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【連載小説】韓信 第29話:破局の訪れ

第4部

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

破局の訪れ

 この文化圏には、伝統的に権力者がその威信を保つための理屈がある。その理屈とは極めて独特なもので、権力者とは天地自然に認められた人智を越えた存在であり、余人がそのことに疑いを差し挟むことは許されない、というものである。また、権力者は権力を得たその日から遡って、この世に生を受けた日からその資格を得ていた、と定義されるものである。つまり、権力者となる人物はあらかじめ定められた運命によって権力を得るのであり、人々が恣意的にそれを覆そうとしても無駄だ、というわけだ。

 要するに、この文化圏に住む人々には、自分たちの指導者を選ぶ権利がない。つまり彼らには、主権というものがないのだ。しかもそれは現代に至るまで変わることがなく、この文化圏の伝統的な社会のあり方となっている。実に悲しいことではないか。

 劉邦はこの伝統を具現化させた歴史上の人物のひとりである。私は思う。彼は実に罪深い人物であると。


 定陶。

 かつて項梁が命を落とした地。このとき、定陶は梁に属する。

 韓信は、あちこちに潜む楚の残党に進路を阻まれながら、ようやく済水のほとりに位置するこの地にたどり着き、兵に休息を与えた。梁は彭越が支配する友邦の地ではあったが、用心深い韓信が随所に軍塁を築き、警戒を怠らなかったことは言うまでもない。このため、兵たちにとって本当の意味での休息はなかった。

 定陶にたどり着いたと言っても、もちろん堂々と城門の前で休むわけではなく、必要以上に目立たぬよう遠くに城門を望む位置に軍を留め、なおかつ敵の目の届かない山陰に身を潜めて、休息をとるのである。必然的に野営する形になるわけだが、それも遠征軍としては仕方のないことであった。


 あたりが夕闇に包まれ、星が見えてくるころになると、遠目に見える定陶の城壁の上に灯がともった。橙色に光り輝いた城市の姿は、まるで幻のように闇に浮かぶ。兵たちの中には夜の町に遊ぶ平和な日々を連想し、涙を流す者もいた。


 しかし韓信の頭の中には、そのようなものはない。

 彼の頭の中には、かつてこの城市で松明の明かりの下、演説をした章邯の姿があるばかりであった。

「……賊は誅罰されるものであり、討つにあたって我々は礼儀など必要としない。ただ、殺せばよいのだ!」


 恐れを抱きつつも、圧倒的な章邯の存在感にうちひしがれた自分。

 あのとき自分は知らず知らずのうちに章邯に憧れを抱いたのかもしれない。


「大秦万歳!」

 秦の兵卒たちのあの一体感。どうやってあれほど彼らを統率することができたのだろうか。軍の指揮能力に自信がないわけではないが、自分には兵を熱狂させるなにかが足りないのかもしれない。


 韓信はぼんやりと輝く定陶の灯を見ながら、そんなことを考えた。しかし考えても答えが見つかるわけではない。

 そもそも彼には熱狂する兵の気持ちがわからなかった。

 というのは、彼自身が誰かに熱狂するほどの忠誠を誓ったことがないからである。


 例えば彼は、冗談でも「大漢万歳」などとは言ったことがなく、ましてや「大斉万歳」などと叫び、兵を鼓舞しようとしたことはなかった。

 だとすれば、彼はなんのために戦ってきたのか。

 漢王のためか? 少し違う。

 では項王を倒すためか? それも違う気がした。確かに項王は彼を重用せず、身内の者ばかりを厚く遇した。しかし、だからといって殺したいほど憎いというわけではない。


 やはり自分は戦いたかったから戦った、ただそれだけなのだ、と韓信は思わざるを得ない。戦い自体に目的はなく、なんの主義主張もなしに道具のように人を殺す、ただの職業的殺し屋なのだ、と彼はやや自嘲的に思うのであった。

