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「ブラックチョコレート」 上

今年もこの季節がやってきてしまった。そう、バレンタインの季節が。決して私はバレンタインというイベント自体にケチをつけたい訳ではない。普段気持ちを伝えることが苦手な人でも、比較的気持ちが伝えやすいように、イベント自体が事前にお膳立てしてくれているように感じる。この構造はとても素敵な物ではないかと私自身、強く思う。しかし今述べたのは、あくまで想いを伝えるためにチョコレートを渡す人々の思想であることを忘れてはならない。私が問題視しているのは、常にバレンタインというイベントにおいて、私は貰う立場にあるということである。まあ貰う立場にあると言っても、貰ったことは1度たりともないのだが。ただ貰ってしまった場合、1ヶ月後のホワイトデーまでに丁度いいお返しを考えなければならないという大きなミッションが待っている。この事態だけは絶対に避けたい。避ける方法はただ一つ。バレンタインの日に何かの間違いでチョコレートを貰わないように気をつけることだ。ただこの変わった思想を持ち合わせてからというもの、1度も貰わずに上手いことやってきた。私の元に14回目のバレンタインが訪れた。
これは学校で常にカースト下位に存在する男が義理チョコを突然貰って、動揺しながらも孤軍奮闘する物語である。

1月の下旬にある中間試験を終えて、帰宅部だった私は退屈な毎日を送っていた。帰りのホームルームが終わって、他の生徒は部活に行く支度を始める。そんな人達を横目に今日の授業でやった事の復習をしようと教材とノートをカバンの中から取り出す。ただこれは周りに対するフェイクである。帰宅部であるのにも関わらず、すぐに帰らないのは部活動に勤しむ人達にとって、あまりにも不自然な行為なのだ。その行為の違和感を払拭するために「学校で自習をしてから帰る。」というフリをしているのだ。しかしこんな馬鹿げた行為をしてまで学校に残っている理由は特にないのだ。学校に残っていたいという感情よりも家に帰るのが面倒臭いという感情の方が少しだけ勝っている。この二つの感情のせめぎ合いが毎日のように脳内で巻き起こる。全く困ったものである。
いざ自習し始めると、意外と没頭して時間の経過などすぐに忘れてしまう。ふと気がついて窓の方に目をやれば、街に立ち並ぶ家々がすっかり暗闇の中に包まれてゆく。そして時計が指し示す時刻は18時30分。最終下校の時刻だ。慌てて帰りの支度を済ませて、玄関前に向かう。そこには部活終わりのクラスメイトが何人か入り浸って、雑談を交わしていた。下駄箱に入った靴をすぐに取り出して帰りたいのだが、彼らに下駄箱の前に立たれてしまっているため帰れそうにない。一言声をかけて、下駄箱の前から退いてもらうように促せばいいではないかと、普通の人なら思うのかもしれない。ただ残念なことに私は、学校カーストにおける最下層に君臨する生粋の陰キャである。そんな私からすれば、一声かけるためにどれだけのエネルギーを要するかなど計り知れない。ただその場で待っているだけで精一杯だった。戸惑う私の姿を見て察してくれたのか、彼らはすぐにそこから立ち去ってくれた。その内の女の子が私に向かって「邪魔しちゃってごめんね。」とだけ言い残してその場を後にした。彼らの気遣いのおかげで無事、下校することに成功した私であった。

そういえばさっき、「どこまであげればいいのかな」とか何とか言ってたな。帰りの電車をホームで待ちながら彼らが玄関前で話していたことを思い出していた。部活終わりで話していたクラスメイトは男子2人、女子2人。女子の内の1人は学年でも男子の間で特に人気な人物であった。名前は、「ユカ」彼女は卓球部に所属しており、来年には部長になるのではないかと学年で噂になっていた。部活だけでなく、学業にもしっかり力を入れており常に成績は上位五名に入れるほどに優秀であった。これでまた優しさと愛嬌を兼ね備えている。この性格の良さから学年の中では愛されキャラとして定着していた。先程玄関前で一言声をかけてくれたのも、ユカである。ユカはカースト下位にいる私に対しても優しく接してくれる。その一方でもう1人の女子はユカと同じグループに所属することによって、さも自分も愛されキャラであるかのように装っていた。ただ一部の人にはその策略がバレていたため、非常に印象が悪かった。ちなみに私はその事実に気づいていた内の一人である。幼い頃から高い洞察力を持ち合わせていたため、彼女の魂胆を見破ることなど私にとっては容易であった。そんな彼女の名前は「アユミ」
アユミの言葉を受けてユカが「どこまであげればいいかな。」という不思議な文言を発したのだ。アユミの言葉をちゃんと聞いていれば、もう少し有意義な考察をすることが出来たのに。まあ安直ではあるが、2月の上旬という時期から考察すればおそらくは、「バレンタイン」であろう。きっとそうに違いない。まあカースト下位にいる私には縁のないイベントであることは間違いないが、もしもということがあるかもしれない。アユミはバスケ部に入っているため、部員のチョコを渡す可能性はあるが、わざわざクラスメイトのチョコを配るような奴ではない。アユミがわたしに義理チョコなどという物を渡してくる可能性は極めて低い。問題はユカの方なのだ。去年、ユカはバレンタインにチョコを作ってきて渡すという行為そのものをやっていなかった。しかしここ一年のアユミという存在の急激な接近によって、ユカの中で大きな感情の変化があった可能性は否定できない。その変化から漏れだした言葉が「どこまであげればいいかな。」であったとすると、これは緊急事態である。ユカは誰にでも優しく、仲間はずれのような行為を酷く嫌うタイプなのだ。その優しさがバレンタインというイベントとどうにもミスマッチな気がしてならない。今からこの問題を重要視しても既に遅いということは分かっている。ただユカのあの一言が頭の中で何度も繰り返されて気がおかしくなると同時に、不安な気持ちで心が一杯になっていくのをゆっくりと感じていた。

今日は金曜日。週末が明けてすぐの月曜日がバレンタイン当日である。なんとかして当日チョコレートを貰わないようにしなければという気持ちで頭がいっぱいになる。当日は特に誰とも話さない覚悟で挑まなければならない。そして誰からも話しかけられないように、上手いこと立ち回らなければならない。当日の作戦を電車の中で微糖の缶コーヒーを啜りながら考える。万が一、チョコレートを貰ってしまいホワイトデーという悪魔の一日がやってくることになったら私は一体どうなってしまうのだろうか。そんなまだ起こるかも分からないような妄想にふけていたら、急激な眠気に襲われ眠りにつく。気がついた時には最寄りの駅に着いていた。慌てて電車から飛び降りて、残ってた缶コーヒーを一気に飲み干す。微糖特有の苦味と甘さが織りなす味を最後の一滴まで十分に味わう。
「微糖もいいけど、やっぱりブラックの方が美味しいよな。」
誰にぶつける訳でもないイチャモンを心の中で呟く。甘さの中に消えてゆく仄かな苦味が今の私にはもっと必要なのだということを直感で理解する。苦みで脳内の中で複雑に絡み合う思考回路をシャットダウンさせたかった。缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨てて、改札へ向かう。

改札へ向かっていく中学生の後ろ姿はどこかもの寂しく、不安な雰囲気がそこはかとなく漂っていた。

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