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【連載小説】韓信 第30話:皇帝と楚王

第4部

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

皇帝と楚王

 韓信は自らに厳しい男であり、本質的に他人にもそれを求めるところがあった。彼がかつて世話になった者たちに恩賞を与えながら、以後の行動に釘を刺したという事実は、彼のその性格をよく示すものであろう。しかし民衆というものは、基本的に堅苦しい生活を嫌い、自堕落に過ごしたいと願うものなのである。彼らにとって「よい政治」というものは、自分たちを放任してくれるものであったのだ。それが自主自律の努力を伴うことも知らずに。

 残念なことに韓信の統治策は、人々に反感を抱かせた。


 紀元前二〇二年二月二十八日、劉邦は皇帝を称した。

 型通り二度辞退し、三度目で受ける。これこそ権力欲をあらわにしないための礼儀作法であり、「自分はそんな柄ではないが」と謙遜し、「諸君がどうしてもというならば」という形をもって至尊の位につくのである。

 いかにもわざとらしく、当時でもしらじらしい印象を受けた者はいたことだろう。


 その劉邦は臨時に帝都を雒陽(洛陽・火行に由来する漢は水に由来するさんずいを忌み、洛陽を雒陽と改名した)に定め、その南宮で酒宴を催した。

 その酒宴の場で皇帝は、配下の者たちに問うたという。

「君たちは隠すことなく、朕に思うところを述べてみよ。わしがどうして天下を得ることができたのか、さらには項羽がどうして天下を失ったか」

 このときの劉邦の一人称は、「朕」と「わし(吾)」が並存している。形にこだわらなかった彼の性格が、史書の記録に残されている良い例だといえよう。だがこのとき、彼はまだ自分の皇帝という立場に慣れていなかったのである。


 それはともかく、この劉邦の問いに対して、ある高官がこう答えた。

「陛下は人を見下げて侮ってばかりですが、項羽は仁義に厚く、慈愛に満ちた態度で人に接します」


 これなどはおよそ皇帝に対する話し方ではない。中国の皇帝というものは、人々にとってほぼ神に等しく、臣下が直接話をすることも許されない、というものが一般的な概念であるが、この高官は面と向かって皇帝の欠点をあげつらっているのである。

 これも劉邦が屈託のない性格だったことを示す一例である。そしてやはり、まだ皇帝の権力が完全に確立されていないことを示してもいるのだ。


 高官は話を続けた。

「ただ陛下は、人に城を攻略させた際、功ある者にその城を惜しみなく与えました。項羽は賢者を疑い、能者に嫉妬し、土地を得ても人に与えなかった。これこそ、彼が天下を失った理由です」

「ふうむ!」

 劉邦はこれを聞き大きく鼻息を漏らした。不満とも面白がっているともとれる仕草である。


「いかがでしょう」

「公は一を知りて二を知らぬ」

 見識が狭いことを示す荘子の言葉である。学がない劉邦でも用いることができる当時の慣用句であった。


「聞け。はかりごとを巡らし、勝利を千里の彼方から決する能力においては、わしは子房(張良)に及ばず、国家人民を鎮撫し、糧食を絶やさず士卒に給することでは、わしは蕭何に及ばない。また、百万の軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ずとる能力……。この能力において、わしは韓信に及ばない。この三人は皆、揃って人傑であるが、わしはこの三人をよく使うことができた。これこそがわしが天下をとった理由である。それに対して項羽はたったひとりの范増をよく使うことができなかった。これがわしに敗れた理由なのだ」

 そう言って、劉邦は笑った。あらかじめ用意していた文章のようであり、言いたくてたまらなかった台詞のようであった。


 そばでこれを聞いていた夏侯嬰の目に、涙が浮かんだ。

 感動したのではない。あくびをかみ殺していたのである。

――結局は自分が答えるのなら、最初から下問などしなければいいのに。

 三人の人傑を今後どう扱うか……使うことができたと豪語する皇帝に、彼らがいつまで使われる立場に甘んじるか。それが懸念材料である。

――お上が笑っていられるのは今のうちだけかもしれない。

 このとき彼が心配したのは、張良や蕭何のことではなく、やはり韓信のことであった。


 しかし、なぜそこまで彼が不信の種となるのか。これまでの流れを考えると、責任は韓信にあるのではないようである。

 おそらくは、この時代に生きる人々の多くが、「自分が韓信であったら」と考えたからであろう。自分が韓信であれば迷わず天下を狙う、だから彼が狙わないはずがない、と。

 野心家たちの権力欲に取り付かれた考え方が、韓信本人の意向を無視し、一人歩きしていたのである。


「西の秦、東の斉」とは当時よく用いられた言葉である。天然の要害に守られたこの二国がかつてともに強勢を誇り、最後まで覇権を競い合ったことから生まれた言葉であった。

 これが漢のような統一国家の時代になると、誰にこの地を守らせるか、という問題になってくるのである。防備に適した土地は、そのまま独立国家になってしまう可能性をもっているからだ。