 そんな自分が身分不相応にも王を称し、望みもしないのに人の上に立つことになった。

 その報いは主君からのいわれのない不信の目。

 あげくはたったひとりの愛した女性を失うという目も当てられない悲劇。

 しかし、それらはすべて自分がさしたる理由もなしに戦いを好んだがために生じた出来事なのだ、と韓信は考えるのである。

 したがって、彼には誰を責めようもない。


――あの城壁……。

 かつて生爪を剥がしながらよじ登った城壁が見える。

 あらためて見ると、城壁は相当に高く、人の背丈の十倍はありそうかと思えるほどであった。また、この時代の城壁の多くは土を固めたものに過ぎないが、その構造は頑丈である。土だからといって指を突き刺したとしても、穴が開いたりすることはめったにない。


――我ながら、よくあの壁を乗り越えたものだ……。

 人間は生命の危機を感じると、本能で潜在的な力を発揮するというが、あの時の自分がまさにそうであった、と韓信は思わざるを得ない。

 次々と討ち取られていく仲間を尻目に、彼らを助けようともせず、生き残ることだけを考え、あたふたと逃げ回った自分。自分の命が危機に晒されているとき、当時の主君である項梁を守ろうなどとは露ほども考えなかった自分がそこにいた。


――項梁に心酔している者ならば、守ったかもしれぬ。しかし、あの時の私は……いや、今でも私には自分の命を賭けてまで守ろうとする者はない。

 項梁が劉邦であったとしても、自分は見捨てただろう、と韓信は思うのである。


――あるいはあの時私の隣にいたのが蘭であったら……。

 守ろうとするに違いない。彼が死を賭してまで守ろうとする相手は、蘭しかいなかった。

 しかし、その蘭ももういない。


――なんとも死に甲斐のない人生ではないか。

 あるいはそれは生き甲斐よりも重要なことだったかもしれない。特にこの時代の武人にとっては、自分がなんのために、どうやって死ぬかということは、どのように生きたかということより大切なことなのである。


「……士というものは、自分の死も劇的に演出するものだ」

 かつて酈生は韓信に残した書簡の中で、そう語った。

 死を目前にすると、その人物の本性が現れる。自分の信じた生き方を貫こうとすれば、死を前にして恐怖をあらわすことは許されない。それは自分で自分の生き方を否定することであり、どれだけ美しく生きたとしても最後に醜態をさらすことになるのであった。

 少なくとも当時、士を自称した人物はそう信じたのである。


 だが韓信はすでに蘭を失い、自分の死に様を表現することもできない。

――私を残して先に逝くとは……君は私にどう生きよ、というのか……。


 過去の出来事から未来への不安を連想していくうちに、すっかり夜もふけ、韓信はまどろんだ。冬の寒さの中でも平気で眠気を催す自分が恨めしい。


 その夜、韓信は蘭の夢を見た。


 夢に現れた蘭の姿は、見慣れた軍装だったかと思うと、次の瞬間には一糸もまとわぬ裸身であったりした。


 夢の中の彼女は、脈絡もなく目の前で弓を放っていたり、なにかを語りかけてきたりする。しかし、その話の内容がどのようなものなのか、韓信は自分の頭にどうしても理解させることができない。

 彼はそれにもどかしい思いを抱いたが、その思いさえ現実のものではない。すべて夢の中のことなのである。

 さらに彼を苛立たせたのは、美しいはずの蘭の裸身が、わずかに不鮮明だったことである。現実の世界では、彼はほんの数度、しかも暗がりでしか見たことがなかったため、頭の中にそれを細部にわたって焼き付けることができなかったからであった。

 夢から覚めたとき、彼が思ったのは深い後悔と、おぼろげに感じられる不安であった。

 夢の中の蘭は、具体的になにを告げているのかわからなかったが、どうも注意を促していたように思われる。たとえ夢でも彼女に再会できたことを喜ぶより、韓信にはそのことの方が気にかかった。


 既に夜が開け始め、辺りには気の早い鳥の声が響いていた。城壁の灯は既に消えている。彼がそれに気付いたとき、鳥の声に混じって後方から兵の怒号が聞こえてきた。

「何ごとだ」

 夜警を担当していた兵たちにそう尋ねてみたが、混乱しているようで返答は要領を得ない。

 前方にいた兵士たちにとって、このとき自軍内に何が起こっているのか正確に判断することは難しかったようである。三十万という大軍の弊害が、ここにあった。


 後方部隊からの伝令が韓信のもとに駆けつけたのは、それから数刻してからである。その伝令が息を切らしながら韓信の前で跪き、告げた。

「後ろから、襲撃を受けました」

 報告内容の意外さに韓信は思わず声を荒げた。

「後ろだと!」

 楚の残党か、それとも彭越の手の者か?

