【読書感想】論語と算盤
渋沢栄一という「資本主義の父」
JR、日経新聞、東京ガス、サッポロビール、みずほ銀行…
私達が普段触れているこれらの身近な企業、すべての創立に携わっているのが渋沢栄一だ。近代的な金融システムや企業の構築に力を尽くし、「日本資本主義の父」と評される。新しい1万円札の顔であり、大河ドラマ『晴天を衝け』の主人公にもなった。
本書は渋沢栄一自身が執筆したのではなく、講演をまとめたものである。タイトルの通り孔子の「論語」についてと、算盤は資本主義や商売について語っている。
商売をするなら論語を学べ!
本書のメッセージを要約すると「商売をするなら、人としてどうあるべきかを(論語から)学びなさい」になると思う。道徳(論語)と商売(算盤)どちらかだけではダメで、どっちも意識するから豊かになる。これは国家や社会全体の話としては疑う余地が無いと思う。
個人的には、少し飛躍した理解かもしれないが、一つの企業・個人単位でも「長期的利益を得るには結局道徳規範に従い、信用を得ることが一番いい」という意味でも受け取った。
論語は江戸時代から盛んに研究された学問だが、明治時代は富を否定する思想だとの誤解が当時あったそうだ。その理由は、孔子の弟子である孟子から来ている。
一方で、祖である孔子は富を否定していない。
道徳を扱った書物と「商才」は何の関係も無い様だが、渋沢からすれば不道徳や嘘、外面ばかりで中身のない「商才」など、決して本当の商才ではない。
なぜ論語か?
渋沢は1873年に大蔵省の官僚を辞めて、実業界に入ることになった。渋沢曰く、当時の日本は政治でも教育でも改善が必要だったが、最も遅れていたのが商売だった。商売を振興していかないと日本は豊かになれない。
それまで、学問や官僚の世界では商売を馬鹿にする向きがあったという。「売り家と唐様で書く三代目」(初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになる。その家は唐模様で美しい)と言って揶揄する風潮があった。学問を覚えれば却って商売には害であるとまで言われていた。
一方で今後の日本には商売の振興は必須。では自分は商売でどのような志を持てばいいのか。最も”傷のない”と感じた学問である論語に従って商売を興そうと考えたのだという。そのため、渋沢は商売をする一方で論語の研究を怠らなかった。
実業と武士道
ところで、論語は元々中国の学問。日本が学び、昇華した道徳思想としては「武士道」がある。
しかし、商売と武士道は相性が悪かった。「武士は食わねど高楊枝」という忍耐を推奨する言葉もあるが、商売人とは水と油の思想と言えるだろう。
実際のところ、明治期の商人は武士道への理解が浅く、「正義」「廉直」「義侠」を掲げていては立ち行かないと考えていたのだという。
武士道の側も、儒学者は経済活動と道徳が相容れないと考えていた。
しかし、「商人にも商業道徳がないと真の豊かさは実現不可能だ」と渋沢は指摘する。実際のところ、「道徳がない」と思われることは国際的な商売において明確に損である。当時の日本の商人は欧米から「信用できない」と思われ、警戒されてしまっていた。背景には、江戸時代の間に儒学者によって富と社会正義が相反するものだという思想が形だけ受け継がれてしまった弊害がある。
しかし、注意すべき点もある。渋沢は日本の商業道徳に満足はしていないが、「何が正しいか」というのは国によって違うことを忘れてはいけないと
言う。
例えば西洋と比較して倫理が劣っていると批判される。しかし個人を重視する西洋と、君主や父子の関係を重視する日本では、そもそも何が正しいかは異なる。これを理解せずに表面だけとらえて「日本人は契約を軽んじる」と批判するのは的外れである。
本書の所感
本書を通して読むと「商売にも人生にも道徳が必要である」ということが繰り返し伝わってきた。名著と言われるだけあって、現代で十分通じる思想が盛り込まれている。おそらく、読み返すたびに違う捉え方ができるのではないかと思う。
少し残念だったのは、論語である必然性はあまり感じられず、渋沢個人の好みという印象しか受けなかった。論語は素晴らしい道徳規範だと思うが、商売と相性はいいのだろうか?現代だとドラッガーとかの方が良いのかもしれない。渋沢自身も指摘しているが、論語が生まれた時代は明らかに商業主義・資本主義の現代や明治期と社会構造が異なっている。
しかし、志と道徳を持って商売をすべきということは間違いなく現代にも通じるメッセージなのだと思う。
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