 かつての秦の土地は、関中である。これは漢が直接統治していたが、一方の斉の地は、韓信が統治していた。

 これは重要な問題であった。攻め込みにくく、守りやすい軍事上の要衝を、当代きっての名将が統治することは、危険きわまりない。

 このことから、劉邦は韓信に国替えを命じることを早くから決めていたと思われる。韓信が心変わりをして、叛旗を翻さないうちに。言うことを聞くうちに命じるつもりだった。


 結果、韓信は楚王に任じられた。七十余城を有する大国家の斉に比べると、このとき定められた楚の領土は五十余城に過ぎず、勢力は実質的に劣る。しかしなんといってもかつての領主である項羽亡き後、その地を治めるのは大役といってよく、大変な名誉であったことは間違いない。なおかつ韓信自身が楚の出身であり、「故郷に錦を飾った」ということでもあるので、栄転であることには違いなかった。

 しかも韓信の自尊心を傷付けることなく勢力を削いだ。これは劉邦の行った絶妙の人事だといえるだろう。


 では、斉はどうしたのかというと、劉邦はしばらく王位を空位のままにしておいた。

 かの地には曹参がおり、彼に任せておけば大過なく治まるだろう、と踏んだのである。少なくとも韓信に任せておくより空位のままの方が不安が少ない、そう思ったのであった。しかし、もちろんいつまでもそのままにしておくわけにもいかず、後に劉邦は自分の息子である劉肥に斉王の地位を与えている。


 臨時の首都であった雒陽から関中の櫟陽に首都を移し、次々と諸侯の封地が定められていく。

 主だったところでは、韓信が楚王となり、下邳を都にしたほか、

 淮南王として黥布、都は寿春。

 梁王として彭越、都は定陶。

 燕王として臧荼。都は薊。

 趙王として張耳。都は邯鄲。(ほぼ同時期に張耳は死去し、息子の張敖が跡を継いでいる)

 韓王として韓(王)信。都は陽翟。(以後、匈奴への備えとしてかつての代の地にあたる太原郡を韓王信の封地とし、韓と称させている)

 などが挙げられる。しかし、早くも七月には燕王臧荼が謀反を起こして滅ぼされ、劉邦と同年同日に生まれた親友の盧綰が燕王に封ぜられた。


 これらの諸侯国はすべて大陸の東側に集中し、漢の覇権のもと、存続を許された。一方の西半分は漢の直轄地とし、いくつかの郡に分けられ統治される。

 かつての秦の統治策であった郡県制と、周代以来の封建制が入り交じったこの体制は、郡国制と呼ばれることになった。


 しかし、これが漢の統治体制の完成形というわけではない。中央は地方に必要以上の勢力を持たせぬよう尽力し、常に警戒の目で諸侯を見張ろうとする。首都への参勤の義務を諸侯に課してその財力を奪おうとしたほか、北の国には匈奴へあたらせ、中央の防波堤としたりした。

 そのような状況に諸侯が不満を募らせて叛意を見せると、滅ぼして劉姓をもつ親族を新たな王に任命するようになったのである。


 しかし、それは後の話であり、このときは生まれたばかりの制度に誰もが浮き足立っていたに過ぎない。


 楚王となった韓信が都の下邳に移り住み、初めて行ったことは政策的なことではなく、過去の清算であった。


 まず彼は人を遣って淮陰の城下から、綿うちにいそしむ老婆を召し出した。韓信が若い頃、貧窮して釣りをしながら生計を立てていたときの恩人である。

 召し出された老婆は、下邳の宮殿の中で王と対面し、ようやく事態が理解できた。

 かつてひもじく暮らしていた若者を助けた記憶は確かにあったが、よく考えてみれば、名も知らない。王の名は韓信だと聞かされても、それが自分にとってなにを意味するのかよくわからないまま、やってきたのである。