「いったい、どこの敵だ」

 伝令は答えて言った。

「漢軍です。敵は漢。しかも漢王直属の部隊です」

「漢王が……!」

「すでに後方の部隊は包囲され、兵は奪われつつあります」


 これを聞いた韓信の目が、怒りに燃えた。

「……寝ている者たちを起こせ! 中軍の陣形を組み直し、鶴翼の陣を敷け。後方に迫る敵を包囲しつつ、敗兵を収容するのだ。これ以上兵を奪われるな!」

 韓信は全軍にそう指示を出し、自らも馬に乗り、駆け出そうとした。


「対抗するのですか」

 漢王の軍を相手に戦うということに、斉兵の誰もが尻込みをした。韓信自身も決して乗り気だったわけではない。しかし、楚が事実上滅びた今、劉邦は増長し、思いのままに振る舞おうとしているのは明らかであった。韓信は斉の元首として、それをどこかで止めなければならない。

「当然だ」

 そう言い残し、韓信は数名の部下を引き連れ、敵陣近くまで突進していった。


 韓信の軍に目立った将はいない。常に韓信自身が直接軍の指揮をとり続けたため、その必要がなかったためである。

 当初、斉兵の多くは韓信に馴染まず、なかなか言うことを聞こうとしなかった。しかし韓信の軍事における指示は微に入り細を穿つもので、彼らがかつて仕えた田栄や田横とはまるで違った。

 もともと名族の出だった彼らは、兵を酷使し、必要以上に叱責する。そのおかげで現場はぴりりとした空気に包まれることは確かだったが、肝心な場面では、具体的な指示はなかった。

 窮地に立たされ、どうすればいいか迷っているときに彼らが受ける指示は、「命を捨てて戦え」という非常に抽象的なものでしかなかったのである。

 一方韓信は、そのようなときに細かく指示を出した。右に逃れよ、左に逃れよ、と。そしてその指示に従えば、自分たちの命が助かる。そればかりか、形勢を逆転し、最終的に勝つことができたのであった。


 このため韓信に対する斉兵の信頼は高まっていた。しかし、一方でこのことが韓信のいない場所では斉の兵は弱いという結果を生んだ。皮肉なことに、兵が自分の頭で考えるということをしなくなったのである。

 このときの混乱も、そのことが生んだ弊害と言ってもよい。韓信の目の届かない後方でそれは起き、彼が駆けつけると事態は収束に向かったのだった。


 韓信が姿を見せると、兵たちは落ち着きを取り戻し、統率された動きを見せ始めた。後方部隊を包囲している漢兵たちを大きく両側から取り囲み、さらに包囲する態勢をとったのである。この結果、戦場の様相は三重の輪のような形となった。その一番外側は、韓信率いる軍である。もっとも有利な場所を、彼は本能的に選んだのであった。

 だが、相手は友軍だということもあり、激しく攻めたてるということはしない。包囲しかえすという行為によって、無言の圧力を加えたのである。

 漢は包囲している斉軍後方部隊を攻撃することができない。攻撃すれば、韓信に攻められるからである。いっぽう韓信も漢軍を攻撃できない。攻撃しようとすれば、漢軍は報復として後方部隊を殲滅しようとする素振りを見せたからである。これにより戦場は膠着状態となり、双方ともに動きがとれなくなった。


