解体して、そのパワーをすべて君主が吸い上げる恐怖政治を形作ったのだった。

なぜ秦だけが法家のど導入に成功したのか?

氏族制の解体という流れは自明だった。実は楚も呉起という人物が、法家の導入に挑んでいた。しかし、既得権益の反発は大きく、呉起は王もろとも暗殺されてしまう。その時は自らの身体を王の身体に被せた。これにより矢を射た人物は英雄から王の身体を傷つけた罪人となり、処刑されてしまう。最後は自分の身を呈してまで法家思想を植え付けようとしたが、王の交代後は氏族制に戻ってしまう。既得権益の反発が大きすぎて抑えきれなかったのだ。

一方の秦は西の外れに位置する田舎の小国である。辺境の新興国ゆえ、強い氏族的特権を持つものが少なく、大きな反発は起きなかった。

現代でも既存のビジネスモデルを捨てられない大企業がフットワークの軽いベンチャーに負けることがある。図式としては国や時代を超えて見いだせると言える。最も、秦の国民が幸せだったかは別だが。

本書の所感

キングダムを参照しながら始皇帝とその周辺を掘り下げた本書は読みやすく、個人的に何度も読み返したくなる良書であった。驚いたのは、キングダムがかなり歴史を研究した上で作られていたことだ。

個人的にはキングダムの戦争描写はワープが多すぎてあまり好きではなく、歴史描写に関しては疑っていたのだが、文化やキャラクターも当時の思想もかなり研究されている(正確に反映しているわけではないが)。始皇帝は中華の統一後、歴史上は暴君となり秦を約15年という一瞬で崩壊させたが、物語ではどうなるのか。楽しみである。

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