「元気か、媼……。私を覚えているか」

「…………」

 ひれ伏した老婆は恐れ、なにも言うことができない。ただ素振りのみで相づちを打つだけであった。


「では、あのとき私が別れ際にいつか恩返しをすると言ったことも覚えているだろう。私は口からでまかせを言ったつもりはない。しかし、媼。貴女は私の言葉を信じず、鼻で笑って侮辱した。覚えているだろう」

「……確かに覚えておりまする……あのときの私の不遜な態度は、万死に値します。どうか、この老体を捧げますゆえ、家族には手を出さないでおくれまし」

「そんなつもりはない。私は以前に発した自分の言葉を実行するために媼を呼んだに過ぎぬ」


 韓信はそう言うと、近侍の者に命じて黄金千金を老婆に与えさせた。

 恐縮する老婆に向かって、韓信は言う。

「媼。あのときの自分の言動が万死に値すると思うのなら、止めはしないから自害せよ。私は殺さぬ。しかし、反省して後の行動を正す糧とするならば、わざわざ死ぬことはない。その金を使って楽しく余生を過ごせ。これで私と貴女の人生における貸借はなくなったのだ」


 続いて韓信は、下郷南昌の亭長を召し出した。

 以前行き倒れのような生活をしていた韓信を助けて世話をしながら、手のかかることを理由に細君が嫌がらせをするようになり、その結果絶交することになった人物である。

 その南昌の亭長に、韓信は百銭を授けながら言った。

「貴方は、心の小さいお人だ。人に目をかけておきながら、どうして最後まで面倒を見ようとしなかったのか」

「申し訳ございません」

 心だけでなく気も小さかった亭長は、そう言ってひれ伏すばかりである。しかし、結果から考えれば、彼の行動は正しい。

 亭長が最後まで韓信の面倒を見てやったとしたら、韓信の今の姿は彼のあとを継いだ亭長に過ぎなかったかもしれない。王となりえたのは、彼と袂を分かったのち、韓信が成長したからなのである。


 韓信は最後に亭長に向かって言った。

「その百銭を貴方の細君に示し、以後は出しゃばった真似をするなと強く言え。もっとも、貴方の細君が出しゃばったからこそ、現在の私があることは確かだが……おそらく、そんな巡り合わせは二度とないだろう」


 また、韓信はある男を召し出した。名も知れぬ男だったので、あるいは見つからないかもしれないと思っていたのだが、このようなとき、王権というものは便利なものである。人を使って国中をくまなく探させる、ということが容易にできるのであった。

 召し出された男は、かつて韓信が股をくぐらされた男であった。

 因縁のあるその男を前にして、韓信は周囲の高官たちに向かい、品評するように話す。高官たちは、韓信が彼を斬るのではないか、と内心で心配した。


 ところが、韓信の口調は落ち着いていた。

「こいつは、なかなか立派な男だ」

「どんなところが、でございましょう?」

「……私の剣が実質的に飾り物であることを、こいつはひと目で見抜いた。酔っぱらっていたにもかかわらず……。なかなか眼力のある男だと言わねばならない」

「ほう……」

「こいつは、公衆の面前で、私に恥をかかせた。私は恥を忍んでこいつの股の下をくぐったわけだが……。私はその後、多くの戦いを経験し、今に至って王の身となったわけだが、思えば私を戦いに駆り立てた原動力は、こいつが私に与えた仕打ちなのだ。感謝しなければなるまい」

 こういう台詞を韓信は真顔で話すので、聞いている者にとっては、それが皮肉なのか本心を語っているのか、よくわからない。

「男よ、聞け。あのとき私はお前を斬ろうと思えば斬ることができた。……そうしなかったのは、お前のような者を斬っても私の名があがることはない、と思ったからだ」

「……その通りでございます」

 男は恐縮し、震え上がった。今、この場で斬られると思った。


「お前の言う通り、当時の私は人を斬ったことがなかった。その意味では確かに私の携えていた剣は飾り物に過ぎなかったかもしれない。だが、教えてやろう。あの剣はまさしく本物で、私は今も変わらずそれを携えている。あれ以来この剣は多くの者を斬ってきた。お前がその中のひとりにならずに済んだのは、……途方もなく幸運なことなのだ」

「おっしゃる通りでございます」

「聞き分けがよいな。お前がそんなに聞き分けがよいのは、私が怖いからか? 平民の私は恐れず、王の私は恐れる……私が私であることには変わりがないというのに」

「……返す言葉もございませぬ」

「まあよい。以後は私のもとで働け。中尉(町の警察長官を示す)の職を与えてやる」

「……は?」

「帯剣した相手に素手で立ち向かおうとしたお前だ。胆力には自信があるのだろう。その胆力を間違った相手に向けるのではなく、悪党どもに向けるがいい。せいぜい権威を笠に着て、世の悪者を取り締まることだ」