 そのような睨み合いが小一時間も続いたころ、漢の側に動きが見えた。劉邦が車に乗り、その姿を現したのである。

 韓信もこれを見つけ、睨むように劉邦を見据えると、挑戦的な口調で言い放った。


「漢王。混乱のさなかとあって、馬上から失礼する」


 まず最初に跪かないことを宣言した韓信は、問いつめるように言葉を継いだ。

「このたびの襲撃は、いったいどういうことか、ご説明いただきたい……。漢は斉に宣戦布告した、ということか。それとも我が斉兵の一部になにか礼を失した行為があり、それを誅罰なさっているのか。……楚が滅び、天下の覇者となり仰せた漢王に対して甚だ不遜ではあるが、ご返答によっては、しかるべくの対抗措置を取らざるを得ない。お覚悟はよろしいか」

 常になく断固とした韓信の物言いであったが、劉邦はこれに対して反応しない。

 かわって返答したのは御者の夏侯嬰であった。

「落ち着け、信。まずは馬から降りて跪くのだ。そして今の礼儀を失した言動を詫び、赦しを請え。話はそれからだ」


 韓信はしかしこれを黙殺し、なおも劉邦に向き直った。

「大王、ご返答を」


 慌てた夏侯嬰が声を荒げた。

「信!」

「夏侯嬰っ! 車馬を管理する太僕(職名)に過ぎぬお前が軽々しく私の名を呼ぶな! 今の私は斉王だぞ! お前こそ車を降りて跪くのだ!」

 韓信は目を怒らせ、夏侯嬰を一喝した。これも常にないことである。

「落ち着けったら! 確かに今の君は王で、俺などは及びもつかない存在だ。だが、昔のことを忘れたわけではあるまい。君の才能を第一に見抜いたのは、この俺なのだぞ。その恩を忘れたわけではないだろうな」

「ああ、そのとおりだ。確かに君には感謝している。私が今斉王として君臨しているのは、連座によって罪を着せられた私を君が救ってくれたからだ。しかし! それを恩に着せて私の前で野放図な態度で振る舞うな。君ほどの重鎮がそのような態度を見せると、馬鹿な者の中にはその形だけを真似ようとする奴が出てくるものなのだ。跪け!」

「…………!」


 二人の間に一触即発の空気が流れた。夏侯嬰はそれまで握っていた手綱を離し、腰の剣に手をかけた。

 それを見た韓信も剣を抜き、振り払って構えた。剣が空気を切り裂く「ひゅぅ」という音が、あたりの静寂をぬってこだまする。


「よさぬか」

 その静寂を破ったのは、劉邦の声であった。

「嬰、剣の柄から手を離せ。斉王が話している相手はお前ではなく、このわしだ。王同士の話し合いだ」

「は……」


 夏侯嬰は結局韓信に跪くことはしなかったが、それを機におとなしくなった。やがて劉邦は車を降り、地に両足をつけて立ち、韓信と向き合う。

 韓信もこれにならい、馬から降りた。最低限の礼儀であった。


「まずは、大王……。なぜこのようなところにいらっしゃるのかお聞きしたい」

「項羽の葬儀に参加してきたところだ。今は、その帰りよ」

「ほう……では、灌嬰は見事項王を仕留めたのですな……。それはそれで結構。天下はあなたのものになったわけだ。その覇者たるあなたが、なぜ私の軍を襲う?」

「……信よ」

 夏侯嬰に向かって軽々しく呼ぶなと怒ってみせた韓信の名を、劉邦はさりげなく、しかもぬけぬけと呼んでみせた。

「単刀直入にいう。お前はつけ上がっているぞ。確かにお前の軍功は大きく、指揮能力は余人の追随を許さぬものだが、そんなお前でも万能ではない。そこでわしはお前の軍を破り、お前から兵を奪った。それを証明するために」

「! 意味の分からないことを……。臣下の兵を主君が武力をもって奪うという話など、今まで聞いたこともない。武勇を自慢し、証明したいのなら敵に対してすればよいではないですか」