 韓信のこれらの行為は、温情的な措置に見えないことはないが、やはりすべて復讐なのであった。

 老婆や亭長には恩もあるが、怨もある。

 中尉に命じた男には、実のところ怨しかない。

 しかし韓信は彼らに誅罰を与えることで旧怨をはらそうとはせず、逆に彼らに恩を売った。彼らは、かつて蔑んだ韓信の庇護のもとで暮らしていくことになるのであり、過去の自分たちの行為の浅はかさを一生後悔しながら生きていくことになるのである。

 彼らが自害でもしない限り、その後悔は消えることがない。


 故郷に関わる過去を清算しようとした韓信には、もうひとつやるべきことがあった。

 それは母の墓を整備することである。

 町を見下ろす小高い丘の上に置かれた墓。それは若年期の韓信の暮らしを象徴するかのように粗末なものであり、しかも戦乱が続いた数年の間、なんの手入れもされず、ほとんど雑草に埋もれかけていた。

 王母の墓としてはあまりにも貧相であり、韓信としては、せめて墓石を覆う草を取り除き、丘を切り開いて周囲に万軒の家が立ち並ぶようにしたい、と思ったのである。当然領民から上がってくる租税を利用しての整備となるが、それぐらいの贅沢は許されるだろうと判断してのことであった。

 その思いが叶い、実際に土木の責任者と現場で打ち合わせをしているときであった。草むらの陰で人の気配を感じた韓信は、身の危険を感じ、飛びすさりながら叫んだ。

「誰だ!」

 その誰何の声に、反応があった。気のせいではなく、確かに長い枯れ草の陰に誰かが潜んでいる。

「危害を加える意志はない。……どうか、人払いを」

 草むらの中から、男の声が聞こえた。相手は一人であるようだった。そして、その声は聞き覚えがあるような気がしないでもなかった。

――一人ならば……。

 敵意がある相手でも対抗できる自信はある。そう思った韓信は、近侍の者に丘から降りるよう顎で示し、静かに剣を引き抜いた。

「出てこい」

 その声に応じて姿を現した男に、韓信は愕然とした。

 彼には清算すべき過去がまだあったのである。それを忘れかけていた自分が愚かしく思えた。

「眛……!」

 草むらの陰から現れたのは、頬が痩けて以前よりやつれてはいたが、紛れもなく鍾離眛の姿をした人物だったのである。


「生きていたのか」

 二人の再会は、劇的なものであったが、双方にとって心から喜び合えるものではなかった。

 韓信は鍾離眛が自分を殺しにきたのではないかと疑い、鍾離眛は会いにきたものの、韓信が自分を受け入れてくれるかどうか確信がなかったのである。二人の間には、お互いに探りを入れる態度が見え隠れした。


「信……まだ、その剣を」

「うむ。……親父は、いい贈り物をしてくれた。この剣は、長らく続いた戦乱を生きぬき、ついに折れることがなかった。しかしだからといって大事に隠していたわけではない。この剣は多くの者を斬った。……時には望まぬ相手も」

「……そして、その剣は私の首も斬るのか」


 眛の言葉にはっとした韓信は、剣を鞘に戻し、態度を改める。

「私が君を斬るはずがないだろう……。君次第だが。さっき君は、危害を加えるつもりはない、と言った」

「その通りだ。嘘ではない……実は、君に頼みがある」

 韓信は内心の不安を隠し、鍾離眛を信用することにした。人を信用することをあまり得意としない彼であったが、それでも心を許せる相手はこれまでに何人かいたのである。

 もっとも付き合いの長い眛が、自分を殺そうとしているとは、さすがの韓信も、考えたくはなかった。


「言ってくれ」

「……君の母上の墓で待っていれば、いずれ君は現れると思っていた。君の母上を弔ったことが、遠い過去のように思える。なぜ、こんなことになったのか……いや、すまぬ。余計なことだった。率直に言おう。……助けてほしい。匿ってもらいたいのだ」