「お前は、敵よりも恐ろしい。今はそのことにお前自身が気付いていないだけだ。わからぬか? わしがお前なら……迷わず天下の覇者の地位を狙う」

「馬鹿馬鹿しいことを! 大王は大王のままでも天下を狙ったではないですか。私は……その手助けをしただけだ。私自身にはそんな気はない」

「お前がどう思おうと、関係ない。重要なのは、お前の意志ではなく、能力なのだ」


 韓信は、あきれた。あきれてものも言う気がしない。

 しかし、だからといってひれ伏すのも嫌だった。筋の通らない指示に従うことほど、彼にとって面白くないことはない。


「お言葉ですが」

 韓信は右手に持ったままの剣を強く握り直し、劉邦の目を見据えて言った。

「後方の兵を強奪することで私の勢力を割いたとお考えになるのは、間違いです。奪われた兵はせいぜい二、三万に過ぎません。それしきの兵力の喪失で私の軍が弱くなることはない。三十万が二十万、いや、十万でも私がその気になれば……」

「わしを殺すことができるというのか? 恫喝か、それは? だからこそわしはいくらでもお前の兵力を削ぎたいのだ。いっそ二度と兵の指揮がとれぬよう、お前の頭脳を破壊してやりたい。しかし、それはお前を殺すことだ。わしがそれをしないのは、ひとえにお前のこれまでの功績に感謝しているからなのだ」


 韓信の顔にますます怒りの色が浮かんできた。

――よくも、ぬけぬけと……。

「私は大王に殺されるべき存在だというのですか? いや、私は今まで一度たりとも叛逆をほのめかしたことはなく、私がこれまでしてきたことは、すべてあなたを利する結果となったはずだ。そのような者に対して、いきなり武力を行使して兵を奪うとは……甚だ心外だ。兵が欲しいのなら、差し上げましょう。ですが……なぜ口で、言葉にしてそう言ってくれなかったのです?」

「お前は臣下としての自分の立場をわかっておらぬようだな。本来臣下というものは、主君に生殺与奪の権を握られているものなのだ。そもそも項羽を倒し、天下の覇者となりえた主君たるこのわしが、兵を奪うのにわざわざおまえの許可を得る必要があるというのか!」

 劉邦は、主君の権威を自分に植え付けようとしている。

 それが理解できない韓信ではないが、おとなしく従う気にはどうしてもなれないのであった。死を命じられれば、死ぬしかない、そんな存在に自分がなることは認められなかった。


「今、大王は項王を倒し、天下の覇者となりえた……その事実は認めましょう。臣下は覇者の命令を聞かねばならない……それもわかります。しかし、大王は大事なことをお忘れになられている。……功ある者をそれにふさわしい態度で迎えなければ、その忠誠は失われる。いったい私の忠誠はどこに向けられるべきか? 大王は私の忠誠が不要なのか!」

「お前の忠誠はうわべだけのものだ。お前は、わしが死ねと命じても死ぬことはない。しかし、わしが今まで窮地を脱してこられたのは、そのような死士たちがいたからなのだ。お前の功績は、彼らに及ばぬ」

「仮にそいつらが生きていたところで、私と同じ働きが出来たかどうかは疑問ですな。よいか大王、あえて言わせていただきます。事実上、項王を倒したのはこの私だ! あなたの言う死士が具体的に誰かは知らぬが、彼らに項王を倒すことができたというのですか」

 韓信の本音がついに出たかのような発言であった。


「信! そんなことを言うな! 臣下の功績は、主君に帰せられるものだ。そんなことぐらいお前にも理解できるだろう。子供でもわかることだぞ!」

 夏侯嬰がまた騒がしく叫んだ。韓信には、嬰が自分を心配して叫んでいることがわかる。

 しかし、それをありがたく感じるだけの気持ちの余裕が、このときの彼にはなかった。

「うるさい、黙れ、嬰っ!」


 韓信は感情をあらわにした。そもそも駆け引きをしようとしていたわけではない彼の気持ちが、そこに表れている。

「よせ。功臣たちが相争う姿を兵の前で見せるな。……信、お前の言いたいことはわかる。確かにお前に死なれては、天下統一の業はならなかった。わしとて感謝はしているのだ……。しかし、あえてわしはお前に言わざるを得ない」

「なにを」

「お前が先刻夏侯嬰に向けて言った言葉と同じことだ。お前ほどの重鎮が軍功を鼻にかけて、わしの前で野放図な態度で振る舞うな。馬鹿な者の中には、お前のそのような態度を形だけ真似ようとする奴らが出てくるものだからだ」

「…………」


 なにも言い返せない。韓信は自分の立場を理解せざるを得なかった。軍功随一の彼は、軍功随一であるがために、見せしめにされようとしているのであった。

 劉邦の言う「馬鹿な者」とは、彭越や黥布のことを指すのだろうか。それとも趙王張耳や燕王臧荼(ぞうと)。あるいは韓王信……。彼らを統御するために自分は屈辱を受けながらもそれに耐えることを強いられているようであった。


 あるいは、自分は滅ぼされるかもしれない。彼らが増長し、権利を主張し始めることになれば……。

――軍功随一の韓信でさえ、粛清される。我々など彼に比べれば、くずのような存在に過ぎぬ。彼が殺されたのだから、我々もいずれ……。

 諸侯たちがそう考え、おとなしくしていれば、劉邦としてはやりやすいに違いない。


――私は、やはり道具に過ぎぬ。

 韓信はそう考え、これ以降、自分のこれまでの行動を後悔するようになった。


「信のやつめ。あいつはすっかり変わりましたな。昔はあんなことを言う男ではなかったのに」

 夏侯嬰は去りゆく韓信の背を眺めながら、なんとも悔しそうに呟いた。


「いや」

 劉邦は感心したようにそれに答える。

「昔のあいつは、軍事を極めようとするただの学生のようであったが、すっかり頼もしくなった。このわしを恫喝してみせるとは、やはり奴もいっぱしの王のひとり、ということよ」

「それは……褒めているのですか? それとも……」

「どちらとも言えん」


 臣下の成長を喜ぶと同時に、その危険を考えざるを得ない劉邦の微妙な心理がそのひとことにあらわれていた。が、夏侯嬰はそれに気付かない。


「聞くところによると、韓信は例の……魏の公女を失ったとか。奴の性格が変わったのはそれが一因ではないかと思われます」

「魏の公女? あの魏豹の娘を失った? 死んだのか」

「斉国内のちょっとした内乱が原因で命を落とした、と聞いております」

「ふうむ……。では、もしかしたら奴は、単に捨て鉢になっているだけかもしれぬな。しかし、人というものは大事なものを失ってからこそ、真価が問われる。奴がどう変わっていくのか、今後は見ものだな」

「? あまり意味がよく分かりませんが」

「あいつはもともと……何と言えばいいのか……面従腹背の男だ。表面的な態度は柔らかいが、心の底では誰も信頼していない。そんなあいつが愛した女が、魏豹の娘であった。おそらく魏豹の娘は、韓信の欠点を補い、奴が道を誤らないように導いたことだろう。わしも何度かあの娘を見たことがあるが、そのとき受けた印象が、そんなものだった。お前も彼女を見たことがあっただろう」

「私は、女は外見しか重要視しないたちですので……。しかし、それを失った韓信は?」

「導く者を失って道を誤るか、失った者の生前の教えを尊重して正しく生きるか、そのどちらかだろう」


 劉邦はそう言って識者ぶった表情をしてみせた。

――元来ぐうたらで、やくざのような生活をしてきた漢王などに、人が正しく生きる道などわかるのだろうか?

 夏侯嬰は、ひそかにそう思った。劉邦の付き人のような存在の嬰でさえそう思うのだから、もし韓信本人がこの言葉を聞いたとしたら、怒りをあらわにしたかもしれない。

「お前に、人の道のなにがわかるというのか!」

と。


 右手に握られた剣は、振り回す機会を与えられないまま、鞘に納められた。

 あるいは韓信が劉邦に叛意を示し、殺そうとしたとすれば、このときが最後の機会であったかもしれない。しかし、忠義のために命を捨てる死士とまではいかなくとも、常識的な意味での忠誠心をもっていた彼は、それがために思い切った行動はとれなかった。

 だがそのために、未来は彼の予見したとおりの方向に動いていくのである。


↓次の話:第30話 皇帝と楚王

↑前の話:第28話 抗争の終わり

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