「! 驚いたな……。君だけか? 部下の者はどうしたのだ」

「散り散りになってしまった。彼らがどうなったのか、私は知らない。私は、ただ一人路頭に迷い、こうして身を潜めている。君とは別の運命を選んだ結果が、この有り様だ」


――あの気位の高かった眛が、たった一人、墓の前で……。

 そう思うと、哀れである。しかしあえてそのことには触れまい。生き残ったことは幸運に違いないが、潜伏の日々は眛にとって耐え難い屈辱であったことだろう。


「有り様などと……そんな言い方はよせ。私としては、君一人だけの方が匿いやすい。お互いに死地をくぐり抜けて、こうして再会できたのだ。私が君の頼みを聞かないはずがないだろう」

「そうか……そう言ってくれると、助かる」

 韓信は結局鍾離眛を自分の屋敷に匿い、世話をすることにした。

 しかし、これはかなり危険なことである。朝廷は、楚の残党を見つけた者に報告の義務を課しており、どれだけ長い期間にわたって眛を匿い続けたとしても、ほとぼりが冷めるということはないように思われたのである。

 ましてや彼はただの残党に過ぎぬ人物ではなく、楚の宿将であった。皇帝が見逃すはずがない。


 韓信としてもそれに気が付かなかったはずがなく、自分が危ない橋を渡ろうとしていることを自覚していた。しかし、だからといって親友を見捨てる気にはなれない。

 それは、この時代の社会が共有していた「義」の感覚に基づくものによる。かつて項伯が旧縁の張良を通じて劉邦の危機を救ったように、義の概念は、敵・味方という関係の上にあるものなのであった。

 つまりこの時代の人々にとって、個人的な誼は、公的な関係を上回る。


――皇帝も、かつては敵の重鎮に危機を救われたことがあった。だとすれば、私が敵の重鎮を匿ったからといって……眛自身がなにも怪しい行動を起こさなければ……問題は起きないだろう。このことで私の罪を咎めるとしたら……それは過去の皇帝自身の行為も許されぬこととして認めることになるのだ。

 韓信はそう考えた。しかしこのことがのちの彼の運命を決定づけることになる。見通しが甘かったと言えばそれまでだが、自分が皇帝を裏切ったという感覚は、彼にはない。

 もし真相が暴かれたとしても、話をすればわかってもらえると思っていたのである。

 あるいは彼は、自分が皇帝と対等に話をできる特別な存在だと無意識に自覚していたのかもしれない。しかし、これを人に言わせれば、「つけ上がっている」ということになるのである。


 韓信の統治者としての能力に関しては、記録にはあまり残されていない。

 ごくわずかに、韓信は国入りした当初から、県や邑を視察して回り、その際に軍兵を引き連れ、重厚な隊列を組んで行動した、という記述がある。

 戦いが終わり、大勢が定まったとはいえ、王朝創業時における油断できない世の中である。どこかに反乱分子が潜んでいるかもしれず、常にそれに対する警戒を解かなかった、ということがその行動の一因としてあるのだろう。

 しかし、はたしてそれだけであろうか。

 想像するに、おそらく油断できないと感じたことは間違いない。だが、彼の警戒心はどこかに潜んでいる反乱分子だけではなく、民衆にまで向けられていたように思われるのである。


 世に出る前から何度となく自分を取巻く人々の予測不可能な行動や言動のために屈辱を味わい、将軍として戦うようになってからも、人の変心や裏切りを幾度となく目にしてきた彼にとって、憎むべきはうつろいやすい人の気持ちであり、利に傾きやすい人の心であった。

 当時の社会には道徳観念として、義や仁、孝の精神はあったが、それらはいずれも個人に関する行動原則であり、公的な意味合いは薄い。

 当時の人にも他者を思いやる心がないはずはなかったが、それが「忠恕」という概念として一般民衆の間に浸透していくのはもう少し先の話である。

 つまり、当時の社会は身内に対しては手厚く接するが、赤の他人に対しては酷薄な社会だったのである。

 極端に言えば、自分たちの利益のためには、他者を陥れても構わないというのが春秋時代以来のこの大陸の習わしであった。それを時代の変化にあわせて正そうとしたのが法であり、秦はこの法に基づいて民衆を統治しようとしたのである。


 楚における韓信の行動も、それに近いようである。

 城中を重厚な軍列が闊歩するという殺伐とした光景は、韓信の民衆に対する示威行動であり、法や軍律で社会を統治しようとした意志の現れではなかったか。あたかも邑や里に存在する小さな悪事も許さない、とでも主張しているかのようであり、もし韓信が潔癖な性格であったとすると、充分ありそうなことに感じられるのである。


 しかしこれはあくまで私の想像であり、事実そうであったかどうかは、わからない。韓信の思念はこの点に関して、非常に曖昧模糊としているのだ。つまり彼はなにも考えず、このような行動をとっていたことになる。要するに、彼にとって政治というものは、当然そのようなものであったのだ。

 ただひとつ確実なことは、韓信の軍による統治を民衆は好ましく思わなかった、ということぐらいである。

 翌年(紀元前二〇一年)になると、皇帝劉邦のもとに韓信の謀反を訴える上書が届けられた。

 

 このとき漢の中央は楚の残党狩りに熱心で、懸賞金をかけて捜索させていたころであった。よって、韓信がひそかに鍾離眛を匿っていることを知った者が、そのことを密告したのである。

 櫟陽の朝廷は、その密告の話題で持ち切りとなった。


「鍾離眛は、一人ではなにも出来まい。放っておいても構わないではないか」

 そう言ったのは、蕭何である。人というものは追い込まれると悪事を働く、というのが彼の持論である。厳しく取り締まることは、かえって状況を悪化させるように思われ、鍾離眛を捕らえることにも、韓信を誅罰することにも気が進まない。


「鍾離眛ごときは、問題ではない。重要なのは、奴の後ろ盾に楚王韓信がいることだ。韓信と鍾離眛が結託して、朝廷を転覆しようとすれば……相手は韓信なのだ。我々としては、ひとたまりもない」

 周勃が反論する。何度か将軍として韓信の指揮下で戦ってきた彼は、韓信の武勇を恐れ、そのことに危機感を抱いているようであった。

「しかし、確かに密告はあったが、それが事実かどうか、まだ確認は取れていない。仮に内容が事実だとしても韓信が朝廷を転覆しようとするとは限らん」

「蕭相国! 相国は実際に戦闘をした経験がないからわからんのだ。楚王韓信の軍事的才能は、並ではない。わしは京・索でも垓下でも彼の戦いぶりを間近で見てきた。奴の指揮のもとに戦えば、いくさ下手な将軍ばかりが配下として名を連ねていたとしても、最終的には勝ってしまうのだ。そんな男を敵に回したくない。味方でいるうちはいいが……鍾離眛隠匿はいいきっかけだ。これを機に処断した方がいい」


「周勃……いくさ下手の将とは、お前自身のことか?」

 議論の場に失笑が起きた。

 発言の主は、皇帝の劉邦である。このときの劉邦は、どこか眠たそうな態度であり、会議そのものに気乗りしない様子であった。ことさら冗談めかして周勃を笑い者にしようとしたのは、その現れである。


「否定いたしませぬ。韓信に比べれば、私などはいくさ下手と揶揄されても仕方がありません」

 答えた周勃の表情は、真剣そのものである。彼は、議題を冗談の種にしてうやむやにしてしまうことを許さなかった。


「では、ためしに聞くが、この中に楚王韓信と戦って勝てると思う者はいるか」

 劉邦は聞いたが、誰も反応しない。

「樊噲、お前、どうだ」

「めっそうもございません。手前などは、ただ目の前の敵を殺すばかり……楚王のような百里をも見通す戦略眼は持っておりませぬ。ですが、やはり見逃してはならない事態だと……楚王は誅罰すべきです」

「夏侯嬰は」

「同感です。しかし、その方法が問題でして……楚王と戦って勝てるか、と聞かれれば、とても無理です、としか答えようがありません。馬の扱いなら勝てましょうが……」

「ふふ。話にならんな! ……灌嬰、お前は?」

「私は……楚王を捕らえたり、誅罰したりすることには反対です。そもそも楚王は武勇のみならず、智においても、今この場にいる誰より上回っておいでです。知勇兼ねそろえる、とはまさに楚王のようなお方を指していうのであって、無力な我々が浅知恵を振り絞って戦ったとしても、とても勝ち目はありません。まして、楚王は人格的にも、すぐれたお方です。かつて項羽は楚王を自軍へ迎えようと誘いましたが、賢明な楚王は皇帝への臣従を誓い、それを断ったのですぞ」

「そのことは、お前にいわれずとも既に知っている。わしは、お前に韓信に勝てるかどうかだけを聞いているのだ」

「……勝てません。とても」

「そうか。軍事では勝てないとあらば、策略を用いるしかないな。……陳平! ここにいる者たちに仔細を説明せよ」


 御前会議の場に、策士陳平が呼ばれた。

 韓信のもとに仕えること長く、その性格を知り抜いていた灌嬰にとって、嫌な予感がしたことは言うまでもない。


↓次の話:第31話 楚の宿将の最期

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